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私は子供の頃からドッジボールが嫌いだった

  理由は簡単。運動神経が悪かったからだ。特に球技は絶望的で、私は球を投げることに全く向いていなかった。だからドッジボールが始まればいつも必死に飛び交う球を避けるだけで、特に試合終盤などになれば球に弄ばれて珍妙な姿勢をさらす別競技を行っていた。

 
 
  またドッジボールが好きな人種というのも大抵、好戦的というか何も考えていないタイプである。ドッジボールがしたいと思えば、豪速球飛び交う戦場で人が必死の形相でブリッジをとることになろうともお構いなしなのである。巻き込まれる身としてはたまったものではない。

  

  しかし、私の様な意見にも関わらずこの球技は学生の間の人気種目である。春のスポーツ大会、体育の時間、昼休みの暇つぶしなど様々な時間にドッジボールは訪れる。そもそもドッジとは避けるという意味なのだから私の様な人間こそが真のドッジボールを行なっていると言ってしかるべきだ。だが私が内心どんなにドッジボールを退屈な時間だと思っていても、運動部の陽キャの一言で嫌悪すべき球遊びは開催されてしまうのである。彼らには私のちっぽけな存在は目に映っていない。一体何を考えているのかと問えば、彼らは何も考えていないのだ。ドッジボールに脳を支配された人間はかくも恐ろしい。

  

  ドッジを通じて私が知り得たことといえば、社会の意見が対立した際、より動物的な方が得をしがちだということだけだろう。子供が学び舎で学ぶのは勉強だけではないとはよく言ったものである。わたしは運動音痴だったから大抵の運動というものに魅力を感じなかった。しかしこの球技は特に開催頻度が多く退屈だという点で私の貴重な時間を奪った厭わしい遊びなのである。

 
 
  はたして海外ではドッジボールというものは行われているのだろうか。これは日本の学校だけに伝わる悪しき因習ではないのか。生徒同士がレクリエーションを行うために何かスポーツを行うことがあるのは百歩譲って理解できる。しかし当たるとタダでは済まないような球をビュンビュン投げ合う競技を頻繁に開催するのはやめてほしい。退屈な上に危険であるとは何事であろうか。グラウンドに引いたコートの上を砂埃にまみれながら逃げ回り、人が球を投げ合っている姿を見て何が面白いというのか。 

  

  ドッジボールはボール一つとコートがあれば成り立つという優秀な競技である。しかしそろそろもう少し別な競技をスタンダードにするべき時期が来たと私は思う。しかしこんなことを私がぐちぐちと言ったところで、ドッジボールの魔力に取り憑かれた人間に効いた試しはない。あなおそろしや。彼らは動物的本能に従って面白い競技をしているのであり、図書館の隅で震えている私の様な人間の意見などは彼らにとっては意識に捕捉する価値すらないのである。

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