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芸術に優劣をつけるのはやっぱり悲しい

  漫才のM-1コンテストの時期になると、審査員を引き受ける芸人はいつもものすごく重々しい表情をしている。M-1の漫才はどれも面白いから私などは大体の出場者の漫才をただ面白がって見ているだけだけれど、実際にコンテストに関わる側とすればとても大変な仕事だろう。M-1まで行くとどの漫才もものすごくハイレベルだから、採点するときは審査員の好みも確実に反映されているはずだ。やっぱり芸術に優劣をつけるのはものすごく難しい。


  鉄人級の料理人と料理バトルをしなければならなくなって、主人公がお袋の味で審査員を感動させて勝つみたいなストーリーはグルメ漫画あるあるだと思う。芸術の採点というものにはそれに近い難しさがある。まあnoteの記事を読む時スキ数が多い記事の方が読みたくなるゲンキンな私に、こんなことを言う資格はないかもしれないが。私のnoteでも、どうでもいいこと程よくウケて力を込めて書いた記事はそんなに読まれないというのは経験がある。肩肘はったコンテンツより作者の生態がよくわかる雑な作品の方が好きなのは私も分かるけれど、何がウケるかは本当にわからないものだなあと思う。


  ネットに転がっている漫画の作者を追っていると、掲載誌が違うだけで急に人気になったりすることもある。コンテンツは受け取る客層によっても需要があったりなかったりする、という好例だと思う。だからなおさら面白いこと、美しいモノはあればあったほどいいと感じる。多様性があったほうがなんにつけ物事は面白くなるものだ。あらゆる種類、方向性の芸術が社会のどこかにあって共存できているという風土が、もしかしたら私は好きなのかもしれない。


  自分たちの命運をかけてM-1に挑む芸人たちの頑張りは美しくてかっこいいと思う。だからこそM-1はあれほどハイレベルで他の賞レースと一線を画した大会になっているのだろう。けれど私はそこに一抹の寂しさを感じてしまうのだ。芸術に点数をつけるのはやっぱりちょっと悲しい。それはもしかしたら美しさという概念をモノ的尺度で断じてしまうことに関する悲しさのような感覚なのかもしれない。

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