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昨夜から急に右耳が聞こえなくなった。

  正確には中耳炎のように耳が詰まった感じがしてひどく音が遠くぼんやりと聞こえる。初めは知り合いの配信を聞いた時に音が酷くぼやけて聞こえたことが発端だった。


  
  その遡ること数十分前、いつものようにインターネットを彷徨いながら、私は久しぶりに買い出しのために外界に出ることにしようと決心した。万年床の引力をなんとか断ち切って起き上がり、いつものように自転車に跨り外の世界へと漕ぎ出す。この数週間相変わらず部屋に引きこもって己とインターネットだけの世界で遊んでいた私だが、外界はそんなことを露知ることもなく温かく私を迎え入れ素知らぬ顔をしている。他者との繋がりを見失っていた私にとっては流れる社会の波を感じるのは久々のことで、どんな顔をしてレジ打ちのお姉さんに接すれば良いのかもよくわからず、不気味な笑顔をこぼしながら引き攣った顔でレジ袋を受け取ることしかできなかった。お姉さんはさぞや怖かったことだろう。


 
  袋詰め台で買ったものを詰めながら、数週間前に喧嘩別れになった、好きな人のことを考えていた。告白はしていなかったけれど私が彼のことを好きなのは明らかで、周りの人間にも私の猛アピール振りは苦笑するほど伝わっていたはずだ。8歳年上の彼は追いかければ追いかけるほど逃げる猫のような人で、何を考えているのかいまいち掴みづらかった。多分本当は何も考えていなかったのではないかと思うが、私は何も考えていない人が好きなのでそう言うところも含め彼のことがとても好きだった。


  翻って彼には子供のように無邪気な側面もあったから、私と彼は他人から見ればプーさんとクリストファーロビンの様だったかもしれない。クリストファーロビンはいつかプーさんの元から大人になって巣立っていく。私はいつの間にか彼がクリストファーロビンの様に消えてしまうんではないだろうかといううっすらした予感の様なものを抱えて怯えていた。


  けれど私と彼は同時に、彼の仲のいい友人を含めたグループで毎晩ゲームをしながら部室の様に過ごす仲でもあった。彼の友人はみな気のいい人たちばかりで、さすが私の好きな人の友人なだけのことはあると感じさせられる人たちばかりだった。私は彼のことが好きだったが、彼の友人達のことも同じくらい好きだった。好きな人とその仲間と過ごす時間は水のせせらぎの様に心地よく、そのときのわたしは毎晩のその時間のためだけに毎日を過ごしているようなものだった。もともとが社交的コミュ障である私にとってその身内サークルは貴重なもので、こんな時間ができるだけ長く続けばいいなとそんなことをぼんやりと考える日々が続いていた。



  そんなサークルの中で、意気地のない私は彼に依存しているように見せかけて、どうにかして彼を繋ぎ止めることはできないかと画策することにひどく必死だった。わたしは好き好きと言うそぶりは見せる癖に、実際に自分の腹の底を見せることに関してはひどく臆病だったのだ。彼に多少無茶なふりをしてみたりして繋ぎ止めようと必死な私は、好きな子に意地悪をしてしまう小学生男子と行動原理はなにも変わるところがなかっただろう。しかしそれは猫のように自由気ままに振る舞う彼にとってはひどく逆効果だった。構って欲しそうにする癖に実際には要領の得ないことしか言わないわたしに、彼は次第に呆れたそぶりを見せる様になっていった。先の未来にあるかもしれない彼との別れに怯える私と、そんな私を怪訝に感じる彼とのあいだには次第にすれ違いが起こる様になっていった。



  そしてある日私と彼はゲームの中の些細なことで喧嘩をしてしまった。そのことを全く別の界隈の友人に愚痴ると、小学生みたいなことで喧嘩しているねと面白がられたが、わたしは大人になっても小学生の様なやり取りをできることを誇りに思っていたのでそのことは聞き流した。その時の私は、それでも関係の修復は可能だと思っていたから、ただ仲直りをするのが面倒くさいのだとこぼした。すると友人は「そんなのごめんね、いいよのやり取りでいいんだよ。」と相槌を打ってくれた。なるほど、そういうものかと納得した私はその夜はすっかり眠り次の日は少し憂鬱な気分で目を覚ました。ごめんね、いいよ。このやりとりができるだろうか。不安を感じて夕方まではソワソワとただ時間を過ごしすしかなかった。



  夕方になっていつもの様に電話を繋ぎ素知らぬそぶりで喋り出す。少しバツの悪そうな彼とわたしはいくらか意味のない言葉を交わして、私はいつか彼との別れが訪れるのではないかと言ううっすらとした予感があるのだということをぎこちない言葉で伝えた。その時の私はやはり冷静を取り繕うことはできず、少し泣きそうになっていた。彼はそんな子供っぽい私の態度を見てただ静かに沈黙していた。彼との楽しい関係はやはりここで終わりなのだ、そう思った意気地のない私は逃げる様に「またね」と言う言葉を絞り出し電話を切った。そうして彼と私は終わってしまったのだった。


  卑怯な私が彼から逃げ出して数週間は、終わってしまったと言う実感もなく、ただ夜になると人恋しさと切なさで虚空を見つめる日々が続いた。自宅に引きこもっていると関係が終わってしまった実感も湧きにくく、なぜあの時こうできなかったのだろうかと言う様な悔やみごとを悶々と考えるだけの時間が過ぎていった。あの時の彼の言葉はどう言う意味だったんだろうと言うことを毎晩寝る前におもいだし、少しずつ噛み砕いてきた。



 そして昨日久々に食料の備蓄を買うために外に出かけ、家に帰った時唐突に彼との関係は”本当に”終わってしまったのだと言う実感が込み上げてきた。それと同時にその時つけていた配信の音量が唐突に遠くなった。それはまるでドラマの様で、こんなことが起こるなんて人体とはなんて不思議なんだろうかとうすらぼんやり笑ってみた。無邪気な彼と交わしたいくつものやり取りは最早なくなってしまって、もうあの可愛い笑顔を見ることも好きだと伝えることもできない。その事実が気の遠くなりそうな速度で脳裏に迫ってきた。



  男の恋は別名保存、女の恋は上書き保存というけれど私のこの恋心はいまだに燻っていてこの未練でしばらくは前に進むことができないでいる様な気がする。楽しかった思い出と、自分が一方的に悪いと言う引け目が前に進もうとする自分に二の足を踏ませるのだ。あと少しここにうずくまって埋み火のようなこの思いに整理がつくまで独りごちていよう。

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生活費の足しにさせていただきます。 サポートしていただいたご恩は忘れませんので、そのうちあなたのお家をトントンとし、着物を織らせていただけませんでしょうかという者がいればそれは私です。