見出し画像

標準語とかいう東京弁について

  わたしだけだろうか?標準語というものをナマで聞くとなんとなく痒く感じるのは。わたしは生粋の関西人で、東京に来てからもほとんどあらゆる人間との関係を絶ってきたので、いまだに話し方から関西弁が抜けない。なので時たま東京の人たちが「僕↑たち↓」というイントネーションで話すのを聞くと「なんだこれは…!?」という気持ちになってしまい、「”標準”語て…東京弁の間違いやろ…???」と意地悪にも思ってしまうのだ。


  テレビでネプチューンが標準語で話していてもなんの違和感もなく受け取れるのに、実際に隣にいる人がそういうふうに話すとなんだかおかしな感覚がする。他の地方の人たちの訛りを聞いてもなんとも思わないのに、標準語だけはなんだか少し気取っているような気がするのだ。これはわたしが標準語に対してやっかんでいるとかではなくて、多分この言葉達がそういう感じの訛りなんだと思う。ただ、大学生になってからできた東京生まれ東京育ちの友人の話し方にはあまり違和感を覚えないから、この感じは喋り手にも大きく左右されるものではあると思う。


  それにしても「”標準”語」と名乗る尊大さには頭が下がる。一体誰がこんな名付けを考えだしたのだろうか。わたしは「お江戸弁」とかに改名したほうがいいのではないだろうかと時たま考える。そちらの方が親しみやすいし、実態をより的確に表しているのではないだろうか。


  わたしは小学生の頃に一度引っ越しをして、自分の京都訛りについて尋ねられたことがある。そのとき初めて、この訛りが自分のアイデンティティの一部を作り出していることに気づいたのだった。どのような作法で言葉を述べるのか、ということはどのような集団に自分が属しているのか、ということを端的に表す。個人的には、京都訛りおよび関西弁は自分の気持ちと客観的事実の境目をうまく繋ぐ、非常に優れた役割を持つ言語だなという印象がある。どのような訛りにもその土地で育まれた知恵のようなものがその中に受け継がれており、言葉を操る人たちがよりうまく気持ちを伝えらるよう、さまざまな工夫がなされているのだと思う。

  

  言葉はその人を作る一因となる。だから東京の人たちは自分たちの言葉を「標準語」と名乗ることによって無意識に「俺たちこそが”標準”だ…!」と主張しているのではないか、とわたしは疑っている。まあ多分これもわたしのいつものへそ曲がり、勝手な思い込みなのだろうけれど。とはいえわたしは訛りに上も下もないという主張をしたいので、やっぱりこの名付けにはどうも反発を感じざるを得ないのである。

* * *

生活費の足しにさせていただきます。 サポートしていただいたご恩は忘れませんので、そのうちあなたのお家をトントンとし、着物を織らせていただけませんでしょうかという者がいればそれは私です。