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ニートに寿司を食わせるとどうなるか知ってるか?

  今日親がわざわざ郷里から東京に来て、私に寿司を食わせてくれた。その帰り道、私はぐちゃぐちゃの感情になって、泣きそうになりながら自転車を漕いでいた。

 
  私の親は、25にもなる娘が一切働かず駄文を書き散らしているのを許してくれている。娘の私のひいき目をなくして社会の一般的基準から見ても、これは優しすぎる。お母さんは帰り際「お父さんもお母さんもずっと、〇〇のことが大好きだからね」と言って新幹線に乗っていった。就職面接で散々お祈りを連発され、社会から全く拒絶された気分になっていた私にこの言葉はものすごくしみた。どうしてこの人たちは日々無駄飯を喰らい、勝手に預金から金を取っていくだけの存在にこんなに優しい言葉をかけるのだろうか。

 
  私は自分に結婚適性がないことを知っている。もし結婚したとしても、自分の親のように子供を全力で守れないだろうし、娘がニートになったら普通に泣いてしまうだろう。だから街を通り過ぎる幸せそうな家族連れをみると微笑ましくなると同時に、家族というユニットに自分を組み入れる決意をした彼らに尊敬の念を抱かざるを得ないのだ。

  
  社会というのは波打つ海のようなものだ。おそらくなんの責任も感じずに社会を私1人気軽に漂っていくくらいなら、なんとかなるだろうという気がする。しかし身軽な独り身を捨て、家族を同じボートに乗せて養っていくとなればこれは祝福、あるいは呪縛のようなものである。これらは表裏一体の概念だから、幸せになるためには幸福のために突き進むぞという強い意志がなければいけないはずなのだ。

  
  ニートに寿司を食わせると、あまりのやるせなさと申し訳なさで、家に帰る道すがらニートは泣く。私は「こんな風になってしまったのは社会が悪い」とか「わたしを仕事につけないのは仕事の方が悪い」とか心の底でちょっと思っていた自分が情けなくなった。まあ私がいくら反省しようが仕事に就けるかどうかは変わらないだろうし、これからも社会に対して尊大なスタンスは変わらないだろうが。

 
  親というのは偉大である。私にとってはその存在は後光のようでもあり、暖かさの具現化のようでもあるのだ。そんな親との会話でわたしは感情がぐちゃぐちゃになってしまった。ごめんなさいお父さんお母さん、明日からまたちょっとずつ頑張ります。

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