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推敲のゲジュタルト崩壊

  いま自分が書いてることっておもろいんかな、と悩む。これは文章を頻繁に書く人にとってはあるあるだと思う。あーでもない、こーでもないと自意識をこねくり回してアウトプットした産物が面白いのかどうか、日記を書いている最中の私は頻繁に分からなくなる。そういう文章を一度寝た後に読み返して見ると、その場ではつまらないと思っていたものが面白かったり、逆に力が入りすぎていて白けるなと思ったり。


  漢字練習帳にたくさん練習すると文字の形と意味の関連性がだんだん分からなくなってくるゲシュタルト崩壊、あの現象は文章にも当てはまるなあと思う。もちろん人の好みは様々だし、自分ではつまらないと思う文章でも刺さる人には刺さると思うからそれはそれでいい。ただ、文章を書いたすぐ後に、その文章を書いたことをすっかり忘れてまっさらな目で見返すことができるようになったら便利だろうなあとは思うのである。


  わたしは学校でやる勉強というものは、そういうことを訓練するためのものなのではないかと、なんとなく思っている。例えば数学などは顕著だが、それまで自信満々に解答欄に記した数式に、もしかしたら間違いがあるかもしれないとあとになって振り返る。そうやって傲岸不遜と内省の山と谷を目まぐるしく切り替えることで物事を客観的に捉える目を養う。サウナでもあったかい部屋と水風呂を行き来することで整うことができるけれど、多分人間とはそういう風にできている生き物なのだ。


  ただやっぱり自分が書いた文章をチェックしてくれる他人がほしいなと思うことは多い。私が文章の塔を一心不乱に建築している時に、離れた場所にいる他人が
「少し傾いているよ」
だとか
「そうそう、そんな感じでいいよ」
だとか客観的な立場から意見してくれたらきっと塔を建てるのはもっと簡単になるだろう。文章に正解はないから読んだ人の好みはもちろん反映されるだろうけど、そのやりとりも含めてきっと書くことはもっと面白くなるはずだ。そういう文通相手のような存在がいることは、文章を書く人間にとっては贅沢なことだ。


  しかし意見を二転三転させるが、もしかしたら案外テンションに振り切って頭を空っぽにしてしまえば、内省などせずとも面白いことは書けるのかもしれない。リビドーこそが唯一文章を面白くできるのだから。書いては投げ、書いては投げを繰り返していればいずれはこの世のどこかには届くだろうし、日記に推敲は不要という説もなきにしもあらずなのだ。人間、酔っ払っている時に理性など必要ないのである。プロットが崩壊し、言ってることに矛盾が生じようとも伏線、伏線と言い張ってしまえばどうとでもなるものだと、Twitterで見たどこかの漫画家が言っていた。推敲なんて手間のかかることをせずとも筆に任せて書きたいものを書く、きっとそういう文章であっても好きと言ってくれる人は好きと言ってくれるものなのだ。


  なんにせよ自分の書いたことを誰かが面白がってくれて、リアクションをくれるかもしれない。そういう希望が筆を執る1つの動機になることは間違いない。1人で馬鹿騒ぎをして踊って見ても虚しくなるばかりだからだ。とりあえずのところ私は多産多生を心がけていきたいと思っているし、推敲はほどほどにしていろんなことを適当に書き散らしていくだけだろう。

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生活費の足しにさせていただきます。 サポートしていただいたご恩は忘れませんので、そのうちあなたのお家をトントンとし、着物を織らせていただけませんでしょうかという者がいればそれは私です。