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その場で儚く消えてしまうから芸術は美しい…?

  芸術という概念は遠い太古の過去から人類の歴史と共に歩んできたものである。今のようにスマホも、テレビも、それどころか多分筆とか楽器とかそういう単純な道具すらない原始の時代から芸術は人類と共にある。そんな時代にはおそらく芸術はその場限りで生み出されては消費される娯楽のような形であったに違いないし、今のようにその形を留めるための手段はなかっただろう。


  現代では絵画も、歌も、演劇も、文章も、あらゆるものは文明の力によって保存されることができるし、記録しさえすればその場にいなくても、媒体に残ったものを簡単に再生することができる。わたしはここに少し不思議なものを感じるのである。


  私はカラオケが好きでよく一人カラオケに行っては悦に入っている。でももし友達と一緒にカラオケに行って、友達がそれを「録画していい?」とか聞いてきたら大慌てでマイクを放り出し、歌うことを一切やめると思う。私は自分の歌がその場で消えてしまうからこそ、大声で歌うという黒歴史披露会を開催しているのだ。それによってすっきりして明日からまた愉快に過ごせればいい程度にしか考えておらず、そこに芸術的意義だとかは全くないのである。だからたとえば友達が「歌上手だね〜」とか言って録音でもしようものなら私は深く傷つくだろうし、頼み込んで録音を消してもらうと思う。


  つまり私は芸術というのは昔々から人類がそうしてきたように、作ってその場で消費されるような性質を持ち合わせているのではないかと思うのだ。儚さによる美、というのだろうか。そんなことを言ったら絵画とか、文筆とかはどうなるんだという意見ももちろんあるだろう。でもこれらの芸術もきっと、作られた当初は何百年先も美術館に飾られたり、後世に語り継がれたりするという前提で作られてはいないんじゃないかと思うのだ。(まあ場合によるだろうが)好きなアーティストのライブに行って、会場と一体になってコールし、モッシュダイブする。これはその場限りの体験であり、同時に私たちに多大な感動を与えてくれるのだ。


  芸術にはその場だからこそ感じられる美しさ、というものが確実にあると思う。自分の文章をiPhoneにメモし、こうやって残している私が言うのもなんだが。いくら科学が発展しようとも受け取る側の私たち人間は、太古の昔から存在する生物というものの系譜の中にいるのだ。ライブ感というのだろうか、ポルノグラフィティじゃないが私たちは「この街がジャングルだったころから変わらない愛を探している」のだ。きっと。そう思うと私たち人類も数十年の間に咲き誇って散っていく芸術のようなものなのかもしれない。

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