小説【 逃避行 】

昔々あるところに人目を避けて暮らす男がいた。そのもとに突然現われた口の利けない少女。ふたりは長い冬を温泉の湧く洞窟で過ごす。しかし少女を追う謎の集団がそばまで来ていた。

―――***―――

昔々ある北の地の海岸沿いに男がひとり住んでいた。断崖絶壁の途中にある洞窟で崖から入ることはできず、海は年中荒れて舟が沖を通ることもなく、男は誰にも見つからず暮らしていた。

しかしある吹雪の夜、洞窟内で気配がして男は小屋の扉をあけた。小屋は洞窟内の石を積んだり崖上の荒野で拾い集めた木片を組んだもので、隙間はあったが寒くはなかった。洞窟の奥には温泉が湧いていて湿気のために冬は暖かい。温泉はなかなかの水量で海に落ちるまでのあいだを男は堰で区切り、上流から風呂場、洗い場、便所、と使い分けていた。気配がしたのはまんなかの洗い場で、男が小屋の入口から体をどかし、囲炉裏の火で照らすと少女がひとり倒れていた。洗濯に使う平らな岩の上でうつ伏せになり、意識はなかったが息はあった。顔や手は冷え切り男は抱き上げると小屋に運んだ。

少女は綿の入った防寒着を着ていたが雪で湿り、男は脱がせて寝床に入れた。寝具は毛皮で鹿や兎や狐の皮をつないだもの。見ばえはよくないが暖かい。囲炉裏に薪を足して火を強め、沸いていた湯を別の土鍋に移して干し肉のスープをつくった。もう1つ土鍋を用意すると薬草を湯でひたした。薬草は干されたものがいくつか壁に下がっていて、滋養強壮、鎮痛、消毒、解毒などの種類があった。

少女はまだあどけない顔でせいぜい15~6歳。長いあいだ眠り続け、目覚めたのは丸一日経った夜だった。まだ意識の朦朧とした目で周囲を見まわし、男に気づくと怯えて自分の服を確かめた。肌着とわかると毛皮にもぐり身構える。

男は縫物をしていて少女に気づくと「安心しろ」と目をそらす。縫物を続け「どこから来た」と聞く。

少女は怯えたまま男を凝視し、

「なぜここに――落ちたのか。身投げか」と男が聞くと少女の目は泳いだ。記憶を辿ろうとしているのがわかって男は答えを待った。

   ***

少女は何もない雪原を2日間ひとりで走り続けた。夜は月明かりを頼りに逃げ、追手は馬に乗って松明をかざし雪上に残る少女の足跡を辿った。

風が強まり前に進めなくなった時、少女の目の前が突然途切れた。見下ろすと断崖絶壁で深い闇の底からは海のにおい。少女は絶望して振り向いた。追手は迫っていて10人以上の男たち。その中のひとりが馬を降りて松明を片手に近づき「おとなしく来い」と凄んだ。

少女は後ずさって覚悟を決め、背中から崖下に身を投げた。

意識の遠のくなかで「クソ」「なんてことを」と男たちの声が小さく聞こえた。「命はあるまい」「引き揚げるぞ」

それから静かになって重いまぶたをあけると断崖絶壁の途中、窪みの雪の中にいた。強い海風で雪が吹きつけ視界が埋まっていく。落ちる時に突風で煽られ、まっすぐ落ちずに窪みに落ちたのがわかった。でもどうすることもできない――少女は諦めて目をつぶった。

しかし闇の中で何かを見た気がして目をあけた。目を閉じる寸前に見たのは煙。かすむ視界を探すと少し離れた場所に湯気、そして水が強風に散っていた。幅は狭いが足場になりそうな岩肌が続いている。寒さに凍えて固まった体をなんとか動かし、少女は起き上がって岩肌を伝った。眼下は闇で波音は聞こえない。強風に耐えながらカニ歩きで進み、湯気の元まで来ると洞窟があった。かがんでやっと入れるような狭さで流れ出る水に触れるとお湯。震えが止まらない手を浸したまま少女は洞窟に入った。中は天井が高く湿気がこもって暖かく、奥にはわずかな明かり。それを頼りに流れる温泉沿いを進むと小屋があった。壁の隙間から明かりが漏れ、人がいることに怯えてしゃがむともう立てず、温泉で温まった岩に頬をつけるとそのまま伏せて意識をなくした。

   ***

「探して来られる場所じゃない」と男は縫物をしながら言う。

寝床の少女は目をそらし、口をあけるが言葉が出ない。口の開け閉めを繰り返す。

それを見て男が「話せないのか」と聞くと、少女は涙を浮かべた。「言葉はわかるか」と聞くと少女は目を伏せてうなずく。

「そうか」と男は目をそらし「腹は減ってるか」と縫物を置いて囲炉裏の土鍋からスープをよそった。干し肉を煮込んで柔らかくしたもので、椀の1つによそうと匙と一緒に差し出す。「食え」

警戒して受け取らない少女の寝床のそばに置き、続けてもう1つの椀に薬草をひたした汁をそそぐ。「こっちは薬だ。まずいが毒じゃない」とまた寝床のそばに置く。

少女は空腹でごくりと唾を飲んだが手を出さない。「食え」と男は背を向け縫物を続けた。少女は上半身をゆっくり起こすと食事に手を伸ばす。男が振り向いても見られないように横向きで食べはじめた。

   ***

少女が話せないので口を利くのは男だけだった。しかし男は無口で少女が回復するまでの2日間に話したのは温泉の使い分けについて。

少女が尿意で目を覚ますと男は壁に向かって寝ていた。少女が静かに寝床を抜けだそうとすると男は振り向き寝起きの目で睨んだ。少女が驚いて固まると「小便か」と聞く。少女が怯えて目をそらすと「来い」と縫い終えた衣服を持って立ち、小屋から出てきた少女に「むこうだ」と洞窟の入口、少女が入ってきた方を指さした。「全部海に落ちる。洗濯や洗いものはここ」と次にそばの溜まりを指さし「体を洗う時は奥。あったまる」と上流を指さす。そして衣服を少女に押しつけ「大きいかもしれんが着替えろ」と小屋に入った。洞窟内が暗くなるので扉は閉め切らず、男は扉の陰に行く。渡された衣服は男のもので補修を重ねたボロだったが少女は小便のあと言われた通りに着替えた。上流の湯につかるのは勇気が出ず、顔だけを洗い口をゆすいで小屋に戻った。

男はそれ以外のことを話さず別の縫物を続けるかいびきをかいて眠るかで、男の睡眠中に少女は寝床から小屋の内部を見まわした。囲炉裏のわずかな明かりで見えるのは梁から下がった干し草、干し肉。炊事場には刃物。面した岩肌からは水滴が落ち、それを受ける水瓶があった。壁の一方には不揃いの薪が積まれ、その横には籠に入った枯葉。囲炉裏には常に火が焚かれている。土鍋でお湯も常に沸いていた。壁には薬草のほかに弓が2本と矢筒が下がっている。毛皮の上着も。床には大小の壷がある。

何者だろうと少女は男のことを思った。なぜこんな場所にいるのか。どうやって暮らしているのか。髭を伸ばし放題で最初は怖いと思ったが一緒にいるうちに見た目ほど怖くなくなった。世話をしてくれるがひどいことはしない。

「ハクション!」と男がくしゃみをして目を覚ました。体を起こして壁の上着を取る。寝具はひとり分しかなく少女が使っていて、寒いとしたら私のせいだ、と少女は思ったが急いで寝たふりをした。男は横になりかけて少女を窺い、寝たふりを信じてまた背を向ける。転がっていびきをかきだす。

少女は目をあけて再び男を見た。

   ***

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