会えなかった曽祖父母に思いを馳せつつメモ

たまに「小さい頃はまだ曽祖父(曽祖母)が存命だった」という話を見掛けると羨ましくなります。
私の曽祖父母はみな、私が生まれる前には亡くなっていました。

昭和五十年代に亡くなった人が多かったかな。
でも早いと昭和十年代にもう亡くなっていたりと、激動の時代なのもあり幅があります。

今まで聞いた話の備忘録を兼ねて、曽祖父母八人について簡単に書いてみます。

直系先祖だからつまり身内は身内な訳で、さん付けは何かおかしい気もするけど、会った事すらないしなぁ……なんて思うのでこの記事では付けておきます。

同じ趣味の方で、もし心当たりなどありましたら、noteでもTwitterの方でもお気軽にお声掛けください。
こちらの記事でも少し直系先祖の情報を公開しています。
(※修正したい点が増えて来たので一回非公開にします)




・父方

政四郎さん(祖父の父):農家の四男。
一人娘で家の後継ぎだったスズヰさん(祖父の母)と、婿養子として結婚。
どうも政四郎さんはスズヰさんの母と地元が近く、それがきっかけで婿養子にどうかという話へ発展したらしい。

大人しくて背丈は小さい人だったみたいだが、農家育ちなだけあり相当しっかりとした身体だったそう。

魚が大好きで、毎日お弁当には魚が入っていたらしい。
食卓にも魚が並ぶ事が多く、そのせいか、かえって父方祖父は若い頃、魚が嫌いだったほど(晩年はそうでもなかった)。

せいしろうではなく、まさしろうと読む。

後述するトシさん(母方祖母の母)とは同じ歳で誕生日もかなり近い。本人達は知らないし会ってもいないが。


スズヰさん(祖父の母):一人娘。
戸籍だと「スズ井」だったりもするが、女学校で使っていたらしい教科書には「スズヰ」と綺麗な字で書かれていたので多分本人的には「スズヰ」さん。

父曰く、「ヰは新潟の訛りのせい、そもそも本当はスズエのつもりでは」。

詳細は不明だが、両親と共に小畑家から今の家に養子に入り、戸主亡き後は十代? で家を継いだ。
最初からその予定で養子入りしたのだろうか。

女学校に通っていた。祖父の代では割と貧乏だったらしいが、この当時はそうでもなかったのか?
スズヰさんの父が早くに亡くなっているからではないかと父は言うが、果たして。

孫(私の父)の面倒をよく見てくれていた。
字には厳しかったらしく、そのせいか小学生の父や叔父の字は少し怖いくらい丁寧である。

やはり大人しい人で、特定の気心知れた友人はいた様だが、社交的なタイプではなかった様だ。
女学校時代の親友が早くに亡くなってから元気が無かったらしく、スズヰさん自身も平均寿命を考えるとちょっとだけ早くに亡くなっている感じかも。
繊細な人だったのかな?


億三郎さん(祖母の父):風呂釜の職人さん。腕は良かったらしい。

三郎と名前に入っているが実際は次男
どうも男女関係無く、一番早く生まれた兄弟から順に一、二……と名前を付けられた様だ。
(兄弟全員の名前は分からなかったし、例外もあったが、一人だけ早く家を出たらしい長女がイチノさん、末の六番目の子に当たる妹さんがメさんだったりと、恐らくそうだと思う)
つまり、億三郎さんは三番目の子だから、次男だけど億三郎さんなのである。

典型的な職人気質の人だったみたいだが、父はあまり喋った事がなさそうだし、祖母からもエピソードをあまり聞いた事がなかったので詳しい性格は分からない。残念。



センさん(祖母の母):実は、曽祖父母の中でも、詳しい事があまり分からなかったうちの一人。
父が物心付いた頃にはもう、病気か何かで相当具合が悪かったらしく、他の印象が無いそう。

祖母からも全然話を聞いた事がない。
祖母は嫁いでいたのであまり具合が悪いセンさんの面倒をみられず、未婚だった下の兄弟に任せがちだったのを気にしていたそうだ。

取り寄せた戸籍を見た感じ、私の直系先祖には珍しく、新潟以外の都道府県に住んでいた事があるかも知れない感じ。
もたついていてまだ申請していないが、早く郵便出すだけ出してみなければ。





・母方

留五郎さん(祖父の父):名前の通り五男で末っ子。ちなみに母方祖父も同じく五男の末っ子。

「何処から来たのか分からない、謎の人」と親戚から言われている。
戸籍を見た感じだと流石にその言い方は大袈裟かも知れないが、実家の事情は少しややこしい印象を受けた。

仮説だが、
親戚関係が複雑なのもあって実家絡みの親族とは少し距離がある
→留五郎さんのルーツがいまいち見えない
→謎の人
という風になってしまったのでは。

末っ子である母方祖父が三歳くらいの頃、五十手前で亡くなった。
工場か何かに勤めていて、鉛中毒が原因だったらしい。
祖父の姉(私から見た大伯母)の一人が記した自分史からは、優しいお父さんだったという印象を受ける。

八人いる曽祖父母の中で最初に亡くなった人。
留五郎さんが亡くなった時点ではまだ、私の父方祖母や母方祖母が生まれてもいない



テイさん(祖父の母):私の曽祖父母の中である意味いちばん「強そう」な方というイメージがある。
夫に先立たれた後、一家の大黒柱みたいな存在として君臨していた様だ。
大変そうな一生を送った方だが、たくましい雰囲気もある。

長女(祖父の姉、祖父とは干支二回り近く歳が離れている)とは気が強い者同士で、顔を合わせてはよく喧嘩していたらしい。
四女の自分史でもこの二人の何だか強そうなエピソードはちらほら出て来る。

テイさんの家系は比較的長生き家系で、若くして亡くなった人を除けば、おおむね長生きする傾向があった。末っ子の祖父も長生きだ。

しかし他方で、今で言う「気象病」には悩まされていたのではないかという、母の証言がある。
雨の日の前後は調子が悪いとよく漏らしていたそうだ。
私も母もやはり今、気象病には散々悩まされている。
まさかの、気象病のルーツなのか。

母方祖母が言うには、「昔、自分の先祖には医者がいる、という話をしていた事がある」そう。
残念ながらまだ詳細は不明。
テイさんの父は他家から養子に入った人なので、余計に混乱する話でもある。

多分テイさんの実家なのだが「満州ではない、中国の何処か」に渡り商売をしていたらしい。
母方の親戚の情報は大味な事が多い。

留五郎さんとは違い、親戚から「何処から来たのか」とまでは言われていないが、実はまだテイさんもルーツが不明瞭。
調べを進めたら結構驚く話が出て来るのではないか、という気がしている。

八人いる曽祖父母の中で最後に亡くなった人でもある。
夫の留五郎さんが亡くなってから半世紀近く生きていたんだなぁ……やっぱり強そう。



喜一さん(祖母の父):(恐らくメインは米かな)農家の長男。
写真が大の苦手だったらしく、唯一まともにアップで写っている写真の困り眉のインパクトが凄かった。
多分かなりシャイな人
困り眉写真を見た母曰く「孫の私達の事も、いつも遠くからこんな顔をして見ていた」。
どう接したら良いのか分からなくて困っていたのに違いない。
小さい子への接し方を知らなかっただけの良い人だと思う。いや分からないけど。

祖母と表情が似ている気がする。

若い頃に亡くした妹と同じ歳のお嫁さんを迎えたが、そのお嫁さんも三十代半ばでこの世を去ってしまった、という人でもある。
色々と苦労しただろうし、結構悲しんだんじゃないかなぁと思う。



トシさん(祖母の母):刈羽村出身。赤田城跡からそう離れていない場所に実家があった。
祖母は何度かトシさんの実家に行った事があるらしい。
祖母の実家から直線距離はそう遠くない様に見えるが、当時は移動が結構大変な場所だったそう。

祖母がわずか一歳の時、三十代半ばで亡くなる。
詳しい死因は分からないが、祖母の出産がなかなかの難産だった(その時お世話になった助産婦さんの名前を、感謝の気持ちから娘の祖母に付けたくらい)らしいので、元々身体が強くなかったか、出産で相当身体が弱っていたか。

祖母曰く、トシさんの姉も結構早くに亡くなってしまい、あまりトシさんがどんな人だったのかは聞けなかった様だ。

写真に写るトシさんは、娘(私の祖母)そっくり。激似と言っても過言ではない。

明治三十九年の丙午生まれ。
丙午生まれの女性には迷信があり、お嫁に行く際に苦労したという。
祖母曰く、トシさんはお嫁には行けてるけど、もしかしたら苦労して嫁ぎ先を決めたかも知れない、そう。

前述の通り、父方祖父の父である政四郎さんとは同学年で誕生日が数日違い。

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