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中年まで生きてみて分かった事

私には長年、分からないことがあった。
精神依存の絡む「憧れ」と「見下し」についてだ。
多くの人間は何故か、精神的に距離のある相手に対し、奇妙な執着をする。
そんなに興味があるなら、距離を縮めればいいのにと思うのだが…
関わる割に、その精神的な距離感は、一定の所でキープするのだ。

その奇妙な距離感も、役割分担みたいに上手く回っている間はいいのだが、
暗黙の「期待」みたいなのが裏切られると嫌がらせが始まる。
嫌がらせするぐらいならスッパリ縁を切るなり、精神的な距離をもっとあけるなりすればいいのにと思うのだが…簡単にそうはならない。

何でそうなるんだろう?
どうして自分にはその感覚が分からないのだろう?
その事がずっと引っ掛かっていたのだが…漸く、分かったのだと思います。
恐らく、生き方の力加減なのではないでしょうか?

若い頃までの私は、振り返ってみると「突っ走る」か「怠けるか」のどちらかしかしていなかったのだと思います。
中年にさしかかった時、その力加減が需要に合っていないので調整をしようとしたのですが、そうすると気持ちが簡単に折れてしまうのです。
なので、部分的に突っ走って、それを支え棒にしようとしたのですが…
世の中の"常識"が、微妙に少しずつ変化するなかで、それも通用しなくなってきたのです。

万策つきて困り果てた時、私はある妄想で自分を癒していました。
それはまさに、精神的に一定の距離をおいた相手に、精神依存の絡む「憧れ」と「見下し」を押し付ける妄想だったのです。

「突っ走る」でもなく「怠ける」でもない、需要にあった力加減。
これを個人で成し遂げるには、前述の「精神依存」かある種の「悟り」が必要になると思われますが…それは、ほぼ全員に要求していい事でしょうか?私は「需要にあった力加減」というのは、チーム全体で実現できていればいいと思います。

話は変わって、世の中には精神的距離感を奇妙に縮めたがる人達がいます。
こういう人達というのは、ご自身が常識的な人間であることに奇妙な劣等感を抱いているのです。
ならば「突っ走る」か「怠ける」かすればいいと思うのですが…
それは絶対にしないのです。

どうやら「突っ走る」人間同士のじゃれあいが羨ましく見えるみたいなのですが、それは「突っ走る」人間同士だから出来ることであって、そうでない人間相手にやれと言われても、本音を言えば…
『こちとらペットの子犬じゃないんだから、無理に決まってるだろ。』
なのです。勿論、実際にそのままストレートに言ったりはしません。

世の中、誰しもが居場所を求めています。
では、その「居場所」とは何でしょう?
それは「需要にあった力加減」を全体で調整してくれる"チーム"ではないでしょうか?
一人一人の人間というのは、悟りを開くまでは突っ走ったり怠けたりするもので、それこそが楽しい人生だと思うのです。

そして、問題の解決方法もイノベーションも、楽しい人生から生まれてくるのではないでしょうか?

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