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人からどう思われるか?ばかり考えていた幼少期

製麺所に生まれて育ってきた幼少期

神戸でおじいさんの親の代からやっている製麺屋で生まれました。
神戸の町中ですし、そんなに規模も大きくありません。
自宅半分、工場半分になっていました。

記憶にない3・4歳ごろまでは従業員がいたらしいのですが
それ以降は両親、祖父母の4人で営んでいました。
祖父母は母の両親で、父はマスオさんのように小さくなっていました。

母は、自分はこうだ。こう思う。を言えるハキハキタイプ。
理想の子供たちの姿があり、それに近づけようと躍起になってました。

父はもともと田舎出身で性格も穏やか、思っていても全部心の中にしまって外に出さないタイプ。

そんなわけで、子育ても母が主導権をにぎり、反対されても全てつぶしていました。なんと強い母、、、。

お客様は、会社の食堂や鉄板焼きやラーメン屋、うどん屋さんなどの飲食店がメイン。
どのお店も何年も取引があるところばかりで、繁盛していたようです。
営業もかけていませんでした。

電話でお客様から、注文を頂き、麺を持って、
納品に行く毎日で夕方17時ごろにはだいたい終わってました。

製麺所の朝は早く、4時頃から大人は動いていました。
8時ごろぼけーっと台所にいって、何かしら食べて
大人たちはまた、働いて。
いつの間にか、夕方になって仕事が終わる。
朝が早いから、早く寝ようと22時までには、大人も
寝ていました。


まだ子供のころ(昭和50年代)は、スーパーで袋麺を買うことも
一般的ではなかったようです。

よく、近所の人も
「2玉頂戴!」と今からお家で食べる用に茹でた麺や乾麺を買いにきてくださってました。

子供の私は、お客様に
「大きくなったね」
とか声を掛けていただいてどうしていいのか分からず。
恥ずかしくってすぐに部屋に隠れちゃいました。

妹、弟たちも、人懐っこくお店に出て行ったりはしていなかったような。

自分の家なのに、常にだれか大人が来ていて忙しい空気に包まれている。
あわただしいお家でした。

昭和版 お家でお仕事できるお母さんだった母

「お家で仕事できるんだから。」
「小さな子は母のそばにいたほうがいい。」

と、母の方針で、子供たちは保育園に行かず家で一日中いました。
週に何回か、幼児教育の教室と水泳にいってくるくらい。
習い事で誰かと仲良くなることも特にありませんでした。

家に居る母といっても、母も仕事の手伝いで忙しい。
ご飯時には、家に入ってきて、うどん炊いてくれたりするけど余裕がない。
たわいもない話をしてワイワイした記憶もないです。


妹と弟と遊ぶとケンカになる。
なら、一人でいるほうがいい。
絵本をひたすら読むことにハマりました。

大きくなって母に聞いても
「子供たちがお母さんのそばにいれるから幸せだった。」
と言ってましたが。

私は、すごく窮屈だった。
でも、家でずっといるのが嫌って言えない。
お母さんをおこらせると怖い。

今思えば、家族でない同じ年頃の子と遊ぶことがほぼなくて、
友達とどう遊んでいいのか。
他人とどう話していいのか。
サッパリ、分からない。

そんな自分にイライラする。
妹や弟にあたってしまったり申し訳なかったなと思います。

幼稚園に入って小学校お受験

母のすすめる小学校受験をして
幼稚園年長の年に、幼稚園に入りました。
入ってみると年長から入ったのは、私だけ。
仲間に入れません。

何を話していいのか、している遊びが分からない。
もういいや。
と一人幼稚園でも殻にこもってました。

母は誰とでも遠慮なくしゃべっていけるタイプの人だったのが救い。
母が幼稚園の送り迎えで仲良くなった同級生の家に
帰り道、親子で行くこともありました。

でもなんか、その子ともぎくしゃくしちゃってました。
遊ぶのは遊んだけど心から楽しいっていうのじゃない。
なんかつかれるなぁ。って。

幼稚園から帰ってきてからは、3歳ごろからいっていた幼児教室で勉強。
母が、どうしても行かせたいと思っていた小学校お受験のために勉強しました。

勉強なんてしたくない。
でもこれはやらないとダメなんだ。
毎日家に帰ってからも、

「あれしなさい。」

と母から言われて、勉強をしていました。
勉強は嫌いだけど。
幼稚園になじめない私は、早く違う場に入りたい。
と小学校受験の勉強を頑張りました。

成績が特別にいいわけでもなかったようなのですが、
なぜか、受かりまして。
母のあこがれの小学校に行くことになりました。

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