見出し画像

闇を書く、闇を売る

 ああ、あの人もか…

 SNSのタイムラインに流れる、叫び。あの人もこの人も、心の闇や壮絶な過去と戦っている。私の好きな小説家やライター、大勢の人が病んでいる。

「なあ、心を病まないと書けないもんかな。」
「へ? なんのこと?」

妻の声のトーンは、私が何を言ってるかわからないという調子。


 妻は大学職員で、毎日書き物をしている私とは仕事の分野が全く違う。学生課の窓口で日々学生の対応に追われる毎日だ。

最近は留学生担当になり、得意な語学が活かせそうと張り切っている。とはいえ、昔、私の友人に彼女を「語学堪能なんだよ」と紹介したときは大変だった。パートナーの紹介に値する、もっと気の利いた言葉はないのかと帰り道すがらずっと怒っていたのだ。物書きのくせに、とも言っていた。

 四か国語を操る彼女の頭の中は一体どうなっているんだろう。母国語しか扱えない私の脳みそと、四つの言葉が入っている彼女の脳みそ。それは単なる勉強量と知識量の違いなんだろうか。

「英語とかスペイン語、あと、中国…台湾語?だっけ。日本語に変えるとき、どんな順序で頭を使うの?」

彼女と付き合い始めた頃、そんな質問をしたことがあった。

「順序? んーーーー。順序、か。英語を使っているときは、英語の頭になってるかな。英語で考えてから、日本語に直すの。」
「へえ。」
「母国語のときは母国語の脳みそ。なんて言っていいのかわからないけど、言語を操る脳って、どこだっけ右脳?左脳?」
「左脳…かな?」
「そうなんだ。難しいことはわかんないけど、アタシはいっぺんにふたつのことは考えられない。順番にって感じ。東京駅はどっちですか? くらいなら暗記してる言葉で……すぐ答えられるけど。この書類、誰にいつまでに渡すんですかなんて学生に聞かれたら、頭の動きを切り替えないとっていうか。人から見れば、ほんの少しの時間だとは思うんだけど、時間がかかる。……え、なに、これ、答えになってるの?」
「ははは。なってるよ。」
「私に身に付いてる言語なんて、棚ボタみたいなもんだからねえ。子どもだったから、パパとママについて行くしかないじゃない。代わりにすっかり日本語に弱くなってさ。特に漢字に弱くなるのよ。大人になってからも日本語、てか漢字はずっと怪しい。」
「あー、そうだね。手書きメモになると、如実に出るね。」
「小説読むの苦労したもん。あなたの好きな京極夏彦とか、漢字が多くて苦手。あ、同時通訳。同時通訳者ってね、すごい技術なのよあれは。私はあそこまで瞬時にはとても。あとね、語学に長けてるからって、勉強ができるとは限らないの。わかるでしょアタシを見てたら。アタシから見たら、あなたの方が奇特。日本語だけに四六時中向き合って、いくつもいくつも原稿を書いて。仕事もタイガイにせえよってやつ? 合ってる? あはははははは。」

 彼女の言葉の扱い方は、同時通訳者のそれとは違うらしい。いっぺんにふたつのことは考えられないのよと、あっけらかんと笑う彼女。彼女の口から出る言葉はいつもストレートで、でもどこかとぼけていて、私を和ませる。ああ、「語学堪能」とは違う褒め言葉がたくさんあるじゃないかと、心の中で私は過去の彼女に詫びた。



「……ねえ…ねえってばー。」
彼女の少し甘えたような声で、私は我に返った。

「病まないと書けないって。なあに?仕事?」
「ああ……。うん。心に鬱々としたものがある方が、物書きは成功するのかなと思ってね。ほら、見て。この人も、この人も。」

私は、彼女に心の病を背負った人がSNSの海に放つつぶやきを見せた。

愚図愚図と流れ出る、夜眠れない、薬が減った、配偶者が、親が、過去が未来が……という、心の嘆き。見てて気が重くなるが、ただ、彼らはいずれも本を出したり、文学賞を取ったりしている。売れてるのかどうかは別にしても、ある一定の場所での認知度は私なんかよりずっと高いだろう。同じ物書きとしては、少しそれが悔しくもあるのだ。

私も、自分の中の闇のようなものが書ければ、何か違ったのだろうか。絞りだすような苦悩が、私には足りないのだろうか。心も体も、そして環境も、健康優良児の自分がちょっと恨めしくもなる。

「ふーん。闇、ねえ……。」
彼女はタイムラインを見た後、しばし考え込む。

「わたし、思うんだけど。」
「うん。」


「病んだら書けるのかな、なんて考えている時点で、あなたも相当病んでると思うのよね。悩むのもタイガイにせえよってやつよ。あははははは。」


彼女の口から出る言葉はいつもストレートで、でもどこかとぼけていて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?