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日本人労働者が語る、戦争末期の炭鉱労働の凄惨

 私は昨年九月第一次転換労務者として九州某炭鉱で終戦まで働いてきたものである。現下の石炭事情が容易ならざる危機に直面しているとき、私の体験が今後の石炭対策、主として労務者の待遇改善に資するところあれば幸ひである。
 先ず第一の労務時間のベラ棒に長いことである。炭礦は普通に二交代制で一番方が朝の六時、二番方が夕方六時からである。昇坑〔作業の終了〕はその日の予定量の出るまではできないから早くて夜の八時から十時ころ、週に一回乃至三回の大出しの時などは夜半の一時ころになる。…第二に食糧が不足である。…五合二勺の配給量が四合位にごまかされる。いふまでもなく指導者どもが共謀して頭を刎ねるのだ。煙草も当時は一日五本の配給なのに二本か三本に減らされてゐた。…食糧の不足は□□ひで補はねば身がもたず、僅か一二〇円の給料では国元に送金することも出来ない。国元へ送金するため□□ひをしなかった二名が栄養失調で死んだ。食糧は終戦近ひ六月ころからは一層ひどくお米の量が朝は茶呑茶碗に一杯、昼は弁当の半分位、あとは代用食である。お米といっても大豆四割、麦一割、豆粕一割位の混入だからお米は何程もなかった。
 第三に出勤の強制である。炭礦の労務課といふと山〔炭鉱〕の人々は身ぶるひするくらゐこはい。彼等は一日の欠勤も容赦しない。医者の認めた病気でも公傷でも休養中のものであらうと何等お構ひなしである。欠勤者を一同に集めて青竹で殴る、蹴る、頭から水をぶっかけて、明日からの出勤を強制的に誓はせる。われわれの入坑の際は補助憲兵が四人位つづ坑口に鉄砲を持って監視されたものである。昔から炭礦は地獄以上といはれたが新日本建設のために挺身する労務者のために、前述の爛れる空気を一掃して、炭礦の世界を明るく住みよくするために関係当局の猛反省を望む。(立川市・小松□行生)

(出典:『読売新聞』1945年11月13日、「叫び」欄)

●解説
 終戦3か月後の読売新聞に掲載された、戦時中の炭鉱労働の凄惨さを伝える日本人労働者の投稿である。
 そこから分かるのは、まず労働時間が長いこと。1日12時間労働どころか、16時間労働(朝の6時から夜の10時まで)、時にはそれ以上であった。病気であっても休むと殴られる。労務係が「青竹で殴る、蹴る、頭から水をぶっかけて、明日からの出勤を強制的に誓はせる」のだ。食料も十分ではなかった。栄養失調で亡くなった人もいた。この労働者は、配給がピンハネされていたと訴えている。
 昨今、企業の資料をもとに、「日本人と朝鮮人の間に差別はなかった」「配給も日本人同様だった」との主張がメディアなどで繰り返されている。実際には、差別が存在しなかったという主張には無理があるが、百歩譲って、仮に日本人と朝鮮人の間に差別がなかったとしても、炭鉱において上記のような虐待と過酷な強制労働があったことを否定することはできない。現に、朝鮮人の強制労働を伝える証言や記録はたくさんある。例えば以下のような具合である。

佐渡金山の労働は「死と背中合わせ」だった
https://note.com/katazuketai7/n/nbee1cb07a697

「軍艦島」のリアル(徐正雨氏)
https://note.com/katazuketai7/n/nea6b490ad83d

 読売新聞は、2022年1月29日の社説で、朝鮮人の戦時動員について「強制労働があったという韓国側の主張は事実に反しており、受け入れられない」と書いている。だが、まずは取材や資料の吟味を行い、配給が労働者本人の手に額面通りわたっていたのか、充分な賃金を受け取っていたのかなど、当時の現実を検証することから始めるべきではないか。(2月3日12:15一部修正)