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推しの研究について

野音2020をようやく観た。
タイミングが来るまで封印していたのだが、時は来たれり。
ようやく観ました。

いや~、すごかった…。言葉が出てこない。
先日閉幕したTOKYO2020。NHKにアスリートコメンテーターとやらで北島康介くんが出ていたけど、彼の世紀の名言「なんも言えねぇ〜!」を思い出して、だよね!わかる!と烏滸がましくも共感。普段あれやこれや書き散らしていても、良きにつけ悪しきにつけ感情が揺さぶられると「すごい!」以外の言葉が出てこないんだよね。

そして改めてロキノンの振り返りインタビューを読み直した。
わかったつもりになっていた部分がよりわかったようにも思うし、その時に心に刺さった棘の先がさらに鋭くなったようにも感じる。衝撃を受けたり、モヤモヤを抱えたり、あの当時も、それぞれがそれぞれの感じ方で逡巡するのをSNS上で分かち合ったのを思い出した。
何かのきっかけで出会い、その瞬間に何かが琴線に触れ、好きになって追いかけたくなって応援したくなって。理由もそれぞれだし、温度や距離感や方向性もみんな違う。さまざまな意見を目にして、共感もするし、こういう考え方もあるのかと思ったりもする。

現状を鑑みるに、まあ実質休止状態だし、ならば活動休止とか下手すりゃ解◯してもおかしくない状況、でもそうしないのはそうする理由がないからだし、帰る場所を確保しているのは退路を断っていないようにも見えるけど、「エレファントカシマシすなわち俺」なんだから断ちようがない。
エレファントカシマシでこれまでのように ‘ぶざまな俺‘ を曝したり、夢や自由を渇望する強迫観念&承認欲求を叩きつけるような歌を作って歌い続けてほしい。
私は両輪にとことん付き合うよ。

このひとには、自分の信じる道を行きたい方向にとことん進んでほしい。
その姿をずっと見ていたい。
きっと、今は点でしか見えないことがいつの日か線としてつながって、ああこういうことだったのか、とわかる時が来るのだろうと思っている。

そしてふと、自分自身に立ち返って考えてみた。
どうして私はこんなに、このひとの紡ぐ歌詞を研究したいのだろうかと。
つまるところ、私は宮本浩次という表現者に心底惚れていて、バンドもソロもその才能を駆使した表現の一形態だと捉えていて、だからどっちがどうとかあんまり思わなくて(そりゃあバンドのコンサートと新曲を待ち焦がれているけれど)、私自身が言葉に関心があるから歌詞世界を理解したくて、研究したい。
というところなのかな、と自問自答の末、結論した。

私は学生時代の卒論で「平家物語の死生観」を研究したのだが、古典文学には作者の生い立ちや経験と関連づけて読解するという方法論があまりない。
なので、テキストを手掛かりにすることになるわけで、そのやり方で宮本浩次を研究してみようと思ってやっているわけなんだけど(そのやり方しかできないし)、このひとの場合、経験やその瞬間の心象風景がそのまま言語化されていて、しかも《誰もがわかる言葉で》《でも他の誰も思いつかない言葉で》綴られるから、テキスト研究がそのまま作家研究として成立する。
こんな感覚は初めて。
だから今、楽しくてしょうがない。
そしてそうやって紐解いていくうちに、なぜこのひとの歌がこんなにも心をつかむのかが、解明できそうな気がしている。

何事に対しても徒手空拳で自分自身を武器にして挑み、
その強靭な純粋さゆえに無敵。
変幻自在の歌声は魂の咆哮にして
時に鬼神と化し、
玄妙なる天空の響きをもって心を震わせる。
加えて姿は磨き上げられた鋼のごとく凛として美しい。

こんな奇跡のような人はいない。



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