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男と、女と、ジェンダーレス #2

そもそも、感情に性別なんてないと思う。

喜びや悲しみ、不安、孤独、希望や失望、祝福、感謝、片想いや失恋の傷み、ありとあらゆる喜怒哀楽は性別なんて関係ない。年齢や経験、その他のいろんな要素で多少は感じ方が異なるにせよ、太陽は眩しいし、風は心地よいし、冬は寒いし、推しは尊い。
エレファントカシマシの歌が、あんなに 男おとこオトコ 叫んでいるのに女の私にも自分のことのように心に響いて刺さるのは、それが人間なら誰しも感じるであろう感覚や感情を歌ってくれているから。違うかい?

それが…、
歌の主人公と歌い手の性別が異なることによって、こんなにも違って見えるものなのか…、
立ち上ってくる歌詞の世界が。
描かれる歌の景色が。
『クロワッサン』と『GOETHE』を読んで蘇ってきた「ロマンスの夜」の感激を、ひしひしとかみしめながら、今あらためて唸っている…(何度目)。


例えば “木綿のハンカチーフ”。

流行りの指輪だの ‘くち紅もつけないままか’ だのスーツ着た写真を見てくれだのと言ってよこす彼氏に、これまでは、何だよ都会の絵の具に染まっちまいやがって!と思ったし、提案される贈り物は何もねだらずに身を引く彼女の健気さばかりが際立って感じられた。それは、歌っているのが太田裕美さんだったから。

この歌を宮本浩次が歌うと、聴き手は新たな解釈に目を開かれる。
彼女の気持ちを「女の子のエゴ」と言及したのには驚いたが、聴いてみればたしかに、彼氏が彼女を想っていろいろ提案しているのに、いいえ~♫ いいえ~♫ と悉く拒絶され続ける。これは彼氏にとっては残酷かもしれない。むしろ「木綿のハンカチーフ」を餞別に、彼氏の方が振られたような気にすらなる。そりゃ最終的に ‘ぼくは帰れない’ と言ってしまうのも理解できる。

さらに、この期に及んで、彼女からの拒絶には全く触れない。帰れない理由を「毎日愉快に 過ごす街角」として、恨み節はひと言たりともないどころか、「ぼくを許して」と彼女に返信するのだ。
“SEPTEMBER” の ‘私ひとりが傷つくことが残されたやさしさね’ にも通じる、彼の精一杯のやさしさ、なんて切ないんだろう。松本隆さんの歌詞はやさしい。


カバーされることによって、その歌の新たな魅力が照射される現象は、逆の場合も起こる。

例えば “悲しみの果て”。

少し前に、若い女性歌手がこの歌をうたっているCM(花王プリマヴィスタ)が話題になった。
明るくて、力強くて、なのに涙が出る。いや、「なのに」じゃないかもしれない。その明るさ、力強さから、悲しみを癒したその先の、悲しみの果てに希望が見えるからかもしれない。
「俺たちの希望の歌」のポテンシャル、ここにあり。


宮本浩次という表現者は、鋭敏かつ繊細な感受性で受け取ったものを、自身の感動の熱量そのままに歌に乗せて、聴衆の心にまで直に届けることができる。その歌が本来持っていて、だがこれまで表に出てくることはなかった世界を表現できる歌い手。純粋で素直な人間性の為せる技だろうか。
ではあるんだけど、
考え方には癖があって、男・女、勝・負とか相反二極はきっちりとらえるし、男たるものこうあるべき、女ってのはわけわからん手に負えん、と思っていそうだし、大好きな歌謡曲にはその時代ならではのジェンダーバイアスもかかっている。

そういえば、このところ『ROMANCE』の頃に目にした「自分の中の女性性に気づいた」みたいな表現をしなくなったような気がする。
『秋の日に』によって、女唄カバーは新たな扉を開けたのだ。

女たちの中には オレ以上のオレが確かに住んでいるが
ちょっと待て 観察だ

やつらも相当本気で生きてる 恋愛魂・玉砕精神・夢・愛・歓喜・人生・・・

 “勉強オレ”

ってことが、いくらかおわかりいただけただろうか(笑)。

魅惑的かつ文学的 されど観察 距離をおいて哲学オレ


その新しい扉の鍵となった明菜曲が、これからの実践/実戦を経てどんなふうに進化を遂げていくのか。
その先に、次の扉があるんだろうな。
楽しみです。



追伸:
この文章を書きながらエレファントカシマシを聴けるほどには、いろいろなものが私の中で融合しました。


(かつて、このテーマについて、音楽文に投稿するために気合い入れて練りに練って書いたのがこちら↓↓↓)


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