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今をかきならせ 現在地について11

新春でも野音でも、セトリ予想に入れていた歌がある。
“今をかきならせ”。

夢も希望もいらねえよ
あるだけ全部で行け
‼︎
とりあへず行け
‼︎
今を、今をかきならせ。

“今をかきならせ”


過去も未来もかまわず、今この瞬間だけに情熱を注ぐ。
キャリアを賭けた勝負に挑んでいる気迫を感じたくて予想に入れたのだが、結果はどちらも外れた。改めて歌詞を読み直してセットリスト全体を見返すと、選ばれなかったのが納得できた。

さういやあ俺は昨日まで
何と戦ひ、何を求めて生きて来たのかさへ もう忘れてしまった。

(同)

この歌は刹那的すぎる。もしかすると、もう歌われないかもしれない。
何と戦い何を求めて来たのか、忘れるはずがない。きっとはっきりと見えているのだろうから。夢も希望もいらない。目の前の現実と対峙するのみだから。


この秋、2枚目のカバーアルバム『秋の日に』が発売される。

1枚目のカバーアルバム『ROMANCE』が完成した際には、「カバーアルバムはもう二度と出したくない。結論から言っちゃうと、これで最後にしたい。」と語っていた宮本。それは音楽に対する愛情と真摯な姿勢の裏返しだ。感涙にむせび泣きながら歌ったというデモ音源、何度も歌っているうちに「上手くなってしまって」、歌い直してもそれを超えられなかったためアルバムにそのまま使用したという制作逸話。原曲を超えているか超えていないかなどと比較する無粋を受け付けないほど、まったく別の楽曲として成立している歌唱とアレンジの妙なる響き。にもかかわらず、「原曲は超えられない」と歯噛みする意欲と謙虚さ。
それでも「歌が好き、歌うことが好き」で歌わずにいられない情熱がいくらでも湧き起こってくる。その葛藤の末に出てきた言葉なのだろう。

やりたかったことの実現と、大衆に受け入れられる、商業的に結果を出す、がきれいにリンクして成功を収めているソロ活動、このタイミングでの新しいカバーアルバム。

どんな困難でも道を切り拓く糧にするこのひとは、緊急事態宣言の自粛期間中に1日1曲カバーすることを自らに課し、その産物として世に出たのが『ROMANCE』だが、カバーした曲はもっとたくさんあったのだろうから、上記の発言から鑑みるに『秋の日に』収録曲はその中から蔵出しなのかな? はたまた念願叶って、『縦横無尽完結編 on birthday』が単独の作品として発売される。ではそれとは別に、ツアー初日の音源を初回限定特典として入れられる何か…という企画? 1年に1枚はアルバムを発売したいというレコード会社の事情? 憶測は尽きない。

「バンドのためにソロをやる。」
この言葉の意味、歌手・宮本浩次の、満たされないまま鬱積してきた欲求不満を解消するためという深いところでの理念的な意図とは別に、商業的な部分においても、バンドで短期間に無理して不本意な作品を作らないためにソロが各方面の意向を全て引き受ける、という側面がありそうなことも垣間見える。
守りたいものを持っているひとは強くて美しい。
その心意気に胸熱になり、さらに男を上げるという無限ループ。尽きない尽きない想い。

おそらく、ソロ活動において全てが自ら望んだことばかりでもなく、要望が全て受け入れられているわけでも、本意でないことは全て避けて通れているわけでもないのだろうと思う。
だから「商業的なことも、傷つくことも全部ソロが引き受ける」という言葉が出てくるのだろうと。
次のお知らせは新春ライブについてかと期待していたところに、ソロの、カバーのみのコンサートの報。今度こそは!と待ちかまえていたところに、ソロの、カバーのアルバム発売。肩透かしというか、そこはかとない裏切られ感があったことは否めない。勝手に期待して、勝手に失望して、その想いがお互いを傷つける。
キラキラで多幸感に溢れるソロ活動に見えるけれども、「Documentary of 日本全国縦横無尽」の宣伝文にある《葛藤》とは何か、どこまで明らかになるのか。


『大人エレベーター』の中で語った「自分で嫌なことは基本的にはやってないはずなんですよね。」とは、やりたくないことは拒絶するという意味でなくて、始めは気が乗らなかったとしても、意図を理解して納得して、やりたくないとは思わない状態に自分の気持ちを持っていってから取り組む、ということなのではないかと思う。
ライブ映像を単独で発売したかったのが、アルバムの特典になった経緯について「(会議の中でこの抱き合わせが)今一番売れるんです、と押し切られた」と『YouTuber 大作戦』で語っていた。

「会議は未来の明るい話をする場所」。
ソーメニー一般ピーの社会からしたらそういう会議ばかりでは全然ないし、むしろそうでない場合の方が多いくらいだけど、このひとにはそれだけの世界で生きててほしいと思う。今回は単独作品としてリリースされますね!やりたかったカバーのコンサートも実現しますね!おめでとうございます!
歌についても、最初はあんまり好きじゃなかったけどみんなが喜んでくれて好きになっていった、と複数の歌について読んだ記憶がある。つまり、やりたくないままやるのではなく、始めは気が進まなかったとしても、前向きに受け入れられる材料を集めて、自分でしっかり納得して、そこまでのモヤモヤを引きずって己の意志としてドーン!と行く! そういうふうにセルフコントロールするひとなのだろうと感じるのだ。「攻撃は最大の防御なり」よろしく撃って出ているように見えるけれども、それは奥深い受容があってのことなのかもしれない。

受容力。
「宮本浩次の歌が、エレファントカシマシが響く人は自己治癒力が高い説」を提唱しているけれども(note「自己肯定の治癒力」)、そこには受容力もあるのでは、と思い始めた。
歌われている悲しみも苦しみも、承認欲求も強迫観念もものすごく共感できる。でも、それがつらくて聴けない人がいるのも事実だ。できることなら見たくないし、避けて通りたい。身につまされるし、目を逸らしてはいけないのはわかってる、だけどわかってるからこそ逃げ出したい。それを「僕がそばにいて守るよ」とか「君ならできるよ、僕がついてるんだから」と励ましてくれるわけでもない。そしてその挙句に追い打ちをかけるのが、自力で立ち上がって、自分の足で前を向いて進んでいく強靭さ。気圧されて、さらにつらくなってしまう。

なのに宮本は、これでもかと突きつけてくる。目を背けるな、厳然としてここに在るんだぜ、と。
だから、それも含めて受けとめることができて、さらに向かい合うことができる、自己治癒力に加えて、何かそういう力も持っているのかもしれないと思うのだ。何しろ、宮本浩次自身が受容力の高いひとだから。(そういえば「宮本浩次の《女性性》の正体は《受容性》なんじゃないか」と音楽文で考察したな。→ note「男と女とジェンダーレス」

自己治癒力プラス受容力、これって昨今よく言われるところの「レジリエンス」ってやつなのでは。何それ?と思ったらぜひググってみてほしい。いやー、宮本浩次はレジリエンスが服を着て歩いてるようなものかもしれない。

この《レジリエンス》でソロが全てを引き受ける。


毎年そうさ 勝負を避けててさ
俺は何だかこう カッコつかねえ
このままじゃ 俺 おかしくなりそう

“情熱の揺れるまなざし”

若き日には避けていた勝負、このままじゃカッコつかねえ、おかしくなりそう。そうなる前に、今こそ向き合わなければ。

これはまやかしじゃねえ
まして夢物語じゃねえ
そうさ 俺は生きてる come on baby


just do it ひとりの男の
最後の勝負なのさ

“just do it”


過去から続き、未来へと続いていく。昨日の続きが今日で、今日の続きは明日で。その狭間にあるのが現在すなわち今。

’今日という日は 昨日の続きで’ と歌い出す “今を歌え”。
輝きたい、はばたきたい《今》の気持ちがゆったりと大らかな曲想に籠められ、衝動を抑えた分だけ空高く舞い上がって、果てしなく広がっていく。

ああ 今、飛び立て 今、輝け 今、戦え 心よ
ああ 今、羽ばたけ 今を歌え 心よ 私の
ああ 今、輝け 今を歌え 今、飛び立て

“今を歌え”

この歌の中で、己の心に歌いかけるキーワード、
 《輝け》《飛びたて》《はばたけ》
これは、“just do it” でもシャウトされる言葉たちだ。

好むと好まざるにかかわらず逃げられない、そんな時代の精神って奴ァたしかにあるけど、俺の行動は全てが必然よ。夢も希望も、期待も失望も何もかも引きずって、光も闇も切り裂いて行くのだ。

なんでもかまはない
今をかきならせ

“今をかきならせ”


『秋の日に』。
ジャケット写真の射るような強く潔い視線、
そのまなざしで見据える《今》を歌え。《今》をかきならせ。
Just do it!



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