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宮本浩次は歌をうたう 現在地について14 

2023年1月16日、東京ガーデンシアター、『ロマンスの夜』。

このコンサートで宮本浩次は、《宮本浩次》を演じてはいなかった。
なぜなら、髪をかきあげることはあっても、テレビ歌唱でよくやるような《頭グシャグシャパフォーマンス》をしなかったから。
歌い手の想いを歌声に乗せ、届けることだけに集中しているように見えた。


宮本浩次は、《歌》を《歌っていた》。


ソロでは、売れたい気持ちを高々と掲げ、実力どおりに評価され、煌びやかなステージの中心に立つ憧れをはっきりと見据え、その実現への道筋をしっかりした足取りで歌う。その彼を、ソロ次と名付けた。
バンドでは、己と向かい合い逡巡し葛藤し、目指すべき理想像への挑戦と挫折、それでも命が尽きるまで勝負を諦めない、その上り下りのワインディング・ロードが生活だと歌う。その彼を、エレ次と呼んだ。
そしてソロ活動のひとつであるカバーでは、少年の頃から歌っていた大好きな歌謡曲、お母さんが口ずさんでいた昭和の大名曲、チャレンジとして思春期の少女の初恋や女性アイドルのロックを歌う。その彼を、カバ次と讃えた。

だが、

エレ次、ソロ次、カバ次なんて、…もともといなかった。

ソロの世界にいる宮本浩次は、煌びやかな光を放ちながら「本当はずっとこれがやりたかった」とか言うから、「今が俺の目指した場所」とか歌うから、長いあいだ抑圧して鬱積していたものを思いっきり発散させているようで、それが嬉しそうで幸せそうな姿と相俟って、よりキラキラに輝いて眩しく見えた。
この祝祭感と多幸感にはたしかに、抱えていた承認欲求が満たされた歓喜も含まれていただろう。その呪縛から解放される喜びも、高らかに歌いたかったのだろう。

そうか…、だから惑わされてしまったんだ、妖精の魔法に…。
稀代のパフォーマーに見事にしてやられた。

…彼は、その瞬間の想いを歌ってきたんじゃないか。今までも。
だから、この瞬間の想いを歌っているんだ。今この時も。

そこにいるのは、
エレファントカシマシの曲を歌う宮本浩次、
ソロの曲を歌う宮本浩次、
カバー曲を歌う宮本浩次。

その瞬間に歌いたいことを、その時に歌いたい歌を、
歌い手の想いを歌声に乗せ、届けたいと懸命に歌う、
ひとりの歌い手がいるだけだ。



彼の歌は《祈り》なのだと思う。
涙のあとには笑いがあるはずさ、命燃やし尽くす その日まで咲きつづける 花となれ、最高の未来この胸に抱きしめる、というエレファントカシマシの祈り。
祝福あれ 幸あれ、悲しみの歴史それが 人の歴史だとしても、光あれ、というソロの祈り。
そして、小犬の横にはあなたがいてほしい、流れるな 涙 心でとまれ、もしも願いが叶うなら、というカバー曲の祈り。

“恋におちて−Fall in love−” のヒロインの ‘吐息を 白いバラに 変えて’ という独白と、‘「心の花 咲かせる、人であれよ」と。’ は同じ想い。‘I'm just a woman’ で立ち上るのは、‘「どの道キミは、ひとりの男、」’ と同じ、ただひとりの自己の奥底にある純情の《種》への回帰。

その《種》から芽を吹いて咲かせる《心の花》は、絢爛たる《冬の花》として華麗に誇らかに咲く。
このコンサートはカバー曲だけだろうと思っていたから、前奏でまさか?と吃驚した。
ソロデビュー曲。
渾身の歌唱に、ああこれで一段落させてバンドに帰るんだな…と感じた。ソロの出発点にして着地点。
同時に、往年のヒット歌謡曲と対等の風格を醸したその堂々たる歌の景色から、まるでこの場所に配されるのが、この場所で花開くのが運命であったかのような凄まじい説得力が感慨と共に押し寄せた。
ここにすべての融合を見た。


歌とは。

個人個人の自意識が、高度にかなり繊細に発達している時代の中で、
喜びや悲しみ、ないしはモヤモヤした人の心の奥でうごめいている様々な感情の渦を、
瞬間的にまたは永続的に開放させ、揺さぶるのが音楽。
自分を含め人間は、何かに夢中になったり新しいものにチャレンジしていく体力と情熱と、
そして成熟した大らかさを持ちながら、
一生懸命生きることが求められていくのだと思います。
 (エレファントカシマシ 宮本浩次)

タワーレコード NO MUSIC, NO LIFE. ポスター(2009年)


バンドで《世間と対峙するための鎧》を纏い、ソロで《俗世と対話するための衣裳》に身を包んでいたのは、宮本浩次そのひとではなくて、彼が歌う《歌》だったのかもしれない。
エレ次、ソロ次、カバ次とは、それぞれの歌たちの化身だったのかもしれない。


宮本浩次はその《歌》を《歌っている》のだ。





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