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Fate/Revenge 1. 初めての形-①

 二次創作で書いた第三次聖杯戦争ものです。イラストは大清水さち。
※執筆したのは2011~12年。FGO配信前です。
※参照しているのは『Fate/Zero』『Fate/Staynight(アニメ版)』のみです。
※原作と共通で登場するのはアルトリア、ギルガメッシュ、言峰璃正、間桐臓硯(ゾォルゲン・マキリ)です。
※FGOに登場するエンキドゥとメフィストフェレスも出ますが、FGOとは法具なども含めて全く違うので御注意下さい。

     1. 初めての形

「宜しいのですか、おじいさま。本当に」
 ブラウエンと老人、当主ゾォルゲンが小さな工房で向かい合っていた。ここはカスパルの知らない予備工房で、壁にはぎっしりと虫籠が詰まっている。ゾォルゲンはその籠ひとつひとつに肉片をいれてやる。
「よいわ。最初からどちらでもよかったのじゃ。カスパルが出ようと出なかろうと」
 二人の頭の中には小さな蛾が送ってくる映像が投射されていた。
「あの石は何だ、ブラウエンよ」
「何ということのない石です。その、我が家の裏から持ってきました」
 なんとしたことか、老人が愉しそうに笑った。
「やれやれ。それで、どうしてセイバーなんぞが召還されたのだ。まあ、よい」「しかしクラスに違わぬ実力かと。おじいさまの蛾を一目で斬るとは」
「名を知りたかったが、それもよい。娘だてらに剣を取ってか。ジャンヌかのう」
「おじいさま、しかしこれはチャンスです。カスパルとはいえ……我が家にセイバーが現界したというのは」
 ブラウエンが大きく両手を広げて語った。
「聖杯は時空を越えて遙かな過去から七つのクラスの英霊を招く。剣聖セイバー弓手アーチャー槍使いランサー騎乗手ライダー魔術師キャスター暗殺者アサシン狂戦士バーサーカー。その中でもセイバー、アーチャー、ランサーは三大騎士クラスとされ、強い力を与えられている。英霊の座より招かれるのは、いずれも劣らぬ英雄豪傑ですが、高い抗魔力を持つセイバーは最優のクラス。今回の面子がどうであれ、あれが最強の駒を手に入れたのです」
「喜んでいてよいのか、ブラウエンよ」
 老人がしわがれた目で昏く笑う。
 するとブラウエンがにっこり笑った。
「はい、おじいさま。カスパルは私を殺すことなどできますまい。どんなに私を憎んでいても」
 すると老人がうっそりと顔を俯けた。
「そなたも行け。すでに英霊サーヴァントは三人が現界した。早い者勝ちだぞ」
「心得ております。おじいさま」
「忘るでないぞ。生きて帰りし者がマキリの後継ぞ。肝に銘じておけ」
 ブラウエンの灰色の目が輝き、笑った。
「分かっております。おじいさま」
 今度こそブラウエンは自分の工房に戻っていった。
 ゾォルゲンはこつこつと杖をつき、虫籠に振り返った。
「のう、そなたたちはどちらが戻ると思う」
 蟲たちはにょろにょろと這い回るだけだ。粘着質の音が狭い工房で低く弾ける。
「ふむ、そうだのう。カスパルの奴、振り返りおったの。セイバーを呼び出したことだし運があるのかのう」
 年老いたゾォルゲンが天井を振り仰いだ。
「今度こそ聖杯を見たいものじゃ。そして、この手に……!」
 薄暗い城館の上で月が傾いていた。


 同刻、日本。
 日本の地方にある小さな街、冬木。ここは世界でも類稀なる特徴があった。巨大な霊脈が交差し、地力が高い。そこに目をつけ、長年暮らしてきた一族がいる。
 『始まりの御三家』の一つ、遠坂とおさかである。
 彼らはここで暮らし、六十年に一度の聖杯戦争に備えて霊脈を整え、大聖杯に必要な魔力を溜めさせる。期限が来れば参加者に連絡し、さまざまな便宜も図る。いってみれば聖杯戦争のプロデューサーのような役目を担ってきた。だが今回からはそれも少し様変わりする。
 遠坂家の洋館の地下で、蓄音機と地震計を合わせたような機械が震えて、すらすらと紙に字を書いていた。
 それを年若い頭首が手に取った。名は遠坂明時あきとき。歳はまだ二十代前半である。モダンな洋装を貫き、髪もゆるくカーブして、顔立ちと言葉がなければ日本人とは思えぬ雰囲気の男だった。背は高くもなく低くもなく、細面で、上品な立居振舞を身につけている。
「ほう、セイバーが召還されたそうです。マキリ家はいいカードを引きましたな」
「ああ、この霊気盤の動きがそうなのですね」
 工房には頭首より、もっと若い青年がいた。彼は丁寧に羅針盤のような機械を覗いた。質素な神父服に身を包んだ大柄な若者だ。身体はよく鍛えられていて均整がとれている。動きは猫のように滑らかで隙がない。だが朴訥で真面目な雰囲気だった。顔つきも誠実そうだ。
「そうです。この光は外の円盤と合わせて読みます」
 明時がほっそりした手で円盤を示す。すると若い神父は深く頷いた。
「なるほど。慣れてきました。次は僕一人でも読めるかもしれません」
「いいことです。使い方を覚えていただかなければなりませんから」
「精進します」
 神父の名は言峰璃正。ヴァチカン直属の裏組織、聖堂教会から派遣されてきた。今回から新しく加わる監督役だ。今まで遠坂が行ってきた聖杯戦争の事務的な手続を引き継ぎ、さらに戦いの公正な審査役となる。
 というのは建前だった。
 璃正はヴァチカンから複雑な任務を課されていた。
 まず聖杯の真偽を確かめること。それが本当に神の子の血を受けた聖杯である場合、聖堂教会が奪還すること。偽の聖杯の場合は監督役に徹し、魔術協会の内部に人脈を築くこと。さらに閉鎖的な魔術師たちの人間関係や派閥、力関係などの調査も含まれていた。
 璃正はわずか十九歳。
 しかし聖杯戦争の地、冬木でのアドバンテージを期待されて選出された。
 若いから君のことを魔術師どもが警戒しないだろうしね。
 ヴァチカンの上司たちはそうも言って笑った。
「それから、これが警察や消防への連絡先です。隠匿工作に協力してくれる人々です」
「買収されているということですか」
「力を貸してくださるのですよ。ご尽力には謝礼があって当然かと思いますが」
 明時が穏やかに微笑んだ。彼の表情や口調には嫌味がない。声も滑らかで天鵞絨のようだ。
 璃正はなじまない考えに納得してしまう。
「……ああ、なるほど」
 魔術師たちの言動に璃正は戸惑うこともしばしばだった。だが遠坂の頭首は璃正を馬鹿にすることもなく、よく遇してくれた。
「お若い貴方には汚い話と見えるかもしれません。しかし世間一般の人々に魔術は秘匿されねばなりません」
「よくよく存じております」
 監督役の大きな任務の一つは聖杯戦争の痕跡を世間から隠すことだった。魔術による非現実的な戦闘の跡を、某かの理屈をつけてごまかさねばならない。それは魔術協会だけでなく、異質な力を操る聖堂教会にとっても他人事ではなかった。
「魔術や聖堂教会の秘蹟は普通の人々を怖れさせるだけ。到底信じられないばかりか大きな混乱を引き起こしましょう。僕も自分の任務の重大さは理解しているつもりです」
「それはよかった。それから、これが政治的な人脈で御紹介できる一覧です」
 明時の差し出した書類に璃正は目を見張った。
 そこには三軍や貴族院をはじめとして錚々たる軍人、政治家、実業家の名が並び、中には宮家に連なる人物さえいた。
 明時は璃正の方に書類を押してよこして、にこりと笑った。
「すでに彼らには貴方のことを知らせてあります。突然に連絡したとしても貴方の頼みを聞いてくれるはずです」
「それだけの手配を貴方お一人でなさったのですか」
 驚きを隠せない璃正に明時が頷いた。
「我が家がずっとしてきたことです。大したことではありません」
 璃正はいささかならずとも明時に好意を抱いた。いわゆる疑り深い魔術師という固定概念とは全くつりあわない男なのだ。親切で気がまわる社交的な人物だった。
「さあ、穴蔵にいても仕方がない。今夜はもう上でティーでもいただきましょう」
「は、はい」
 イタリアで暮らした璃正だが、遠坂家の洗練された暮らしは、まるで欧州にいるようだった。寝る前に少しばかり紅茶をたしなむ習慣もそうだ。家の中もここは英国イギリスではないかと思うような家具ばかりだった。
「そうだ。明時さん、貴方も参戦なさるのですか」
「当然です。忘れましたか。私の手には、すでに令呪れいじゅの宿っていること」
 明時の手に令呪が宿ったのは三年前になるという。ずっと見ていると当たり前になってしまって忘れてしまう。
 璃正が恐縮して俯くと、明時が穏やかに微笑んで席を立った。
「聖杯は我らが悲願。今度こそ成らねばなりません」
 璃正も腰を上げたとき、背後で激しく霊気盤が動いた。
 同時に部屋中の機器が甲高い金属音を発して光を投げた。金色の光線が壁を走り、天井の世界地図の一点を指した。
 明時の顔色が変わる。彼はすばやく霊気盤を覗いた。
「誰かが伯林ベルリンでランサーを召還した!」
「そのようですが、今のはいったい」
「霊脈が乱れている! 何故だ、大聖杯が移動している……」
 明時は複雑な動きを示す機械群を何度も調べた。璃正は何も分からず見守るばかりだ。
「そんな馬鹿な。こんなことは、今まで一度も」
「大聖杯が移動って、どういうことですか」
「聖杯戦争の場所が変わっているということだ!」
 振り返りざまの明時の叫びに璃正は凍りついた。
「……何処へ」
 明時の優雅な手が天井の一点を指していた。
 魔都伯林──その中心たるブランデンブルグ門だった。


 夕暮れの伯林ベルリンを二人の男が歩いていた。
 一人はサヴィル・ロー仕立てのスーツを着込んだ英国人だ。黒い髪に鮮やかに青い瞳、ハイランダーの気配がある。ひょろりとした長身で手足も長い。スーツは長身を引き立てる暗いグレーにごく淡いブルーのペンシルストライプのホップサックで、ダブルブレストにセミピークドラペルの仕上げだった。黒いシャツに出身を表すチェックのネクタイをしている。青と黒だけのウィンドゥペーンのようなチェックはハイランドの古い血族クランに伝わるものだ。彼は不機嫌な顔で、あちこちに張りつけられたスローガンを見つめた。
 ユダヤ人は皆殺し!
 ゲルマン民族こそ美しい!
 青少年は規律正しく。
「ユダヤ人殲滅ねえ」
「ユダヤ人とは何だ?」
 連れの青年がひょいと男を振り返った。
「ああ。君の生きていた時代にはいなかったのだな」
 男の言葉に、青年がぴょんと跳ぶように足を止めた。
 彼は恐ろしく目立っていた。多色使いのフェアアイルセーターに真っ白いアラン模様のカーディガンを重ね、毛織の葡萄茶のスラックスをはいていた。にもかかわらず、足元は革の編み上げサンダルという妙ないでたちだった。
 だが、その顔はこの世ならぬ雰囲気だった。軽やかに薄い茶金の髪、薄い水色の瞳は涼しく切れ長で、顔立ちも冷たいほどに整っていた。しかし表情は子供のようにいきいきとして屈託がない、背も男性としては小柄で170cmあるかないかというほどだった。
「聞いたことがないな。ユダヤ人?」
 二人の会話は英語だったが、道行く人々は『judish』という単語に反応して、窺うような、怒りのような不穏な表情で二人を見つめる。
 だから男、ウォルデグレイヴ・ダグラス・カーはわざと壁のスローガンを指差して話した。
「君に分かるように言うなら、ラブナン杉の森の奥に住んでいた人々が始めた宗教を信じる人々だよ」
 すると青年は首を傾げて視線を斜め上に上げた。それから大きく頷いた。
「なるほど。知っている。これは便利だな。学んでもいないことを知っているぞ」
「君たちは聖杯によって教育されただけなんだ。学んでいないわけじゃない」
「理屈っぽい男だな」
 青年が面白そうに含み笑いする。すると整った顔はひどく悪い子供に見える。ウォルデグイレヴは肩をすくめた。
「当たり前だろう。わたしの本業は学者なんだ」
呪い師ウズではなかったか」
「それも仕事」
 黄昏ゆくフリードリヒ通りは異様な空気が漂っていた。人々は足早に家路を辿り、奇妙に重く押し黙っている。無言で視線も合わせず行き交う人々を見ると、ウォルデグレイヴは不思議でならない。
 本当に、ここは独逸帝国の首都なのか。
 なんという寂れた、疑念に満ちた空気なのだ。通りは暗く、人々は密告を怖れ、口をつぐむ。互いを疑いの眼差しでしか見ることができない。ユダヤ人だと言われたらどうしよう。反ナチスの人間だと思われたら、どうしよう。
つまらぬ街だなアナシャン・フルラ
 身軽な青年が足取り軽く先を行く。
「なんだって」
「我が友ならば見ただけで焼き払いそうな街だ」
 これにウォルデグレイヴは笑ってしまった。途端に人々の視線が突き刺さり背中を丸めたが、面白さは消えなかった。
「本当にかい」
「ああ。こんな辛気くさい空気は我が友は嫌いだ。明るい祭りが大好きだった」
「ふうん」
 ウォルデグレイヴは今度こそため息をついた。
「本当に君は友達の話ばかりだな」
「仕方がなかろう」
 ウォルデグレイヴは心臓が止まりそうになった。
 突然、青年が目の前にいた。あまりの速さに見えなかった。彼は突如、歩みを止め、ウォルデグレイヴの顔の前に伸び上がった。その透明な水色の瞳が剣呑に輝いている。
「覚えておけよ、呪い師。僕を英霊サーヴァントとして使いたいなら、僕はまず我が友のために創られたということを忘れるな。僕は何よりもまず、我が友のために存在するのだ」
「わ……分かっているよ」
 ウォルデグレイヴが口にするより早く、彼はふたたび一歩先にいた。
「楽しいことに誘ってくれて礼を言うぞ。僕はいくさが大好きだ」
「そうかい」
 サンダル履きの青年が背中で両手を組んで肩を揺らした。


 伯林ベルリンは夜の街だ。そうと知っている人しか立ち入らぬ通りに飾り窓の家が並ぶ。窓の向こうには着飾った女たちが行き交い、影だけを通りに落とす。通りは静まり返っているのに、壁の向こうは妙に活気があるのだった。
 ここに人知れず車がついたのは、五月の遅い夜が訪れようという頃だった。
 通り一番の『閉ざされた家エッフェンリシェス・ハオス』の前に黒いリムジンが止まった。扉が開くや四人の親衛隊員SSが降り、家の戸口までを二列になって塞いだ。その間を背の低い男が歩いていったが、見た者はいなかった。
 一階の広間を男は何も言わずにつっきった。
 店の女たちはあでやかな、しかし凍りついた笑顔で男に会釈し、道を空けた。
 彼はカツカツとブーツを鳴らして階段を上がる。二階の入口の床に黒い質素なドレスを着た女将おかみが座っていた。
「お待ちにございます」
 男は無言で通り過ぎた。
 それを見送ると、女将は立ち上がり手を打った。
 すぐにうら若い金髪碧眼の娘が現れた。ほっそりとして二十歳にはなっていないように見えた。華のある、くっきりした目鼻立ちで人目を惹く娘だ。本来、美人の基準は人それぞれだが、この時代の独逸ドイツで美しいという基準は一つだった。金髪碧眼であること、若々しく身だしなみがきちんとしていること。ゲルマン民族特有の顔立ちをしていること。
 この娘は全ての条件を兼ね備えていた。
 さらに銀幕にいたとしてもおかしくないような整った顔立ちである。
 こういった店では、男の目に入る女は全て、彼らの自尊心を満足させる飾り物でなければならない。娘は顔立ちと頭のよさを買われて雇われたのだが、当人の表情は素っ気ない。この娘は自分の美しさだとか女性として魅力を売りものにしようなどとは微塵も考えていない。それが顔を見ただけで伝わってくる。
 皮肉なことだが、娼婦に会う前の男にとって、お茶汲み娘メイドは美しい方がいいが、メインの娼婦を下げてしまうような存在でもいけない。そういうわけで彼女は理想的な娼婦宿のメイドだったのだ。
 彼女は青と白のストライプの詰襟のドレスを着て、真っ白なレースのたくさん付いたエプロンを掛けていた。金色の髪は二つに分けたお下げにし、頭にもエプロンとお揃いのヘッドドレスをしていた。
「お呼びですか、おかあさんムッター
「いいかい、アン。今日は特別のお客様がいらっしゃった。シェフに言って一番いい珈琲を出させなさい。器はマイセンよ。あんたが持っていくこと。もし器を割ったら代金は給料から天引きするよ。お部屋は白鳥の間」
「はい、おかあさん」
「それからお客様と目があっても話しかけては駄目。声をあげても駄目。あんたが誰を見たかを人に言っても駄目」
 そこで女将はアンの耳元に唇を寄せた。
「もし一言でも話してしまえば、あんたは死ぬよ。収容所送りになりたくなければ、いいね」
 アンは怯えた目で硬直し、しばらく経ってから頷いた。
 女将は手を打ってきつい口調でアンを見据えた。
「返事は!」
「Ja, Mutter!」
 アンは台所へ下り、女将に言われた通りの準備を整えてもらった。ワゴンにシェフが緊張した手つきでポットやカップを並べた。彼は低くアンに耳打ちした。
「頼むぜ、絶対、失敗するんじゃねえぞ。俺を巻き込みやがったら、お前のうちをユダヤ人だと密告してやる」
「あたしね、身内はひとーりもいないの。おあいにく様」
 アンはドレスの裾をさばいてワゴンを押し、鉄枠のエレベーターに乗った。二階に着くまでが、こんなに長く感じられたことはない。女将の顔も緊張していた。胸が高鳴るほど緊張すると、アンはいつも同じことを思い出す。まだ両親が生きていた幼い頃の記憶だ。
「いいかい、アン。俺もお前も忘れていけないことがある」
「なあに」
 父はよく小さなアンを肩の上に抱き上げてくれた。背の高い黒髪の横顔をぼんやりと覚えている。
「俺たちは魔術師だということだ」
「魔法使い?」
 アンは簡単に言ったが、魔法と魔術は違うものだ。
 魔法は不老不死など実現不可能領域の神秘を実現させるものだが、魔術は魔力を用いて、理論的に、さまざまな現象を起こすことを指す。
「違う。魔術師だよ。俺たちはきちんとした原理に則って物質や空間をコントロールすることができるんだ」
 アンは幼い頃にわずかに両親から魔術の手ほどきを受けることができた。アンが簡単な術を成功させただけでも両親は喜んでくれた。
「素晴らしいわ、アン」
「流石はファウスト家の娘だ。俺たちの御先祖はゲーテでさえモデルにしたドクトル・ファウストなんだぞ。大魔術師だ。その血に恥じない魔術師にならなければな」
 アンは何度も頷いたものだ。高名な血筋に生まれついたことだけが貧しい家の中で誇りだった。
 両親はまたアンに言い聞かせた。
「魔術はどこまでいっても紛いもの。本当に必要なときにしか使ってはいけない。魔術で一般人を陥れたり、ずるをしたりしてはいけない。もちろん騙すのも厳禁だ。約束できるかい? 賢いアン」
「約束するー!」
 アンは大きな声で答えたことを覚えている。悪いことに魔術を使わない。私利私欲のための魔術の行使を禁ずるファウスト家の掟が家を没落させた。長い血統を誇る魔術家門の中には大富豪として暮らすものもいる。だがファウスト家はそういった選択を捨てたのだった。
 アンは今でも両親の教えを守っている。
 一般の人々にまぎれ、ひっそりと魔術など使わずに生きる。使わずにすめばいいものとして魔術を秘匿しつづけていた。
 もっともアンが覚えることのできた魔術など初歩の初歩に過ぎないのだが。
 アンは思い出を振りはらって顔を上げる。今日の客が誰なのか、女将の顔を見れば見当がつく。伯林一の娼婦宿に勤めて、さまざまな人間を垣間見た。親衛隊指導者のヒムラーだって見たことがある。ポスターと同じ顔だったわ。大丈夫よ。
 アンは二階の廊下にワゴンを押し出し、一番奥の白鳥の間の前についた。
 だが、なかなか足が出ない。緊張と恐怖で咽喉が渇いた。
 すると中の話し声が聞こえてきた。
「真か。その話は」
「本当よ、アドルフ。わたくしが嘘をついたことがあったかしら」
 アンはぎょっとした。やっぱり来たのは総統閣下御自身だわ! 相手は女のようだ。誰だか知らない。
「聖杯はね、この独逸にあるのよ。アドルフ、貴方の足元にあるというのに隠している奴らがいるの。許せて?」
「許さん! 断じて許さん!! 聖杯は私のものだ!」
 聖杯……アンは心の中で呟いた。全ての願いを叶えるという万能の器。その聖杯が、独逸に!?
 それは両親の話の中に出てきた信じられないような物語だった。全ての願いを叶えるという聖杯を独逸の魔術師がこしらえた。だが聖杯は一人の願いしか叶えることはない。三人の大魔術師が血みどろの争いを行い、極東の地は荒れ果てたという。そして六十年に一度現れる聖杯をめぐって遙か東の国、日本で魔術師たちは秘術の限りを尽くして戦い、殺しあうのだという。
 ちょっと待ってよ。どういうことなの。
 アンは意を決してドアを開けた。
「失礼します」
 部屋の中はサロンのようにしつらえてある。一番大きな調度はベッドなのだが、今日の客には無用なのかもしれない。サロンの中心にドイツ人なら知らない人はいない人物がふんぞり返っていて、周りを二人の親衛隊員SSが警護し、残りの二人は絶えず部屋の中を歩き回って窓の外を警戒していた。
 向かいのソファにブルネットの見たことのない女が座っていた。まだ若い女だが、それこそうら若いアンから見れば、おばさんだ。彼女は胡散臭い目付きでアンのすることいちいちに目を尖らせていた。
 アンは丁寧にわざとゆっくり珈琲を淹れた。
亜剌比亜アラビアのものでございます。菓子や珈琲がご要り用の時は、後ろの電話でお呼びつけ下さい。すぐに参ります」
 女将は口を利くなといったが、アンは習慣的にいつも通りの説明をした。華やかなアンの顔立ちに男たちが注目する。もちろん独逸一の有名人の目もアンの顔に張りついた。そのちょび髭の男が口を開いた。
「娘、名は何という」
 初めてアンは真っすぐに顔を上げ、ドレスを引いて会釈した。
「アン・マルガレーテ・ファウストと申します、閣下」
「ゲルマン民族らしいよい姿をしている。ファウストとな。かの名高き博士と繋がりがあるのか」
 そうよ、あたしはドクトル・ファウストの血を引く最後の一人。
 アンは心の中では胸を張ったが、口では違うことを言った。
「さあ、たまたまのようでございます。閣下」
「アドルフ!」
 ブルネットの女が金切り声を上げた。彼女はねじれるように立ち上がるなり、アンを指差して絶叫した。
「またなの!? わたくしの生きる力を奪おうというの! ああ、今夜この世にお別れします。神様」
 ついで女は気絶するように、ふらりとソファに倒れこんだ。
「エヴァ、違う。そうではない。私の言った通りにしている娘を賞めてやりたかっただけだ」
「言った通りって、こんな家にいる娘のどこが貴方の推奨する『美しきゲルマン民族』だというの! この家は汚れた場所なんですのよ。娘も芯まで汚れているわ!」
 髪を振り乱し絶叫する女にアンは茫然とした。これといった特徴のない女。でも、いい服を着ている。こんな不景気なときにいいスーツを着て、ちょっぴり小柄。ちょっぴりグラマー。いい御身分の女なんでしょうね。でも、あんたは、その汚い家で男と会ってる。
 我慢して暮らしてる娼婦たちよりも、ずっとずっと汚いわ。
 アンは心の中で罵った。失礼な客にいつもするように。硬直する娘を親衛隊員の若い男が部屋の外に押し出した。強い力でつかまれて腕が痛かった。
「いいか。見たことは誰にも喋るな」
「はい」
 アンは腕をさすりながら頷いた。すぐに、ばたんと扉が閉まった。
 仕事は終わりだ。
 今日は貸切で、もう客は来ない。女将の元に戻ると、わずかな賃金をもらい、アンは閉ざされた家を後にした。
 アンは娼婦ではない。自分を汚い人間だなどと思ったことさえなかった。そして同じ家で働く娼婦たちも汚いと思ったことはなかった。きちんとした労働で対価を得る。その暮らしぶりのどこが汚いのだ。誰だって、もっとまともな仕事に就きたいと思っている。でも誰もそんなこと出来はしない。
 独逸全土が首も回らないほど不景気だった。どこもかしこも貧しさと苦しさでいっぱいだった。
 アンは小銭を手に、裏通りの小さな出店に寄った。
 そこはパンを売る店だった。パンを売る店といってもパン屋ではない。何故なら、きちんとしたパン屋で売れ残ったパンを引き取って格安で売る、いわば食べもののセカンドユースだったからだ。
 アンがいくら可愛らしかろうが、店主は目も留めない。そんな余裕がある庶民などいなかった。
「ライ麦パンひとつ」
「はいよ」
 アンが手にした金はわずかなものだったが、額は膨大だった。一京マルクもあったのだから。だが、それで買えるのは小さなパンが一つきり。アンは数えられないほど0が並んだ札を店主に渡した。釣りはなかった。
 アンはパンをエプロンでくるんで、しっかりかかえた。隠して持っていないと、どこですられるか分かったものではない。こちらは女の独り身なのだ。
 郊外の家まで歩いて帰る頃にはすっかり夜は更けていた。月明かりの指す暗い部屋で、冷たいライ麦パンをかじってアンは歯軋りした。
「仕返ししてやる」
 あれは総統の女だ。
 一人でいい暮らしをしている裏切者だ。独逸国民全てを裏切る汚い女は、あんたの方だ。
 アンの家は二間しかない小さなアパルトマンだったが、本棚だけは立派だった。遠い先祖から受け継いだ、革表紙の壊れそうな本がいっぱい入っている。その中からアンはごく薄い本を取り出した。この本棚の中では新しいと言える本だった。
 そうよ。確か、そろそろ約束の年。聖杯のめぐる六十年の節目の年。
 アンはページをめくって確認する。
「あたしだって聖杯くらい知ってるわ。日本まで行く金がないだけよ」
 彼女は高価な水銀などは持っていなかったので、水で床に魔法陣を描いた。あの呪文を唱えながら。
「繰り返すつどに五度ごたび、ただ満たされる刻を破却する……」
 突然、アンの右手に激痛が走った。見たことのない真紅の紋様が浮き上がる。アンは呪文を止めなかった。
「……汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」
 ごううううっ……
 部屋の中に突風が吹き荒れ、黒いインバネスを来た壮年の男が立っていた。
「娘よ、そなたが私を招きしマスターか」
 穏やかな顔をした、ごく普通の人間に見えた。髪は灰色で少しウェーブがかかっている。顔立ちにも特別なことはないが、妙に頭がよさそうだ。悟った顔とでもいえばいいか。意志の強そうな目をしている。インバネスの下は時代がかった黒いスーツで、背広の裾がモーニングのように伸びていた。
 アンは、英霊サーヴァントというのは鎧甲冑を着けた騎士のようなものだと思っていたので、ひどく落胆した。こんな格好の人間は今も見ないわけではない。
「あんた誰なの」
「メフィストフェーレス。キャスターだ」
 穏やかに微笑む紳士にアンは目を見開いた。ひゅうっと床に座りこんでしまったが、立つことが出来なかった。

Fate/Revenge 1. 初めての形-②に続く


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