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ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者⑤マーリンの庭

※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネスは男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターはウェイバー、ギルガメッシュ、イスカンダル(ウェイバーと直接会うことはありません)です
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています
※トップ絵は大清水さちさん https://twitter.com/sachishimizu に依頼しました

     5. マーリンの庭

「来い、ライネス」
 ぐいとウェイバーに手を引っ張られて、ライネスは転びそうになりながら走った。彼があの奇妙な青年を追うのかと思って、ライネスは抵抗しようとした。だがウェイバーの走り出た方向は青年と違っていた。彼は迷わず学園棟を走り抜け、西棟に駆け上がった。
 行き先が分かれば、足はライネスの方が速い。
 二人はケイネスが残してくれた安全地帯に逃げこんだ。
「何なんだよっ、あれッ」
 ライネスは床に倒れこむように胡座をかいて息を切らせる。ウェイバーもぜいぜいと肩で息をしていたが、ぺったりとデスクに手をついて、あらぬ方を睨みつけている。ライネスは天井を仰いで、かすれた声を絞りだした。
「上の先生方が動くはずだろ、すぐ捕まるよ」
「無理だ」
 芯の通ったウェイバーの声にライネスはぎょっとした。治まりかけた早鐘のような鼓動が戻ってくる。
「なんで。ここは時計塔だぜ?」
「人間の魔術師にどうこうできる相手じゃない」
 ウェイバーがデスクを背にして振り返った。彼は小柄な身体をデスクに預けてライネスを見下ろした。
「あれがアーチャー」
「は?」
 ライネスがきょとんとするのも無理はない。彼らは港の戦いで彼を見ていたはずだが、鎧もなく、髪を下ろした状態だと結びつけられなかったのだろう。大きく印象が変わるし、ここにいるはずがない存在を想定するのは難しい。
「僕が最後に会ったサーヴァントだ。彼は何故か聖杯戦争後も消えないでいる。実は冬木でもう会ってた」
「え、何それ? トモダチ?」
「んなわけあるか!」
 思わず言い返してしまって、ウェイバーははあと大きく息を吐いた。ライネスは少し調子が戻ってきたようだ。上級魔術師四人を墜とした覚悟は伊達ではないようだ。
「受肉したって言っていた」
 ライネスの顔が凍りつく。ウェイバーは淡々と考えをまとめようとしていた。
「近くに来たから気配を探ってみたけど、確かにサーヴァントだったときとは違う。でも魔力も殺気も桁違いだ。変な言い方になるけど、サーヴァントとしての能力と、さっきカラムとアシュリーから奪った刻印魔術の双方を使えると考えた方がいい」
「あれ、何なんだよ。あいつ、なんともなさそうだった」
「英雄王ギルガメッシュは2/3は神の身体。僕たちとは造りが違う●●●●●んだろうな、文字通り」
 ウェイバーは学園の様子を探る。ここには大きな竜脈が走っているので、集中するとウェイバーにはさまざまなことが感じとれた。断片的でも役に立つ。
「ギルガメッシュ? 昔の神話の?」
 ライネスはにわかに信じられない。聖杯戦争の体験がないと、太古の英雄が地上を闊歩する事実を受け入れるのは難しい。
「そう。彼が、あの人が手本の一つとしていた英雄王ギルガメッシュ。セイバー呼べって、なんでだよ。全っ然、わっかんねえ」
 ウェイバーは額を押さえる。あまりにも、おかしなことばかりで。
 カラムとアシュリーの刻印はどうなるのだろう。彼から取り返さなければならないのだろうが、そんなことが出来るのだろうか。
 彼はどうやって入りこんできた? この閉鎖的な時計塔に。
 どうやって彼を倒せばいい?
「おい、ウェイバー。まさか本当に、あいつの言うこと聞く気なのかよ。聖杯は休眠中なんだぜ? サーヴァントを呼べるわけがない。そしたらっ」
 ライネスが茫然と床に座りこんだままだ。
 ウェイバーはあごに手をあてて、細い指で自分のあごを叩いている。
「……それに関しては考えがないわけじゃない。というか、あいつを排除できるのは同じサーヴァントだけだ。なんとかして呼び出すしかない」
「ハア!?」
 ライネスが裏返った悲鳴をあげる。
「何言ってんだ、あれは第二魔法●●の」
 魔法は根本的に魔術とは違う。理論上、魔術では不可能な現象を魔法と呼ぶ。聖杯の根幹システム、英霊の召喚は第二魔法が使われていると古い文献だけにあった。ゼルレッチの弟子であった遠坂が組みこんだのは間違いない。ライネスがそれを知っているのは古い家系だからだろう。
「根幹システムに触れずに使う方法はある。ケイネス先生の術で気がついた。ただし、条件がいくつもある」
 ウェイバーが告げる。揃えた黒髪だけがさらりと揺れ、鉄色の瞳が理論の地平線を見つめている。
 ライネスが愕然とウェイバーを見上げた。
 彼は細くて頼りない。今、目の前にいるウェイバーは簡単に殺してしまえるほど弱い。だが、その中身は。いっそ常軌を逸している。
 窓の外に視線を流すウェイバーは穏やかなのに、刃のようにギラギラしている。
 何なんだよ、こいつ。
 死体を見ようが悲鳴もあげず、あの男と面と向かって逃げもしない。
 こうじゃないと聖杯戦争から生きて帰るなんて無理なんだな!?
 ライネスはぐっと自分の膝を手で押さえつける。足が震え出しそうなのが嫌だった。
 ウェイバーがおかっぱを揺らして何かに狙いをつけるのは分かった。
「うん。使い魔は使えそうだ」
 途端にウェイバーの身体がずるっとデスクの下に崩れ落ちる。
「わあ」
 ライネスは慌てて這いずるように立ち上がり、ウェイバーを支える。細い身体がライネスに倒れかかった。だらんと手が前に伸びて、彼が使い魔に同調し、こちらに意識がないのは分かった。だが、それは初歩の初歩で注意されることだ。魔術師たる者、使い魔と同調していても、周囲の警戒も怠ってはいけない。
 仕方がないのでかかえ上げて、そうっとベッドに寝かせた。
「嘘だろ。使い魔出したら、こっち●●●切れちまうの、お前ぇ。それダメじゃーん」
 だが、完全に視覚と聴覚を使い魔に同調させるとしたら、それは難しいことになる。とはいえ。ライネスはベッドの脇で淡い金髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
 凄まじいと思った瞬間、これかよう。ホントにお前、回路弱すぎ。


 
学内は騒然としていた。
 ウェイバーはまず食堂の鼠に同調し、中の様子を探った。すでにカラムとアシュリーの遺体はなく、刻印管理課に運びこまれたものと思われた。食堂の中を事務局の清掃員たちが掃除している。彼らは全く魔術的な礼装を帯びていなかったので、やはりギルガメッシュはただ単に暴力で人を殺したのだ。ここは、もういい。
 次にウェイバーが狙いをつけたのは子供たちがいる寮の鴉。
 時計塔には鴉がたくさん飼われている。使い魔に使うためだが、それだけでなく、いわばフリーの鴉がたくさんいるのだ。授業にも必要だし、死んだ鴉の補充もいる。時計塔の中で使い魔を放つのは禁じられているが、この際、どうでもいい規則だ。
 実際、周囲にはうじゃうじゃと他の魔術師が放った使い魔がいる。
 まるで聖杯戦争の冬木ふゆきだな。馬鹿馬鹿しいほど、あの時と同じだ。あの時もマスターたち以外に魔術協会・聖堂教会双方の使い魔が街を埋めつくし、さらに観戦気分の魔術師たちが放つ使い魔が外堀を埋めているような状況だった。
 懐かしいね、こういうの。心が躍るぜ。
 寮の中は泣いている子供や、放心してベッドに突っ伏す生徒など、当然の結果と思われる景色が大半だった。だが、それは長くは続かないとウェイバーは見ていた。特に時計塔は思春期の子供たちが多い。子供は、どんなことでもすぐに忘れ、貪欲に欲求を叶えようとする。
「おい、見たか」
「見た」
 廊下で話している生徒を見つけた。ちょうど窓が開いていて、声がはっきり聞こえた。まだ十代初めの小さな子供たちだ。
「アシュリーとカラムから、あいつ、刻印をとってたよな」
「吸いこまれちゃった!」
「使えんのかな、まさか」
「ウェイバー・ベルベットもアーチボルトの刻印を持ってるって噂」
「だから聖杯戦争で生き残れたのかも!」
 おいおい、時系列って分かるか。子供たち!
 思わずウェイバーは現実の身体の方でため息をついた。


 突然、ベッドのウェイバーがため息をついた。ライネスはそうっと覗きこむ。
「俺、ここにいるから」
「ああ」
 横たわったままウェイバーが応えてくれた。
 そして気づいた。
 彼が自分を信頼していて●●●●●●、だから空っぽの身体を投げ出したのだということに。友だと思っているのは自分だけでなく、きっと彼も同じなのだ、と。
 それは身体の芯が震えるような感動で、言葉にできない気持ちだった。
 俺がお前を守るから! お前は弱すぎるから、俺がついてないとダメなんだ。
「外のこと、気になるけど、お前に任せるからさ」
 ライネスはじっとウェイバーの部屋で待つことを決めた。


 
奇妙なのは、誰も上級の魔術師が出てこないことだった。
 現在のギルガメッシュは新入生ではあるらしい。であれば、生徒として登録されており、教授たちには監督責任が伴うはずだ。にもかかわらず、彼を拘束しようとする動きがない。今、彼がどこにいるのか知っても、それは無意味だ。サーヴァントとしての能力を維持しているなら、霊体化も可能かもしれない。
 あのホムンクルスも、庭のあの子とは全然違っていた。
 マダム・ダグラス・カーに確認した方がいいな、これは。
「!」
 ウェイバーが乗っとっていた鴉が急に通信不能になった。どうやら連絡のために呼び戻されてしまったようだ。
「うーん、事務局の連中め。マジで回線引けっていうの」
 おかっぱをかきあげて起き上がると、ライネスが枕元で背伸びするように外を見ていた。
「どうした」
「鴉が」
 ウェイバーが振り返ると、鴉の声が響き渡った。黒い羽ばたきで窓の外が埋めつくされる。陽の光が翳った。
『午後の授業は通常通り再開します』
『食堂での提供は夕食からとなります』
「え?」
 思わずウェイバーとライネスは顔を見合わせた。
「なんか、変じゃね!?」
「通常モードに戻ってるな……普通は生徒を寮に戻さないか、こういうケースは」
 ベッドから降りるウェイバーにライネスが尋ねた。
「先生たちは?」
「動きはなかった。教授たちの誰も動いていない」
 さっとライネスが青ざめた。
「英雄王の痕跡も使い魔では追えないな。アシュリーとカラムの魔術って分かるか」
 ウェイバーが見上げると、ライネスが困ったように首を傾げた。
「うーん、俺とはとってる授業がかみ合ってねえんだよ。あいつら、俺より席次も下だし。アシュリーはマクウィリアムだろ。確か、あのうちはトオサカみたいな火の系統だったと思う」
 ウェイバーが眉をしかめて額に手をあてる。
「……ただでさえ能力高い上に頭も切れて、あの性格の英雄王に攻撃力抜群の火系の魔術か。もう生命の覚悟をするしかないな」
「えっ、まだしてなかった?」
 焦った顔で見下ろすライネスに、ウェイバーはきょとんとした。
「どうして」
「あの男と面と向かってたから」
「初めてじゃない」
「よく生きてたな」
「それが聖杯戦争だ」
 ウェイバーは少し笑って肩をすくめた。
「それに、ギルガメッシュの中で僕を殺す選択肢は優先度が低い」
「そんなこと、なんで言えるんだよ」
 ライネスには猛スピードで進むウェイバーの思考についていくのが、やっとだ。
「彼はチャンスを潰した」
 もし、そうなら冬木のあの日、僕は殺されていたはずだ。あの時から今日のことを考えていたのか、分からない。妙なことばかり言っていたけど、僕に●●セイバーを召喚させたかったのか。彼は聖堂教会の連中と組んでるみたいだったし、周りに魔術師がいないのかも。
 それに、マスターだった人間で魔術師として使いものになるのは、僕だけみたいだから。
 衛宮切嗣は聖杯戦争で最後まで勝ち残ったらしい。最終決戦はギルガメッシュとセイバーで行われたことは切嗣が証言している。彼は詳細に関して口を噤み、聖堂教会にも魔術協会にも事実の判る調書は存在しない。だが、冬木の業火の後、あれほど精強だった魔術師殺しはボロボロに傷つき、二度と戦うことはできないらしい。
 僕より彼の方が有望な魔術師のはずだけど──そもそもセイバーのマスターは彼だったのに──ギルガメッシュが見限ったとしたら、衛宮切嗣は相当に状態が悪いのだろう。
「僕しか選択肢がないと判断したから、イギリスまで追ってきたんだ。今はまだ、僕をすぐには殺さない。代わりがいないからだ。それは使える札だ」
「……お前、怖くないのかよ」
 ライネスは足から力が抜けそうな感覚と闘っている。
「怖いよ」
「平気な顔をしてる」
「心が躍るからな。いいじゃないか。面白くなってきた」
 イスカンダルのように話している自覚はなかった。ただウェイバーは純粋にそう思っていた。王命に立ち塞がる敵が弱いはずがない。それを倒してこその、イスカンダルの廷臣であろう。
 口元に笑みを浮かべるウェイバーが、ライネスには信じられない。
「まずは上層部が動かない理由を調べないといけないな。彼らに茶々を入れられると、僕が考えてる作戦はうまく実行できない可能性がある」
「作戦て?」
 ライネスは思わず乗りだす。時計塔という大本陣に切り込まれて、魔術師ならば動揺するのが普通だと思っていた。しかしウェイバーはもう対策を組み立てたらしい。信じられない胆力と冷静さだ。
「まだ詳しくは言えない。実行可能かどうか、調べてからでないと。さて。突然、ここで引っ越しの挨拶に行くわけにもいかないし。誰に当たればいいかな」
 腕組みするウェイバーにライネスが窓辺に飛んだ。
「だったら、俺がカードを持ってる」
 ライネスがさっとベッド脇のチェストから、ウェイバーが書いた反省文のレポート用紙を取り上げた。
「ソフィアリ学部長を直撃だ」
 ウェイバーが鉄色の目でにやりと笑う。ライネスがウェイバーに手招きした。
「離れない方がいいんだろ」
「分かってるな。ついてくよ」
 ウェイバーがふらりとデスクから離れる。ライネスはぐっと拳を握って足を踏み出す。
「来いや」
 二人は連れだって部屋を出た。


 
西棟に出た瞬間は何も違いはないように思えた。階段を降り、学園棟に繋がる廊下に出たとたん、女性の悲鳴が耳を切り裂いた。
「何すんのよ! この、たかが三代目が、きゃああああ」
 まだ若い女子生徒に高校生くらいの少年がつかみかかっていた。手首をつかまれると女性が身体をひねって逃げようとする。だが少年は下卑た笑いを浮かべ、女性に顔を寄せた。
「いいじゃねえか。魔術師の家に生まれたなら、女が子供なしってワケにはいかねえだろうがよ。やっちまおうぜ」
「身の程を知れ!」
 廊下のど真ん中で雷が落ちる。時計塔なので女性の反撃も普通ではない。逃げる女性を少年が追う。
 ライネスが唖然と走り抜ける二人を目で追った。
「なんですか、痴話喧嘩なの、あれ? 初めて見たんですけどッ」
 ふざけた口調だが、ライネスの右手に僅かに魔力が集中していた。
「……」
 ウェイバーは自らの左手を軽く動かした。変だな、僕は何かしようとしたわけじゃないんだけど、魔力が偏っている? ウェイバーも身構えてはいたが、特定の術式を発動させるつもりではなかった。にもかかわらず、左腕に薄く魔力が集中している。
 まさか。
 ありうる。
 ウェイバーは左手をぎゅっと握って開く。
 これで勝算が50%──詰めれば、いける。
 待ってろよ、ライダー。絶対にお前の敵をとってやるから。
 学園の空気がおかしすぎた。また向かいの棟から悲鳴が響いている。廊下も、いつもより薄暗いように視界が利かない。なんらかの術が建物全体にかかっている可能性が高い。
「楽園の蛇、か……」
 全ての英霊と顔を合わせ、ある程度、その性格を把握したウェイバーだ。基本的にサーヴァントは聖杯を得ることが目的だから、妙な色気のある者はほとんどいない。だが、確かに、あの酒宴でギルガメッシュはセイバーたる騎士王に妙なことばかり話しかけていた。ウェイバーの感覚では侮辱しているとしか思えなかったが──
 まるで褥で花を散らされる処女のような顔だった。実にオレ好みだ。
 あれで告白してた●●●●●つもりだとしたら。
 いやあ、通じないよな、アレじゃ。たぶん、いつの時代のどこの国だとしたって。そもそもアーサー王は女性だけど、そんなこと爪の先ほども考えてるタイプじゃなかったよ。
「無理でしょ、もう」
 ため息をついて後ろを歩くウェイバーを、ライネスが振り返った。
「何が無理って」
「いや、なんというか。もうちょっとライダーに昔の恋愛の話を聞いておくべきだったかな。二千年くらいズレてるとしても」
「何の話、マジで!?」
 学園棟の三階に学部長室が並んでいる。
 ウェイバーの言った通り、静寂だけが廊下に沈む。それはかえって異様な光景だった。廊下に人影もない。誰も動いていないのが空気で分かり、ウェイバーとライネスは見つめあった。
 ライネスは静けさに圧されたように大人しく、ソフィアリ学部長室の扉をノックした。
「反省文を提出に来ました、ライネス・アーチボルトです」
「入りなさい」
 答えがすぐに帰ってきたことは、むしろ気味の悪さを増しただけだった。
 いるのに、何もしねえのかよ。
 肩越しに振り返るライネスの視線がウェイバーに語る。ウェイバーは黙って頷くのみだ。
 何かが起こっている。
 時計塔の中で。もしかすると、これは時計塔設立以来の危機なのではないか。
 学部長室は小さな社長室といった風情だった。真ん中にデスクがあり、壁際には書棚や魔導器が並んでいる。
 そしてソフィアリ学部長は赤茶の髪に白髪の交じる、荘厳な空気をまとう壮年の男だった。時代錯誤な白いローブは学部長たちが好んで着る装束で、学園でひときわ目立つ。背も高く圧迫感がある。謹厳な雰囲気はソラウと通じるものがあったが、ウェイバーには分からない。
研究生スカラー、君は何をしに来たのかね」
「ライネス君のレポートを僕が代筆したので。彼は刻印継承で謹慎中に寝こんでいましたから」
 ウェイバーの言葉にソフィアリ学部長がちらりと視線を上げた。量るようにライネスを見つめる。
「そうなのかね、ライネス・アーチゾルテ」
「はい。すみません、期日までに間に合わないと思ったので書いてもらいました」
 この辺りまでは打ち合わせなしで話を合わせられる範囲だ。
 ウェイバーは学部長室の中を探る。何かおかしな装置は置いていないか、なんらかの魔術が及んでいないか。ここも廊下と同じく、薄暗く見えた。視界が利かない。ウェイバーの目は悪い方ではないのだが、この部屋の術式が読み解けない。
 ソフィアリ学部長が不機嫌な視線をウェイバーに向けた。
「アーチボルトの実験は終わったのかね? 聞いていないが」
「僕の体力が限界で。マダム・ダグラス・カーからのドクターストップです。刻印はすでに正統なる継承者、ライネスに移植を完了しました」
 淀みなくウェイバーは答える。反論できない完璧な回答だ。嘘もない。ソフィアリ学部長も異を唱えようとはしなかった。
「確認しておく。反省文は受領する。退室しなさい」
「その前に」
 ライネスが食い下がれたのは、婚約までこぎつけていたアーチボルトの人間だからとしか言い様がない。ソフィアリの家格はかなり高いので、ウェイバーでは相手にしてもらえない。
「あの新入生がしでかしたことはお咎めナシなんですか。彼からアシュリーとカラムを攻撃しました。彼が罰せられるべきです」
「アシュリーとカラム? ああ、食堂で喧嘩をしでかした子供たちか。新入生? 何の話だ?」
「だからっ、あの金髪の背の高い」
 ライネスが叫ぶように迫ると、ソフィアリ学部長はああ、と頷いた。
「彼か。あれは聖堂教会からの推薦で入ってきた。代行者の言峰ことみね綺礼きれいはトオサカの内弟子だったから、あちらにしては魔術に理解がある。こちらの方が向いた子供を見つけたので保護してほしいとのことだった。彼が何か?」
 ウェイバーは全身の血が下がるような気持ちだった。
 言峰綺礼──! あいつ、あいつがギルガメッシュの後ろにいる、いや、あいつをギルガメッシュが使っているのか。そうだよな、アーチャーは遠坂のサーヴァントだった。そして言峰は遠坂と師弟関係だったと調書にあった。普通ならありえないけど、令呪れいじゅを授かったため、緊急に魔術の修行が必要だったからって。それ自体は嘘ではないんだろう。代行者が魔術師の弟子なんて、とても通る話じゃないから。
 でも、これで繋がる。
 英雄王、あんた、まさか、監督役とも癒着していたんじゃ……違う、癒着していたとしたら、それは遠坂時臣。
 だからアサシンはあんな芝居を打ったんだ!
 今頃、分かるなんて。
 何が監督役だよ。最初から、公正さなんて、どこにもなかったんじゃないか。
 歯噛みするウェイバーの前でライネスが問い詰める。
「生徒が二人、死んだんですよ」
「同士討ちはよくある話だ」
「先生?」
 ソフィアリ学部長が手を外へ払った。
「話は終わりだ。行きなさい」
 ライネスが迷い子の顔でウェイバーを振り返る。ウェイバーは無言で頷いた。ここでゴリ押ししても意味はない。
「分かりました。失礼します」
「僕も失礼します」
 廊下に出ると、ライネスが目を潤ませてウェイバーを見つめた。向こうっ気の強いライネスだが、まだ十六歳。事態の変転についていけないのだ。ウェイバーにはよく分かる。
 ウェイバーは安心させるために高い彼の肩に手をおいた。
「ティにしよう。外だ」
「えっ」
「食堂は閉まってるだろ。せっかく反省文を出したんだ。奢ってやるから。来いよ」
「え」
 戸惑いながら、ライネスはウェイバーの後をついていった。
 誰も助けてくれないのだ。ここには大人がたくさんいるのに。
 曲がりなりにもアーチボルト、またその分家であり、同様に裕福で落ち着いたアーチゾルテで育ったライネスには理解できなかった。子供たちだけが危険の中に放り出され、それを誰もなんとかしようとしないということが。
 目上の魔術師から生命を狙われるのとは違う。
 どう考えても、協力して食い止めるべき厄災を前にして、力ある者が前に立たないという、恥ずべき状況が。
「ウェイバー」
 呼んでしまうと、彼が穏やかに微笑んで振り返った。艶やかな黒髪が外からの光を弾いて光っている。黒い瞳は柔らかく豊かな土のように、ふんわりしていた。
「ちょっと話そうぜ。行こう」
「うん、うん」
 ウェイバーが手を差し出してくれた。子供のようにライネスは握った。背高のっぽのライネスが小柄なウェイバーに引っ張られて歩く。泣きそうな目をごまかさなければいけなかったから、前を向くことができなかった。


 時計塔から出ることはできた。少なくとも、ギルガメッシュは時計塔を封鎖するような行動はとっていないということだ。
 助けが来ても構わないということか。
 彼の『王の財宝ゲート・オブ・バビロン』があれば、多勢に無勢でも──それがサーヴァントであったとしても、勝てることをウェイバーは目撃している。
 弱点が見当たらないのが、な。
 マスターだったときと違ってステイタスが読めないし、ギルガメッシュの能力が量れないのが難点だ。本当にサーヴァントを呼び出して勝てるのかも心許ない。
 外に出てから背後を振り返って、ウェイバーは大きく息を漏らした。
「……ああ。やっぱり」
「何?」
 手の甲で頬をこすってライネスも顔を上げる。
「ん!?」
 ライネスも気がついた。
 時計塔の内部が歪んで見える。瘴気が中に充満しているのが分かった。
「ありゃ、なんだ。何の術がかかってんだよ」
「なんらかの催眠暗示効果だろうな。それと、もしかしたら誘惑テンプテーション。時計塔が魔術的な閉鎖空間なのが災いした。一度、突破されたら、内部を完全制圧できるってことだ。特に学園棟は」
「そんな」
「事実だろ。今、そうなってる」
 怜悧なウェイバーの黒い視線に切られると、ライネスがしゅんとした。ウェイバーは僅かに微笑み、彼の腕を優しく叩いた。
「大丈夫。必ず方法はある。刻印だって外せただろ」
「!」
 ライネスがぱっと自分の右腕を押さえた。
「ああ。そうだ。うん。とりあえず、どこの店、行く?」
「甘いものが食べたいな。カフェかティールームがいいんだけど」
「だったら黒猫亭、行こうぜ。あそこのケーキ、美味いじゃん」
 やっとライネスが笑った。
 なんだか突然、イスカンダルの気持ちが分かってしまった。
 彼は今の自分と同じように、僕の気分を引っ張って、戦いに臨めるようにしてくれていた。時に慰め、励まし、げきを飛ばして。
 なんだよ、ライダー。
 今頃になって恥ずかしいな。お前がこんな気を遣ってたって実感しちゃうのはさ。
 ウェイバーは目を伏せ、頬にかかる黒髪をすいと耳の後ろにやった。
「悪くないな」
 手を上げてライネスを呼ぶ。昼下がりの通りは閑散として、秋の涼しさが迫る。急速に気温が落ちはじめていた。


 
時計塔周囲のカフェや食堂はどこも満席だった。寮の食堂があの有様では、さにあらん、教授や寮生に至るまで外に食事に出てくるのだから。だがライネス御指定の黒猫亭は少し奥まった住宅街にあって、席に空きがあった。ちょうどボックス席に座れたので、個室を借りなくても話が聞かれる心配がない。すばやく店の中を見渡したところ、時計塔の関係者は見当たらなかった。
「いらっしゃいませー」
 メニュウを開いて目を迷わせる。日本の充実した飲食店に慣れてしまったウェイバーから見ると、ロンドン近郊の小さなティールームは変わりばえがしない。だが、この黒猫亭は日替わりのケーキが充実しているのが特徴だ。
「どうする?」
 ライネスを窺うと、彼はにこっと笑った。
「へへえ、俺、バノフィーパイとパッションフルーツのチーズケーキ。お茶はアッサムで」
「じゃ、僕はダージリンにミルク、それからパンケーキ。チョコレートとアーモンド、オレンジにフランベ付きで。あとレモンのショートブレッド」
「かしこまりました」
 すぐにメイドが伝票を書きながら店に戻る。するとウェイバーの背後以外は開放空間のない個室になった。店内は盛況で、かえって声が通らない。
 ライネスが頭をかかえた。
「何なんだよ。訳が分かんねえ。サーヴァントの力って、こんな桁外れなものなのかよ」
「だから聖杯戦争ではサーヴァントを召喚する意味がある。彼らがいないと勝ち抜けない」
「だって、ソフィアリ学部長は降霊科ユリフィスの頂点だぞ。召喚術の最高峰がサーヴァントの暗示に逆らえないのかよ」
 ライネスのショックを受けた様子はウェイバーも痛ましく思う。
「ギルガメッシュは神だと思った方がいい」
「……」
 ライネスが口元を引き結んでウェイバーを見つめる。ライネスの水色の瞳が淡い紫を帯びていて、彼がどれほど緊張しているかを伝えてくれた。
「俺たち、神殺しキリング・ザ・ゴッドをやらなきゃいけないってことか」
「そのくらいに思った方がいい。サーヴァントの力は常識では量れないし、僕たちとは根本的に違う。僕が考えてる方法でサーヴァントを呼び出せたとしても、一体が限界だし、個体も限られるはずだ。彼女●●が勝てなかったら、時計塔は崩壊する●●●●●●●●
 それは魔術師にとって世界の終わりの宣告だった。
 滅びの預言を彼が紡ぐとき、それは必ず直面する危機──
 落ち着いたウェイバーの顔からライネスは感情を読み解くことができなかった。ただ彼は戦いに挑む前の軍師のような顔をしていると思った。
 こいつ、世界を背負って走る気なんだな。
「……分かった」
 テーブルの上でぐっと、ライネスが拳を握った。
「お待たせしましたー」
 テーブルの真ん中にティーポットが二つ、それぞれメイドが素早い手つきでティーコゼーをかける。茶こしと受け皿、小さな可愛いミルクピッチャーは黒くて猫耳付き。カトラリーを並べたら、ライネスの前にケーキを二つのせた大きめの皿が置かれる。ベイクドタイプのチーズケーキにパッションフルーツのソースが添えてある。
「パンケーキ、今お持ちします」
「ありがとう」
 メイドが戻ってくると、ちょっとしたショウが始まった。
 イギリスのパンケーキはクレープを指す。華やかにオレンジを散らしたクレープの周りにコニャックが流され、青い炎が舞い上がる。
「おお」
 ライネスがぱっと明るくはしゃいだ様子に変わる。ウェイバーは微笑ましい気持ちになっている自分に気づいて、不思議な感慨に浸る。
 もしかしたらイスカンダルも、僕が馬鹿みたいな逡巡や卑下に落ちこんでる様を、こんなふうに見ていたのかもしれない。そこから出て、余のところまで上がってこいって。
 お前が手を引いてくれたから、僕は上がれた。
 つまんない暗がりから出て、今ここにいる。
 やっと分かったか、坊主。だがまあ、これで貴様も将ではないか。
 ばあか。たった一人だよ。将って、こう、一軍、預かるもんだろ。
 何を言う。余と貴様は二人であまねく戦場を駆けたではないか。友があれば心は不倒。征服王の臣たるならば、られたものは奪い返せ。それが征服の真髄であろう? なあ、坊主。
 ウェイバーは微笑んでいた。
 とうとう彼と同じ一線に立っているのだと気がついた。
 身体が震えるほど恐ろしい。そして高揚している。
 世界を救え──王の命は絶対である。
「では、ごゆっくり」
 火が消えると、メイドが会釈して下がる。
「ありがとう」
「ゴチになりまーす」
 急に元気の出たライネスがぐっさりとバノフィーパイにフォークをいれる。バノフィーパイは弩級に甘い。薄いパイ生地の上に練乳トフィーとバナナ、さらに分厚く生クリームを重ねてある。たっぷりの練乳がバナナと一緒にあふれてくる。フォークで器用にすくってライネスが頬張る。
「ん、元気出る!」
「だな。ここのスイーツ、日本にも負けないよ」
「お、そう?」
「ああ」
 ウェイバーはしっとりしたパンケーキを切って口に運ぶ。アーモンドのサクッとしたいい香りは日本ではなかなか出会えなかったものだ。
「そういえばさ、いま気づいたんだけど」
 ライネスがバノフィーパイの練乳をだぷっとチーズケーキにのせたので、ウェイバーは凝視した。混ぜるのか、そこ。
「なんで俺たち、平気なの? 俺たちだけ引っかかってないんじゃね? あの男の術に」
「推測だけどマスターだから。かな」
「ん?」
 ライネスがフォークを止めて乗りだした。
「俺、違うけど」
 ウェイバーはフォークを置き、指先で彼の右腕を示す。ライネスはぎょっとしたように腕を見つめた。
「その刻印は実質的な令呪だ。お前は聖杯に選ばれたわけでもないし、サーヴァントもいないけど、その刻印でシステムに関与している。聖杯の基本システムはサーヴァントの力を制限するのではなく、マスターにアドバンテージを付与する形で設計されてるから」
「あ、ステイタスが読めるとか、そういうこと?」
「そう。今のギルガメッシュはサーヴァントとは言えないけど、なんらかの制限を聖杯から受けてはいるってことだと思う」
「え、ちょっと待てよ」
 ライネスがぐさっとチーズケーキを切り分ける。彼はバノフィーパイの練乳の上に、さらにパッションフルーツのソースをかけた。ウェイバーは全く違う意味で目が離せない。え、それでいいのか、お前。味、混じりまくってるけど。
 彼は平然と三色に染まったチーズケーキをもくもくと噛みしめた。
「なんか最悪っぽいような気がすんだけど」
「とっくに最悪だ。そもそもマダム・スリーテンに刻印を移植されてから、僕は気の休まる暇がない。おまけに英雄王の始末までつけなきゃならない。はああああ」
 肘をついてダージリンをすするウェイバーに、ライネスがうんと頷いた。
「やっぱ、そうか。俺たちしかいねえのか」
「そういうこと。実戦力はお前一人だ。今回の作戦は全て、お前にかかってる」
「マジで!?」
 ウェイバーの予想と反対に、ライネスは両手を上げてガッツポーズをとり、小さくいぇーいと身体を震わせた。
 なんなんだよ、こいつ。
 自分とのあまりの違いにウェイバーは開いた口が塞がらない。
「任せろ。十代目を舐めんな」
「……ああ。舐めてない。期待してる」
「だろだろ、おじさんの次は俺って決まってた理由を教えてやるよ」
 ライネスが練乳だらけのフォークを揺らして、にやりと笑った。
「おじさんに比べたら練度低いけどさ、素質は買ってくれていいぜ。回路の数も質も負けてねえから」
「!」
 勝率55%に上昇。推定している状態が保てれば、サーヴァントを呼び出せる。「I see.  今夜、付き合ってくれ。どうしても確かめなければならないことがある。その前にいろいろ起こりそうだけど」
「ドーンとお前は構えてろ」
 ライネスがアッサムのカップを片手ににかっと笑った。彼は皿から直接、生クリームをフォークですくってウィンクした。
「お前は俺が守ってやるから。別に二、三日、魔術戦が続いたって削れたことねえし」
「お前、頭おかしいぞ」
「お、賞めてくれんの。てんきゅー」
 ロンドン訛りエスチュアリで返事するライネスをウェイバーは見守ってしまう。本当は怖いのかもしれない。それは自分も同じだから。


 夕暮れの時計塔に戻ると、外からは何も変わりがないように見えた。
 しかし一歩、事務局を過ぎ、学園棟に続く廊下に入ると、様相は一変していた。
「なんだ、この匂い。血?」
 ライネスが口元に手を持っていく。彼は扇ぐように手を動かす。
 それは冬木の排水路の記憶を呼び覚ます不吉な空気だった。ねっとりとまとわりつく血臭。足が鈍るライネスと反対にウェイバーは早足になる。
「一度、部屋に戻る。そこまでの間に様子がつかめると思う。この臭いだと、十人以上は死んでいそうだ」
「え……」
 ライネスは四人もの魔術師を死に送りこんできた。だが、それは美しく凍らせて、砕け散らせるからできることでもあった。彼は醜い死体や血の臭い、ぶちまけられる内臓など見ずにすんできたのだ。
「なんで、そんなこと」
「連続殺人犯の潜伏先に入ったことがある。最悪の場所だった。あの時とそっくりになってきたな」
「何それ」
「キャスターの工房だよ」
「は!?」
 ウェイバーは事もなげに告げたが、ライネスは衝撃を受けるしかなかった。
 キャスターは聖杯戦争において呼び出される英霊の中でも魔術に特化したクラス。陣地作成のスキルを聖杯から付与されたキャスターの工房は難攻不落。のはず。そこに潜入しえたというなら、やはりウェイバーは普通の魔術師を遙かに超えているとしか思えない。
 どこまで突き抜けてんだよ、こいつは。
 ウェイバーがすたすたと先に行ってしまうので、ライネスは少し早足に歩かなければならなかった。おかしいな。いつもは俺の方が合わせてんのに、なんでだ。
 足に力が入らないことを認めたくなかった。心の弱さが出ている気がする。
 中央の階段ホールに入ったとき、ライネスは立ちすくんだ。
 そこには初等部と思しい子供の死体が転がっていた。顔から首がぐしゃっと潰れるように切られていて、誰だか分からない。ウェイバーは思わず顔を背けた。死体の前に同じ初等部の男子が立っていた。彼は引きちぎった子供の腕をぶら下げていた。
「おい、お前」
 ライネスも声が上ずる。
 少年が振り返った。その頬にはべったりと血がついている。彼は奪った腕を墓土でも暴くように爪でひっかいた。
「あ、研究生スカラー
 彼がウェイバーに笑いかける。
「どうすれば刻印を出せるんですか? 研究生スカラーはロード・エルメロイから刻印を奪って聖杯戦争に生き残ったんでしょ? どうやればいいの」
「……誰から聞いたんだい」
 ウェイバーは低い口調でそっと子供に近づいた。ライネスは思わず、ぴたりとついていく。危険な気がした。
「だって、みんな言ってる」
「そんなの嘘だよ。僕はロード・エルメロイの刻印なんて持ってない」
 ウェイバーは汚れるのも構わず、子供の指を一本ずつ解いて腕を放させる。ウェイバーの手も血みどろになった。彼はそっと遺体の横に腕を下ろす。ライネスは自分の袖をまくって、わずかに刻印を励起させた。
「ほら、ちゃんと普通に俺が持ってるよ」
 子供はそれを見ても反応しなかった。
「貴方を殺せば、刻印が手に入るの?」
「僕は魔術刻印なんて持ってない」
 ウェイバーの言葉は本当だった。血統も浅く、母も祖母も魔術師らしい修行は全くしていなかったので、ウェイバーには受け継ぐべき刻印などなかった。一族の刻印がなかったことも、アーチボルトの刻印がウェイバーを食い潰そうとした原因の一つである。
「じゃあ、なんで、生き残れたの。貴方を皆が英雄だというの」
 子供だとしても、時計塔にいる子供は普通ではなかった。それは多くが優れた血統を受け継ぎ、超常の力を持つ一族の末端なのだ。
「刻印ください!」
 子供の手が刃の輝きを帯びてウェイバーの腹を突こうとする。
十五水塔ブルジュ・バラーリ!」
 ウェイバーの目の前で血まみれの子供が凍りついた。彼の手はウェイバーの腹に触れていた。
「……」
 思わずウェイバーは後ずさる。それからライネスを振り返った。
 彼は水色の瞳をちりっと燦めかせて、右手をぐっと持ち上げた。
固定晶ソリッド・ステーブル!」
 下から凍りついた少年の色が変わっていく。白から氷河の奥のようなブルーアイスに。
「ライネス」
「なんだよ。汚い死体は嫌なんだよ。このまま置いときゃ刻印管理課が回収する。解氷を頼まれたら応じねえこともないけど、俺は許さない」
「そうか」
 ウェイバーを殺そうしたライネスだ。彼は一度、身内になると、恐ろしく気持ちのいい人物だが、敵には容赦がない。
「砕かなかっただけ、温情なんだぜ。親が可哀想だからだ」
「ああ。分かってる」
 彼が砕けてしまったら、魔術刻印は回収できない。子供だから引き継いでいない可能性が高いが、それでも。
 とんでもないデマが学園を闊歩していることに気づいた。
 どうして僕は、食堂でもなんでも出て行って、否定しなかったんだろう。それで何かが変わったかもしれないのに。あのとき、鴉の口を借りてでも否定しておけば。
「絶対、離れねえからな。もうお前は安全じゃない」
 ライネスがぎゅっとウェイバーの汚れた手を握る。瞬間、冷たい感覚があって見下ろすと、血が消えていた。
「俺はきれい好きなの。こんな臭いもさっさと洗いてえ」
「無駄打ちするな。この後がある」
「分かってるってえ。ああ、アロマ焚きてえ」
 ライネスに引っ張られるようにウェイバーは自室に戻った。ケイネスの結界の中はいつものままだった。
 まだ外は明るい。急速に日の入りは早くなっていたが、もう太陽が出ているか、沈んでいるかは関係ないだろう。
「悪い。二時間だけ寝る」
 ウェイバーがカーディガンだけを放りだして、ベッドに潜りこむ。
「ああ」
 ライネスはどかっとデスクの椅子に腰を下ろした。
「俺、ここにいるから。どこにも出ねえよ。外は地獄だ」
 ウェイバーが毛布を引き上げてライネスに向き直る。
「あれは魔術による騒ぎじゃない。人間の本質だ」
 ギルガメッシュがかけている術は、自分に対する認識を狂わせる暗示だけで、争いをけしかけてはいない。誘惑テンプテーションもそうだ。
 そういう焦燥感はどこにもない。
 外からだと時計塔にかけられている術がよく分からないが、中に戻ったら、かえってはっきりした。複雑な術ではないから、かなり上級の魔術師でも強力に押さえこめているのだ。ただ、彼自身の存在が呪詛のように空間を蝕んでいく。時計塔が閉鎖空間であるが故に、抜群の効果が上がるのだ。
 完全に術中に嵌まっている。
 この状態を解消するには二つ。時計塔の空間を解体するか──数百年に渡って重ねてきた空間を解体できるはずがない。まさに時計塔の崩壊だ──ギルガメッシュを倒すか。
 許される選択肢は一つだけだ。
「ギルガメッシュを排除しない限り、この状況は変わらない」
 ライネスも、それが分かった。
 あの子供には攻撃性を上げるような魔術の痕跡はなかった。瘴気を吸いこみ、暗示をかけられたことで、影響されやすい状態になっているだけだ。だが、そこに不安や競争心、ストレスなどが重なれば、煽られただけで、簡単に心が裏返ってしまうのだ。
「上の先生方が『何もしない』でいられるのは、むしろ実力を示している」
「……そっか。そういうことなのか」
 ライネスは目を落とす。
 勇気がないと思ったが、そうではない。してはいけないことを●●●●●●●●●●せずにいられる●●●●●●●ことも実力のうちなのだ。
 最初に見たレイプまがいの騒ぎも、結局、隠していた欲望が表に出ただけだ。
「僕が目を覚ましたらディナー。腹ごしらえしたら、確認したいことが二つ。それができると分かったら、作戦決行だ。夜通しいくぞ。誰かに介入されると、もっと厄介なことになる」
「分かった。備えとく。おやすみ」
 ウェイバーは無言で倒れるようにベッドに沈んだ。白いシーツに納まってしまうと、彼は年上とは思えないほど小さかった。細くて痩せて、頼りない。疲れた横顔はやつれた感じがあって、真っすぐの扇のような黒髪の下でしおれているように見えた。
 ほどなく軽い寝息が聞こえて、彼が何か呟いていた。
「……I’m good, Rider……」
 全然、大丈夫グッドじゃねえんだろ。分かってる。
 彼は二日、自分にベッドを譲ってくれた。さっきのデマは自分もショックだった。美しい時計塔が血に染まる──こんなことがあるなんて、ウェイバーだって本当は思ったこともなかったはずだ。
「しょうがねえな。おじさんの宝探しでもしますか」
 ライネスはじっと天井や壁に目を走らせた。


 
ライネスは工房の中にケイネスが畳みこんでいた空間を見つけた。シャワールーム奥のバス、洗面所横のクローゼット──中にケイネスの服が残っていたので、後で回収しなければならない──窓辺に小さなテーブルがあって、蝋燭などを置けるようにしてあった。ある決まった部分に触れると、空間が開く。
 バスの発見はウェイバーを喜ばせた。
「助かった。この騒ぎが終わったら、ゆっくり浸かるよ」
「たまに借りに来てもいいか? 寮のバスって混むからさ」
「もちろん」
 目が覚めるとウェイバーは宣言通り、ライネスをディナーに連れ出した。こんなときに食べることを忘れずにいられる胆力に驚く。
 時計塔から少し離れた、ちょっとお洒落なパブでローストビーフとミートパイを腹に詰めこんだ。ウェイバーが優雅に花梨のゼリーとグラスの盛り合わせを頼んだので、ライネスも負けじとフランス風のレモン・タルトを平らげた。
 そして再び時計塔へ──
 これだけの往復の間に、ライネスはさらに二人の学生を仕留め、レイプされた少女を保護。事務局に預けたが、あまり意味はないだろう。発見した死体はウェイバーの言葉通り、十体を越えた。時計塔の磨かれた床は血の川となり、固まりかけた血が足をとらんと粘りつく。
「はあ」
 魔力ではなく精神的な疲れでライネスがため息をつくと、ウェイバーがおかっぱを揺らして肩越しに振り返った。彼はいつも薄く微笑んでいる。それはライネスに力を与え、落ち着きを取り戻してくれた。
「これから結界をくぐる。僕を見失うなよ」
「結界?」
 時計塔、それも学園棟の中に?
 ウェイバーが伸ばした手をとると、回廊の向こう──学園の中庭に立っていた。
「あ、あれ?」
 そこは静かだった。
 外の物音も全くしない。悲鳴も、怒号も聞こえない。
 ただ満天の星が夜を占める。
「……」
 時計塔とは静謐の中にある場所ではなかったか。そんな当たり前のことを忘れていた。
 ウェイバーが早足に中庭の中心を量って、ひざまずいた。
「誰もいない」
 それは奇妙なことだった。あれほどの騒ぎがあって、この中庭には死体ひとつ転がっていない。そして気づいた。
 建物がない──!
 周囲は緑の草原に覆われ、はてしなく風が吹き渡る。木立がまばらに見えていて、足元の土は湿って軟らかい。水を含んだ苔みたいに足が沈む。長いこと、誰も入らなかった雪のように、そこには人の痕跡がなかった。
「ここ、学校の中庭だよな」
「そう。ここがブリテン●●●●の中心だ。大龍脈グレート・ペンドラゴンの屈折点」
 ウェイバーが地面に手をあてて目を閉じている。
「気づいてなかったか。ここはずっと結界が張られている。誰でも見えているのに、どうして誰も入らないんだ? 不思議に思ったことはなかったか」
 ライネスは打たれたように周囲を見回した。
 そういえば、変だ。
 真ん中に庭があるのに、誰もここでランチを食べない。遊ぶ初等部の生徒もいない。恋を語らう男女も、ひと休みする教授さえ。
 かく思う自分も一度もここ●●に入ったことはなかった。
「ここで何をするんだ、ウェイバー」
「均衡結界を解除する」
「は?」
 いつもなら高い声をあげたと思う。だが、ここでは大きな声が憚られた。
「あれがあると、英霊を呼べない。どうしても外す必要がある」
「マジかよ」
 ウェイバーが意味ありげにライネスを見上げた。
「身体に余裕があるかな」
「もち」
「軽くでいいんだ。僕の背中に手をあてていてくれるか」
「別にいいけど」
 かがみこむウェイバーの背中にライネスは手をあてる。痩せて背骨が浮く背中。服越しでも分かる。
「ちょっと実験したいこともあってね」
 ウェイバーはずっと、ここにある結界が気になっていた。誰も破ろうとしない。何のためかも分からない。誰もそれを知らないような、だが確かにそこにある結界が──
 くぐること自体は簡単だった。
 少なくともウェイバーにとっては。
 ほんの少し集中し、身体を龍脈に浸すように気配を消す。それだけで難なく通れた。ライネスは素直に自分についてきてくれたので、結界に弾かれずにすんだようだ。
 そして、あの庭。
 アーサー王の姿を持つホムンクルスが闊歩する謎の空間。
 あそこで寝たとき、明らかに冬木の霊脈の上で寝たときと同じ効果があった。つまり、あの庭は同等以上の巨大な霊脈の上にある。そして均衡結界も、あの庭から発動していた。あまりにも古く純粋な形式の結界。
 どちらも、きっと、大龍脈グレート・ペンドラゴンの上にある。
 ここで空間がどう重なっているのか、判然としない部分があるけど、この下にあの竜が、白き少女の柄カルンウェナンが埋まっていたら、つまり、ここ●●あそこ●●●ということだ。
 目を閉じる。
 いつもイスカンダルと話すときのように心を開いて。静謐と大地の脈動に融けこむように──
 竜が見えた。あの大きな竜。そして輝く白き少女の柄カルンウェナン。結界の鍵はどこだ? あの形式なら、鍵は一つ。それを外したり掛けたりすることで、本来は簡単に制御できるはず。
 ウェイバーは大地の中を這う龍脈に意識が同調していた。
 うねるエネルギーを通して聖杯が見える。冬木の山に聳え立ち、力を吸い上げる巨大なポンプ。そして地脈を通して繋がる『世界』を──全てが繋がる地下の世界。海も空も関係ない。この星が持つ究極の力と波動がウェイバーに満ちる。
 足元に小さな工房があることに気づいた。竜が渦巻く蜷局の中。
 門の鍵が見える。
 あれだ。
 ウェイバーの手は実に簡単に鍵を外した。それは夢の中でイスカンダルに触れるような、自然で、優しくて、いつでもどこでもできる●●●●●●●●●●●ことだった。
「……あ」
 ライネスが声をもらす。
 星が降ってくる。眩い光が時を越えてウェイバーの胸に届いていた。
「できた」
 ウェイバーが目を開くと、ライネスが茫然と自分の右手を見つめていた。
「今の、何だ。レイラインが見えた。俺にも。初めてだ」
「やっぱり、そうか。僕とお前は繋がってるみたいだな」
「どういうこと」
 茫然とするライネスを見上げて、ウェイバーが立ち上がる。膝についた草を払う。
「それは……」
「ウェイバー・ベルベット。貴方、何をしたの」
 背後から声をかけられて、ウェイバーは弾かれたように振り返る。
 そこには古い杖を持ち、黒いドレスと灰色のオーヴァードレスをひるがえすブリギットが立っていた。波打つ黒髪が夜風に揺れる。
 ウェイバーは小さく会釈した。
「均衡結界を外しました。時計塔に侵入したサーヴァントを排除するためには英霊の召喚が必須です。そのために。また掛けるつもりでした」
「合格よ」
 ブリギットが太陽のように眩く笑う。
「ようこそ。龍脈管理人ロンマイ・ケアテイカーの世界へ。もう貴方は時計塔に納まる器ではありません。いらっしゃい。アーチゾルテの坊やも」
 黒いドレスの裾が夜の庭を撫でると、目眩くように空間がめくれ、あの庭が現れた。
 夜の庭は初めてだ。
 そこには小さな小屋コテージがあり、窓には明かりが灯っていた。瑪瑙をくりぬいた甘い光。白いガーデンテーブルは月に濡れ、小屋の扉が開くと、かの王が顔を現した。
「コンバンワ オキャクサマガタ」
「何十年ぶりかしらねえ。この工房に入る資格を持つ客人は」
 ライネスは初めての庭を茫然と見渡し、一言も喋らない。
 ウェイバーは小屋の扉をくぐるとき、猛烈な結界を感じとった。ケイネスの比ではない。招かれざる客は小屋さえ見えないことに気づいた。
「マダム・ダグラス・カー。ここ●●はいったい何処なんですか」
 ブリギットは暖炉の火に薪を足して微笑んだ。
「マーリンの工房よ」
 ウェイバーもライネスも言葉が出ない。
 古い小屋はよく手入れされ、窓辺には薬草の束が並んでいる。暖炉脇の棚の中には、たくさんの薬瓶と鉱物。無造作に床に置かれた籠の中には正体も知れぬ骨や羽が燦めいている。
「此処こそ、我ら英国の魔術師たちの魂の揺りかご。我らが陛下、アーサー王の歩みし土地。時計塔が建つべき世界で唯一の場所。マーリンの庭です」
 ブリギットが微笑んで壁の金具に杖を掛ける。
 彼女は初めてウェイバーとライネスにいやを払った。ドレスを持ち上げて膝を曲げる会釈を見せたのだ。
「我らが一族が祖師マーリンより工房を預かって千五百年。貴方は数えるほどしかいない、彼の客人です。ウェイバー・ベルベット」
「どうして僕なんです」
「貴方は見えたでしょう。陛下の置き土産が」
「はい」
「それが答えよ」
 ライネスがおずおずと半歩、進み出た。彼はめずらしく気後れして、指先で短い金髪をかいている。
「あのう、俺はここにいていいんで?」
 ブリギットがドレスの腕を組んで首を傾げる。
「貴方はウェイバーの付き人でしょ?」
「あ、まあ、じゃ、そういうことで」
 ライネスが眉をしかめて、ぱさついた金髪をくしゃっとかきあげる。ウェイバーとブリギットが堪えきれないように笑う。
 アーサー王の姿を持つホムンクルスが一同を見守っていた。

ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者 ⑥救国の英雄 に続く

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