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ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者④楽園の蛇

※『Fate/Zero』二次創作です
※『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』『ロード・エルメロイⅡ世の冒険』ともに未読です
※『FGO』は未プレイです
※ライネスは男の子で、名前は同じだけど別人です
※登場するメインキャラクターはウェイバー、ギルガメッシュ、イスカンダル(ウェイバーと直接会うことはありません)です
※時計塔の描写は『Fate/Zero』の説明から逆算できるものにしています
※トップ絵は大清水さちさん https://twitter.com/sachishimizu に依頼しました

     4. 楽園の蛇

 ライネスは走った。学園の空間を歪めることができれば、とさえ思った。
 ウェイバーに桁違いの才能があるのは確かだが、魔術の行使に関しては平凡な域にとどまっている。あいつよりずっと馬鹿なのに、あいつより魔力のある爆弾野郎や地雷女がうじゃうじゃいる空間なんだぞ、ここは。
 おまけに今朝の奴。
 明らかにウェイバーを狙っていた。
 渡してたまるか。あれは叔父上の刻印だぞ。
 西棟二階への階段を駆け上がる。するとドアの前にあの男がいるのが見えた。
 すでに廊下は呪詛の重苦しい瘴気に満ちて、息をするべき場所ではなかった。ライネスは瞬時に大気中の水を操り、瘴気を払う。白い霧が廊下の奥へと空気を洗う。彼が二階に足をかける時には洗浄が完了していた。
「どうもー」
 ライネスは声をかけると同時に、一気に大気をねじ曲げる。本来であれば風の属性が必要だが、身近でケイネスを見てきたライネスは気がついた。水分子を起点に魔力を伝播させると、流体をコントロールして気流さえも支配できる。
 空気にねじ上げられた男は、ローブの中で雑巾のように絞られていく。
「アーチボルトを舐めんじゃねえ」
「小童めが」
 雑巾もかくやに変形していた男が煙のように拘束から抜ける。ライネスはすぐに霧をまとい、廊下の壁に手をついた。
「お前が誰かなんて、どうでもいいんだよ。死には死を。十五水塔ブルジュ・バラーリ
 廊下に冷気が走る。厳密に言うと、廊下が存在する空間の内容が変転する。そこにある水が急速に運動エネルギーを失い、固体化→廊下はみるみる純白の氷に埋めつくされ、男は完全に凍りついた。あまりの冷気に大気中の水分全てが結晶となり、光を散乱、ミラーボールのように輝いている。男の身体がばらばらと砕け、光の中で散らばった。すでに肉体を失っている魔術師の可能性が高い。
 それでも、生命体である以上は、このライネス様からは逃げられねえよ。
 いいか、ライネス。
 ケイネスの教えが蘇る。
 我ら《水》は最適の属性だ。物質の多くに水が含まれる。ことに有機生命体は必ず水を含有する。物質界アッシャーにおいて最強の属性は水だ。火だの空だの、そんなもの、単一では仕様が限定されすぎる。
 水を操ることは、物質世界を操ること。
 完全なる水のコントロールから逃れ出られる生命はない。
 忘れないよ、おじさん。俺が全てを引き継ぐから。
 そして、ライネスは手を返した。
「太陽と月の娘たる基盤イェソドよ、三つの柱を昇らしめよ!」
 瞬間、氷が一気に蒸気に沸騰、物質全てを焼きつくす。廊下を占める大気が震え、烈風が切り裂いた。
 廊下つきあたりの窓が砕けて、外に熱風が流出する。ジェットストリームのような暴風の中で、それでもライネスは水に守られて涼しい顔だ。水の流出を抑えて、内容物の散逸を防ぐ。この風に乗って逃げる可能性はあるからだ。
 さらに術式を上げようとした時、
 EMERGENCY!
「やべっ、やっちまった!」
 均衡結界が降りてくる。
 術式が無効化される!
 かけようとした術式を解除、魔力を回帰させる。二度目なので、対策も頭に浮かんだ。
 でも今までに発動させた術は有効なんだろ、今やろうとしたやつがヤバいってことで。じゃ、やらせてもらうぜ。
 とにかくライネスは術を維持しつづけた。絶対に男を生かしておく気はなかったので。


 ウェイバーは半ば気を失っていた。
 なんだか分からないが動けないと思った。痛いのだということさえ分からなくなっていた。朝日の当たる明るいベッドで、ぐるぐるとのたうち回りながら、どうにもできない。
 すると扉がノックされた。
「ウェイバー ベルベット サマ」
 硬い声には覚えがある。
 セイバーの人形だ。あのアーサー王の姿を持つホムンクルス。外にいるのか、なんで。
「オムカエニ アガリマシタ シツレイシマス」
 扉が開いて、誰か入ってきた。人間ではないことだけが解った。枕元に立つ少女の顔は平静だ。人形の手がウェイバーに触れた。
「キュウカン デス!! キュウカン デス!!」
 彼女が手を握ったとたん、ウェイバーの身体は宙に浮いた。
「え、あれ……?」
 痛くて朦朧としていたので、自分が飛んでいることに気づかなかった。アーサー王の姿を持つホムンクルスに麦束か何かのように横抱きにされて、ウェイバーは時計塔の中を疾走していた。途中、突然、人形が止まり、すらりと右手に剣が現れた。
 『約束された勝利の剣エクスカリバー』じゃないや。流石にあれは再現できないよな。
 細剣レイピア片手に人形が踊る。
「キュウカン デス!! キュウカン デス!!」
 魔術師の首が宙を舞って、血飛沫を上げて飛んでいく。ウェイバーはそれが現実のこととは思えず、目を閉じた。
 気がつくと、また庭園にいた。
「オメザメデス! オメザメデス!」
 ウェイバーは庭の真ん中で寝ていた。春のような青芝は柔らかく、いつのまにか庭は秋になっていた。大きなダリアが首を並べてウェイバーを覗いている。
 起き上がると、不思議なほど楽になっていた。
 あそこで寝たときみたいだ。冬木の地脈の上で。
 黒いドレスを飜してブリギットがやってきた。
「少し落ち着いたかしら、気分はどう」
「今は大丈夫です」
 ウェイバーがシャツを開いて腕を見ると、刻印が変化していた。薄い黄色に光っていたのに、血色に沈み、くっきりしている。
 令呪れいじゅ、みたいだ。
 なんだ、これ。どういうことなんだ。
 まさか。
 ウェイバーはそっと掌を地面につけ、地脈を探ってみた。もし読めなかったら、判らなかったら、僕は──目を閉じ、祈るような気持ちで集中すると、おかしなものが見えた。地の底に竜がいる。まっすぐ延びて眠っている。囚われた竜は大地の骨に変わるのだ。
 あれ。竜の首に小刀が刺さってる。
 あれは白き少女の柄カルンウェナン──ここはアーサー王がいた場所なのか?
「よかった」
 手を握ってウェイバーは息を吐く。
 なんで、あんなものが見えたのか分からないが、自分の属性は変わっていないらしい。
「ウェイバー、あまり状態はよくないわ」
「みたいですね。なんで刻印の色が変わったんだろう」
「貴方は食い潰されようとしている。刻印を外す必要があるわ」
 ブリギットがドレスをたわませてウェイバーの横に座りこむ。杖を立て、感情の読めない顔で見つめていた。ウェイバーはああ、とため息をついた。
「やっぱり。なんか普通じゃない痛みが来て。なんだかよく覚えてない」
 ウェイバーは額に手をあてて首を振った。黒髪は汗を含んで、ぱたぱたと音を立てる。熱も出ていたようだ。分からなかった。穏やかに目を上げてブリギットを見つめた。
「刻印の外し方は解りました。自分でできます」
「その刻印は何の魔術なの」
 ウェイバーは芝の向こうのルドベキアを見つめた。
「これは非常に特殊な刻印です。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの最高傑作と言っていい。聖杯の契約システムに介入できる。現状で、英霊サーヴァント令呪れいじゅにアレンジを加えた唯一の術です」
「解明できたの、貴方」
 目を丸くするブリギットにウェイバーは力なく頷いた。
「できました。ライネスが協力してくれて」
「ああ、アーチゾルテのあの子ね」
「遺体は用意できますか」
「私たちの陛下に移植して。概念遺体も兼ねられる」
 事もなげなブリギットに今度はウェイバーが驚く。アーサー王のホムンクルスがドレスをつまんで一礼する。それだけ見ていると可愛い少女だと思ってしまう。
「このホムンクルス、何でもできちゃうんですね。なんか、さっき、誰かを斬っていたような」
「ああ」
 ブリギットの笑顔が冷たい輝きを帯びた。
「患者に対する礼儀を持たない輩は斬ってもいいのよ。ダグラス・カーの患者は救済されなければならないわ」
「……あ、ありがとうございます、なのかな」
「そうね」
 ブリギットが豊かな黒髪を波打たせて、にこっと笑った。
「本当に貴方ができるの? 私は何か手伝った方がいい?」
「ぶっつけなんで、何かあったらすみません。でも基本構造は解っているので」
 ウェイバーは集中して魔力を調整する。疲れはあるが、調子はいい。いつもより魔術回路の反応はずっとよかった。
「いきます」
 ウェイバーが自分の左手に向けて右手を開く。すうっと刻印の色彩が変わり、澄んだ白色に輝きはじめる。ブリギットもじっと様子を見守った。刻印はわずかに肌の上に浮き、だがそれ以上、動かない。
「……あれ? 変だな」
「外れないわね」
 ブリギットの声は冷徹な医者のものだった。ウェイバーはそうっと刻印を持ち上げようとした。刻印から延びる光はウェイバーの術に反応して上方に輝きが延びる。だが刻印本体は肌の上に止まったまま、どうやっても浮き上がらない。
 ウェイバーはいったん施術を中止した。自分の手を見つめて、愕然とするしかない。
「おかしいな。術式は合っているはずなのに」
「合っているわ。刻印は反応していた。恐ろしいことだけれど、貴方、本当にこの奇妙な術を解読してしまったのね」
 ブリギットはそっとウェイバーの隣にしゃがんだまま、静かに尋ねた。
「令呪に関する魔術だと言ったわね。使役魔術なの? これは」
「一応。複雑ですが、基本は使役魔術と人造生命体操作魔術ゴーレム・マニピュレイション、刻印移植、治癒魔術が組み合わされた術式です。なんで外れないんだろう。もう聖杯は休眠中なのに」
「貴方の術式は間違っていない。刻印は外れかけているわ」
「じゃ、なんで。何か別の術式が必要だったのかな」
 刻印を撫でるウェイバーをブリギットが横目で見つめた。
「使役魔術の基本は分かっている?」
「学校でひと通りは。専門外なんで詳しくはないです」
 肩を落とすウェイバーにブリギットが淡々と告げた。
「使役魔術は対象を隷属させるもの。自己受容性が鍵なのよ」
「分かってます。対象が隷属を受け入れない場合、術の行使は難しくなる」
「それだけではないの。術を行使する使役者も、隷属対象に依存●●することを認めないと、術は顕現しないのよ。隷属対象が必要ないなら、そもそも使役魔術が必要ないというわけだから。要するに、術をかける側も相手を必要だって認めてないと発動しないわけ」
「ええ、と。それって」
 ウェイバーは聞いたことを理解できないわけではなかった。
 むしろ、理解したからこそ、分かりたくなかった。
「貴方が令呪の対象を切り離せないと、その刻印は移植できない。そういうことよ」
 その瞬間、ウェイバーの頭の中に彼の声が響き渡った。あの赤い髪、茶色の目、子供のような笑顔といたずらっぽい視線が飛びかった。
 聖杯戦争の十一日間。常に隣にあり、ともにあったサーヴァント──たくさんの思い出、二人で歩いた夜の歩道、橋の上、『神威の車輪ゴルディアス・ホイール』の上で感じた疾走感、夜ごと手酌で飲んでいたイスカンダルの酒臭さ、あるいは彼の言動の数々にぎょっとした瞬間の驚きと高揚感──
「ダメだよ……忘れるなんて、できるわけない」
 ウェイバーは震える手で額を覆った。左腕の刻印が輝いている。血の色に。
「ライダー、なんで行っちゃったんだよ! 僕は、僕は」
 ずっとお前といたかった──
 聖杯に招かれし仮初めの客。それが英霊サーヴァント。聖杯の成る時、必ず別れが訪れる。
「分かってたけど、分かってたけどさっ」
 僕が聖杯から贈られたもの。
 それは悲哀と寂寥、歓喜と誇り。そして二度とあの人に会えないという絶望と、いつもあの人がいるという希望。
 僕にとって聖杯はパンドラの箱だった。
 捨て鉢な気持ち、卑屈さ、さまざまなコンプレックス、自意識過剰と無駄なプライド、ありとあらゆる負の感情から、イスカンダルという希望を呼び出す奇跡だった。
 僕は知らなかったから。
 お前をくべてしまわない限り、聖杯が降臨しないことを。知っていたとしても、僕はできなかった。お前を聖杯にくべるなんて絶対に。
 聖杯に懸ける望みはなかった。
 ウェイバー・ベルベットよ。臣として余に仕える気はあるか?
 振り返ることは何もない。あのとき全て満たされた。
「ベルベット サマ ナカナイデ」
 セイバーの姿を持つ人形がウェイバーを抱く。不思議なことに、その手は大きく温かい気がした。あの手が背中に触れた気がした。
 生きろ、ウェイバー。
「御意」
 ウェイバーはぎゅっと目を閉じる。
 心の奥に彼がいる。
 僕は『生きろ』と命じられた。
 僕が生きて、あの人の命を守るかぎり、僕はあの人の臣下だ。死した後は、ただ参じるのみ。
 いつも、いつまでも、僕はあの人とともにあるんだ。
 この胸に、あの日の言葉があるかぎり。
 忠道、大義である。ゆめその在り方を損なうな。
 恐れるべきは、僕があの人に相応しくない行いをして、あの人の臣たる資格を失うことだ。あの人に会えないことを嘆くことじゃない。
 こっちに来てから心が甘えてた。
 ウェイバーが顔を上げる。
 そのときブリギットは、神経質な少年が、触れれば切れる刃物のような男の横顔に変貌するのを目撃した。
 彼は怜悧な鉄の眼差しでブリギットを見つめ返した。
「次は外せます。僕が少し、間違えていた」
 ブリギットは微笑み、ドレスを整えて立ち上がる。
「……そのようね。ここでやるの?」
「ライネスに確認してからにします。彼が引き継ぐべき刻印ですから」
 突然、庭を揺るがす振動が来た。
「え、何だ?」
 ウェイバーは感知できた。自分の下から均衡結界が立ち上がる。あの強力な結界は、この庭に付随するものらしい。とてもとても古い術式だが、魔力の質・量ともに桁違いに純粋で膨大だ。こんなの、英雄王の乖離剣エアくらいしか感じたことないぞ……神代の結界なのか。まさか。
 ブリギットが腕組みして黒髪を揺らす。
「アーチボルトの暴れん坊ね。また、やらかしたみたいだわ」
「え、あいつ」
 ウェイバーは焦って立ち上がり、周囲を見回した。そういえば、ここからどうやって出ればいいのだろう。
「戻らないと! あいつがやらかしたとしたら、僕の部屋かも!」
「御名答。西棟みたいね」
 ブリギットがドレスの裾をまとめて振り返った。
「お帰りなさい。もう通院の必要はありません。でも完治とも認めません。貴方はわたしの患者。施術が必要な時は私たちの陛下が迎えに行くわ。覚えておいて」
「ありがとうございます、あの、どうやって戻れば」
「ここは私たちの陛下の庭。彼女が連れていくわ」
 ブリギットの姿が植え込みの向こうに消えていく。セイバーの人形がウェイバーにお辞儀した。
「Tis the time, Sir.」
 ふたたびウェイバーは時計塔に戻っていた。
 そして、いきなりあごが外れそうな光景を見ることになる。
 自室前の廊下に管理課の清掃係──時計塔の清掃はいいことではない。何らかの魔術痕跡の消去が目的だからだ──が解呪と浄化の礼装をまとい、右に左にひしめき合う。
 ライネスあいつだ。あいつが何かやらかしやがった!
 階段の半ばでウェイバーは茫然と立ち止まる。
「あのう」
「あら、研究生スカラー
「通ってもいいんですか」
「どうぞ。ちょうど完全解呪が終わりました。鴉を飛ばして!」
 ウェイバーは群れ飛ぶ鴉の間を抜けて、そうっと二階の廊下に爪先を乗せた。ちょんちょんと床板を靴で触っても、何も起きない。
 まさか毎日、こんな騒ぎが起きるんじゃないだろうな、西棟ここ
 本当に住んでて大丈夫なのかよ!?
 自室のドアを開けると、
「お前、どこ行ってたんだよッ! 死んじまったかと思っただろ」
 今度は胸が潰れそうな力でライネスに抱きしめられる。
 なんで、こんな奴ばっか付き合わなきゃいけないんだよ、僕。
「は、放せって」
「あっ」
 ウェイバーが身体を揺らすと、ライネスがばっと腕を広げる。ウェイバーは大きく息を整えて歪んだカーディガンを直す。
「外のあれ、なんだよ」
「ああ、ちょっと講師を一人殺しただけさ」
「はああああああ!?」
 けろっとしたライネスは聖杯戦争も抜けてきたウェイバーの感覚からも外れていた。彼は事もなげだ。
「別に初めてのことじゃねえし。コレで四人目かな」
「何言ってんだ、お前」
 普段よりがさつな口調になるのも無理はない。
「何って正当防衛だよ。だから今回はお咎めナシさ」
 時計塔の中で魔術闘争は御法度。
 現実には建前でしかない項目だ。仕掛ける側は罰せられるが、迎撃はお咎めなしと決まっている。罰と引き換えに邪魔者を葬る方が利益が高いと判断される場合もある。また仕掛けさせて返り討ちにすれば、ノンペナルティでライヴァルを排除も可能だ。
 そもそもアーチボルトの有力分家であるアーチゾルテの次代と目されていたライネス。九代目ケイネスがあまりにも突き抜けていたため、アーチボルトへの反感はライネスに集中していた。ケイネスは敵も多かったので、ライネスは入学直後から生命のやりとりなしに時計塔にはいられなかったのだ。
「だいじょーぶ。もう俺、慣れてっから」
 片目を瞑ってみせるライネスにウェイバーは肩を落とす。これが時計塔の現実だ。本当は変えなければいけないのだろう。
「そこ、自慢するところじゃないと思うぞ」
「自慢してねえ。前のが恩赦にならなかったから、まあ、そこはそれだな」
 腰に手をあてて胸を張るライネスにウェイバーは頭を振った。
「そうじゃないだろ。もっと話さなきゃいけないことあるのに」
「俺も話ある」
「あ、そう」
「刻印の」
 二人の声が重なった。
 ウェイバーとライネスはお互いに、あっと言葉を止め、それから笑いだした。
「お前から喋れよ。たぶん同じ話だろうけど」
「すまーん、そっちからでいいぜ」
 ウェイバーは黙ってシャツの袖を開いた。真紅の刻印が現れる。ライネスが色の薄い目をすがめて真顔で覗きこむ。
「なんだ、これ。令呪みたいになってんぞ」
「そう。この刻印は僕にとっては令呪に変わった。でも僕には不要のものだ。僕はマスターじゃない」
 ウェイバーが揃えた黒髪を揺らして淡く微笑む。ライネスは少し驚いた。
 なんか、変わった?
「このままだと僕は刻印に食われて、最悪の場合、属性も変化する。摘出しなきゃいけないんだけど、直接、お前に移植するか、いったん管理課に渡すか。どうする? アーチボルトの希望があるか?」
 ウェイバーが怖かった。
 なんか、迫力が。こうだったかな。まるで動かぬ大地のような。こいつ、変わった。何かが決定的に。
「あのさ、お前、なんかあったのか。俺がいない間に」
「マダム・ダグラス・カーの庭にいた。ちょっと話して。思い出しただけだ。あの人がいつも僕と一緒にいるってことを」
 目を伏せたウェイバーは小柄だけれど、大きく見えた。
 ずっと大人の、手の届かない存在に見えた。
 ま、そうだよな。おじさんよりも強いんだもんな。いいさ。俺がついていく。
「そっか。分かった」
 ライネスは頷いた。
刻印そいつは俺が引き受ける。刻印を管理課に渡すのはマズい。お前は知らないと思うけど、とんでもないことになっている」
 午後の部屋、小さなテーブルで向かいあった。二人ともランチを逃したので、ウェイバーがお茶とクロワッサン、サンドイッチを出した。
 ライネスはお馴染みのプレタマンジェのパックを破ってかぶりつく。
「ん? このサンドイッチ、なんか湿ってる」
「昨日買ったから。夜食に食べようと思って忘れてた」
 ウェイバーも細い手でパックを破ってサンドイッチをくわえる。
「あー、あるある。なんか買っといたの忘れたりするよ、俺も」
 しゃばしゃばのBLTサンドはあっというまにライネスの腹に消えた。ハーブのパンを手にとると、サクッと二つに割る。
「食う?」
「もらう」
 ウェイバーが意外と健啖にパンもかじった。
 ライネスは食堂で聞いた話や状況、管理課の守秘義務違反疑いについて説明した。ひと通り聞くと、ウェイバーが眉をしかめて天を仰いだ。
「誰でも使える刻印? はあ? なんだ、それ」
 ライネスは思わずおかしくなった。そういう顔をすると、彼は全く変わっていなかった。昨日、隣にいた友人だと分かる。
 あ、そうか。俺、ウェイバーが友達になったんだ。
 ちょっといい気分。
 ライネスは口元を引き締めて前に乗りだした。
「とにかく、お前から刻印をぶっこ抜こうって馬鹿が湧き出してる。俺が部屋の前で仕留めた奴もそう。呪詛専門の講師だったらしいけど、もう身体のない奴だったな」
「絡繰りに移行してたってことか」
「たぶん。蒸しちまったから、よく分かんねえけど」
 ライネスがクロワッサンの尻尾を口に押しこむと、ウェイバーがパックのビニール片手に頭を振った。
「お前なあ」
「だってお前を殺そうとしてたんだぜ。やり返さないで、どうすんだよ」
 それはライネスによる同盟宣誓と言ってよかった。時計塔の中では滅多に起こらないことだ。
「……」
 ウェイバーが何も言わなくなった。彼は気恥ずかしそうに俯いている。ライネスはばんと膝に手を置いた。
「とにかく、刻印がお前にはないってことと、俺が持ってるって見せちまうのが速いよ。じゃないと、お前が予測した時計塔バトルロワイヤルじゃなくて、お前の争奪戦が始まっちまうぞ」
「なんで、そうなったかな、ホント」
 ウェイバーはため息をつくことしかできない。事態は完全にウェイバーの予測からずれはじめていた。それも、かなり斜めに。
「人気があるってのは、そういうこった。今はなんであれ、お前は注目されてる。そうすっと、なんでもかんでも関係づけられちまう。そういうもんだろ」
「理論的じゃない。根拠がなさすぎる」
 苦虫を噛みつぶしたようなウェイバーに、ライネスが肩をすくめた。
「根拠で人が動くわけじゃねえっつの。結局、自分の興味とか感情だろ。違えの?」
 ライネスはまだ十六歳だが、将来の後継者として大人に揉まれてきた。ウェイバーとは渡ってきた世界が違うのだ。ウェイバーはややあって何度も頷いた。
「そうだよな、僕だって頭にこなかったら、あの日、飛行機に乗ってないだろうし」
「あ、やっぱ噂はマジなの。おじさんに論文破られてヒースローに走ったっての」
 わくわくと見つめるライネスを、ウェイバーは目を細めて睨みつける。
「誰に聞いたんだ?」
「知らねえ奴はいないんじゃね? 今更かも知んねえけど、おじさんのしたことは謝るわ。流石に俺もどうかと思うし」
「はああああ」
 派手に頭をかかえたウェイバーだが、彼はすぐに冷えた横目でライネスを見上げた。
「移植するのはいいけど、お前、刻印移植の準備は? 血族でも二、三日動けなくなるんだろ」
「んー」
 ライネスが薄い金髪をがしゃっとかき回す。
「モノに拠るんだけどさ。俺とおじさんは血も近いし、そうでもなかったかな、今までは。今回のはちょい覚悟してる」
「もう引き継いだ刻印があるのか」
 ウェイバーは知らなかった。自分が立ち会い、ケイネスから摘出された刻印がどうなっているのか、全く聞いていなかった。それは非常にプライベートな事項で、普通は外に出ないことでもある。
「うん」
 ライネスは自分の腕をまくってみせた。完全に定着しているので、そこに何かあるようには見えない。
 だが彼は誇らしげだった。
「まだ力足りなくて、引き継げないやつもあるけど、1/3くらいはもう俺の身体に入ってる。今年はそのぶん授業休んだけど、仕方ないことだし。どうせ謹慎中だし。ちょうどよくね?」
 静かな自信に満ちたライネスが水色の瞳を燦めかせて笑う。秋の陽が傾きはじめていた。金色の収穫の夕日。時計塔、そしてロンドンが美しく輝く時間だ。
 俯くウェイバーの揃えた黒髪の先から、にじむ夕日が差している。
「分かった。じゃ、始めよう」
「来いや」
 ライネスが無造作に腕を伸ばす。ウェイバーが自分の左腕に右手をかざすと、今度はすうっと刻印が浮いた。
「おー、マジでできてんじゃーん。お前、すごいよ、ウェイバー!」
 素直なライネスの称賛はウェイバーを微笑ませた。
「次、お前の番だぞ。拒否るなよ」
「ばあか。おじさんの傑作だぞ。そのためにヒト一人殺してんだ。逃げるかよ」
 ライネスの腕に刻印が移る。眩い夕日の中で、白く透ける刻印がライネスの腕に降りた。とたんに刻印は澄んだ銀色に発光し、ライネスの腕に沈みこんだ。
「ん?」
 ライネスは最初、なんともなさそうだった。
 その後で、
「いてええええええええっ!」
 腕を押さえて、椅子から落ちそうになった。
「ライネス!」
 ウェイバーはずっと背の高いライネスを支えてベッドに移動させる。ライネスは歯を食いしばり、ガタガタと震えはじめた。
「あ、やっべ、属性不適合かもしんねえ。俺、風は持ってねえから……っ」
「だったらお前の身体に入らない。むしろ血族にしか適合しないんだと思う。とりあえず、ここで寝てろ」
「サンキュー……」
 ベッドにひっくり返ったライネスに、ウェイバーは毛布を掛け、窓のカーテンを引いた。もっといいカーテンを入れておけばよかったと少し後悔した。
 一時間もしないうちにライネスは猛烈な高熱に襲われた。そのわりに意識ははっきりしており、彼は燃えるような手でウェイバーの手を握って、何度も言った。
「いいか、絶対に一人で外に出るな、俺が一緒に行ってやるから」
「子供じゃないんだ。少しくらいなら戦える」
「ダメだって。相手がフツーじゃなくなってる。講師級がお前を狙ってんだぞ。いいから、言うこと聞けって」
 そのくらい叫ぶと、彼はぱたんと目を閉じて黙る。辛さも痛みも分かるので、ウェイバーは大人しく自室から出ないことにした。現実問題、自分が時計塔の講師たちと渡り合えるとは思えない。この若さで、上級の魔術師を狩り出すように仕留めてきたライネスが異常なのだ。
 そのくらいでないと、時計塔ここでは上に行けない。
 こいつはやっぱり名門なんだな……
 彼と出会って初めて、名門たるための試練に気がついた。幼少期から続く果てしない競争、逃れられない責務と重圧。続いてきた血統を絶やしてはいけないし、財産や利権も絡む。
 ウェイバーは手持ちの薬剤を調合して冷却剤と消炎剤、鎮痛剤を作った。冷却剤でライネスの首を冷やし、消炎剤を細心の注意を払って刻印に重ねる。科学的な鎮痛剤の方が安価で確実に効くのだが、こと刻印継承の痛みだけは別だ。魔術的な痛みは魔術による薬剤の方が効果がある。
 マダム・スリーテンが枕元まで来てくれたので、ウェイバーは返すつもりでライネスの面倒を看た。
 西棟にいてよかったのは食事を食堂から取り寄せられることだ。研究に没頭したい教授たちのための特別待遇で、研究生もこれに準じる。
「何が食いたい? ライネス」
「死ぬほど腹は減ってる……ステーキ、マッシュ、ソーセージ」
「分かったよ。果物は?」
西瓜ウォーターメロン食いてえ」
「Alright.」
 ウェイバーは鷹揚に彼が言うものを頼んでやった。その程度なら、今は懐が痛まない。
 うつらうつらするライネスとたわいもない話をたくさんした。頼んだ、たくさんの御馳走を食べながら。
「おじさんさ、俺がまだ小っさい時にいっぱい遊んでくれたんだ」
「意外だな」
「小さな水銀の珠をたくさん並べて。俺はボールゲームみたいに遊んでた」
 それは突然まとまったり、またバラバラになったり。なかなか思い通りに動かせないのだそうだ。それが面白くて夢中になったのだとか。
「いま思うと、あれが月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムだったんだよな」
「なんだ、それ」
「おじさんの礼装。もう、あのときに礼装決めて、育ててたんだなって思うと。やっぱ、すごいなって」
「礼装かあ」
「悩むよなあ」
 ウェイバーには想像もつかない優しいケイネスの話。時計塔の尽きせぬ噂。将来の展望。ウェイバーはイスカンダルの話を初めて他人にした。
「もう滅茶苦茶だったよ。あいつはそもそも王だから。戦いのない時はワイン飲んで煎餅食ってビデオ見て。はあ、生きた心地がしなかった」
 ウェイバーの愚痴を聞くと、ライネスは痛みに顔をしかめながら不思議そうに言った。
「お前、ライダーのこと好きなんだろ」
「ああ」
 今は素直に言える。自分が幸せそうな顔で微笑んでいることには気づいていないが。ウェイバーが柔らかい雰囲気なので、ライネスも痛みがあるのに穏やかにいられた。
「なのに、ひでえ言い方」
「事実を言ってるだけだ。悪いけど、たぶんケイネス先生がイスカンダルを呼び出しても反りが合わなかったと思う。あの勢いについていけない。作戦で揉めそうだし」
「そういうもの?」
「ああ。ホント、すごいんだ、あの人」
 目を閉じるウェイバーの胸には誇らしさがある。ライネスが刻印を受け継いだ時と同じなのかもしれない。自分には、これができるのだという自信。そして、やってのけるのだという決意。目を開くと世界が明るい気さえする。
「僕の大切な人なんだ」
「そっか」
 ライネスが最後のステーキを口に押しこんでベッドに潜りこむ。彼は背中を向けて、震えている。ウェイバーは黙って枕元に鎮痛剤を置く。
「そうだ、お前の反省文、いい感じに代筆しといてやるから」
「…………筆跡、やばくね?」
「お前が刻印継承で寝こんでいるから、僕が口述筆記で代筆したって書き添えてやるよ。そのまま学部長に持ってけ。ついでに上層部にも刻印が移動したことが分かって、一石二鳥だろ」
「ん、分かった。ありがとう、友よ。マジ、いてええ……」
 友?
 思わずウェイバーは振り返る。
 イスカンダルしかいないと思っていた。もし友人と呼べる人があるとしたなら。少なくともマッケンジー邸での日々、自分たちの間に上下はなかった。自分が勝手にコンプレックスを抱いていただけだ。彼は自分を見下したりはしなかった。あの人にとって臣下は目下じゃない。ともに戦う仲間だから。
「じゃ、名文書いて、ソフィアリ学部長を泣かせてやるよ」
「やりすぎないで、マジで」
 ううと唸りながらライネスの息が静まっていく。ウェイバーが置いた鎮痛剤のビーカーは空になっていた。
 ウェイバーはパソコンを開いて時計を見上げる。
 気づくと一時を過ぎていた。ちょっと早いけど、まあいいか。こちらに来てから想定外のことばかりで、すっかり連絡が滞っていた。
 ウェイバーはぱんと携帯を開く。慣れ親しんだ番号をすばやく連打する。
「Ah, Granny Martha? This is me, Waver.  (あ、おばあちゃん? 僕だよ、ウェイバー)」
『Oh, dear, My boy Waver!  (まあま、ウェイバーちゃん?) 』
 電話の向こうから懐かしい日本語のニュースがぼそぼそと聞こえてくる。
『貴方、ウェイバーちゃんから電話ですよ』
 すぐにマーサが電話口に戻ってきた。
『どうなの、そっちは。何か必要なものはある?』
「やっと落ち着いたから。大丈夫だよ。心配しないで。学校で成績を認められて特待生になったんだ。今は寮で生活してる。待遇もいいんだ」
 マッケンジー夫妻には自分が魔術師という、現代においては非常に胡散臭い職業であることは告げていない。心配させるようなことは話さないと決めていた。彼らを騙して入りこんだ自分を、あろうことか孫として受け入れてくれた老夫妻に心配などかけたくない。彼らが喜ぶ話だけして、楽しく自分を待ってほしい。
『あら、まあ、すごいわあ。特待生ですって、グレン』
おばあちゃんグラニー、落ち着いて僕と話してよ」
 笑いながらウェイバーが言ってしまうと、電話の向こうで二人の笑い声が響いた。ウェイバーはほっとする。
『そうだわ。アレクセイさんとは会えたの』
 アレクセイ……それはマッケンジー邸で堂々暮らしていたイスカンダルの偽名である。偽名というのも微妙ではあるが。あいつがアレクサンドロスって名乗らなかっただけで、今は賞めてやりたい気分だよ。
 ウェイバーは目を閉じる。そうすれば、彼が見える。
「うん。相変わらず無茶苦茶でさ。これから、あいつを手伝わなきゃいけないんだ。大変だよ」
 世界を救えだって。聖杯戦争より酷いぞ、これ。
 ま、やり遂げるつもりだけど。
『お友だちがいるなら安心ね。ウェイバーちゃんの住所、教えてもらっていいのかしら』
「ああ、それね。ちょっと待って」
 ちゃんと時計塔には外部と接続するための公式な住所も存在する。事務局留めで連絡がとれる。ウェイバーの言う住所をマーサが一生懸命、書き留めているのが音で分かる。
「そうだ、おばあちゃん。お煎餅、送ってくれないかな。なんでもいいから。ちょっと食べたいんだよね」
『分かったわ。またアレクセイさんが来るのなら、ちゃんと連絡してからね』
「んー、違う友達と行くかも。すぐじゃないけど」
 そんな言葉を口にしている自分が信じられない。
『まあ! まあまあ。よかったわあ、お友だちができたのねえ』
 マーサが涙声に変わっていて、ウェイバーは居住まいが悪い。でも、それは嫌な感じではなかった。少し話して、グレイにも挨拶して、電話を切った。
 不思議だな、ライダー。
 お前と別れた後、まさか家族と友達ができるなんて。
 うん、そうだ。あいつのところに行く時に兵を増員しててもいいんじゃないか。あっちでいろいろあるかもしれないし。ま、希望者のみってことになるけど。
 楽しみにしておるぞ、坊主!
「うん」
 灯りのついたデスクの前で椅子の中でうたた寝した。でも、頭の中は違っていた。マッケンジー邸の床で二人で寝潰れてしまったときを思い出していた。なんだか、とても安堵していた。いつでも夢で、心で会える。触れることはできなくても、あの人の言葉は聞こえる。
 僕はなんて幸せ者なんだ。


 翌朝、ライネスは驚くほど回復していた。
「ててて、いてえええ」
 ほとんど四六時中、呻いているが、熱は下がっていた。腕の刻印はうっすらと銀色を保ち、僅かな光を放っている。ウェイバーが手をあてて刻印の状態を探る。あのとき見た術式が役に立ってしまうとは。人生何があるか分からないエナンティオドロモスって、こういうことなのかな。
 ライネスはほとんどまともに目を開けられない。いつも痛みで、どちらかの目がやぶにらみになっている。だが顔色もよく、消耗した様子もない。アーチボルトの血統は相当に強いらしい。
「ど? あまりにも痛えんだけど」
「僕は二週間、寝込んだんだぞ。それに比べたら、ずっと軽い。ちょっと我慢しとけ」
「分かってるけどさ、てええええ」
 ウェイバーはライネスの手をそっと戻した。
「状態はいい。安定してる。刻印は定着した。やっぱりお前を選んだよ、ライネス」
 とたんにライネスが涙ぐんで、にかっと明るい笑顔になった。
「俺、ちょっとはおじさんに近づけたかな」
「ああ。これから、この術を使えるのは、お前だけだ。僕は適合者の一人ではあるけど発動はさせられない。ただ、これ、お前が生きてる間に使うことはないと思うけどな」
 ウェイバーも肩をすくめてみせるしかない。なにしろ聖杯戦争は六十年後だ。ライネスもそれは分かっている。
「俺じゃなくていいんだ」
 彼は白く光る刻印に手をあてて嬉しそうだった。
「俺はもっと改良して負担の少ない術式に変えていく。そしたら、俺の子供か孫が参戦するとき、役に立つ。魔術って、そういうものだろ」
 それはウェイバー自身の理想とは違っている。だが、彼にとっては、それが正しい。
 ウェイバーはおかっぱを揺らして目を伏せる。
「ああ。それでいいと思うよ。こんなもの、使わなくてすめば、それに越したことはない」
 その日、ライネスは強がっていたが、ベッドから出ることはできなかった。
 ウェイバーは当たり障りのない文体で、なかなか殊勝な反省文をしたため、ライネスに渡した。昼過ぎにセイバーの人形が訪ねてきて、ライネスのための鎮痛剤を届けてくれた。
「ベルベット サマ マタ オアイシマス」
 ホムンクルスがお辞儀して帰っていくと、ベッドの中からライネスが茫然と見つめていた。
「すっげえ。初めて見たあ」
「あ、あのセイバーの人形か」
「あれ、セイバーなのか? ああ、未遠みおん川の戦いで剣振るってた英霊にそっくりだな、そういえば」
「セイバーだよ。アーサー王」
 ウェイバーは受け取った薬をテーブルで開ける。それは小さな可愛らしいバスケットだった。中には温かい紅茶の入ったティーポットと瓶入りのミルク。瓶には細い青いリボンが巻かれている。ウェイバーは分かっていたので、リボンをライネスの手に巻いてやった。それは発光して消えていく。
 とたんにライネスが不思議そうに手を動かした。
「あれ? なんか痛くねえ」
「それは一時的な痛み止めらしい。ちゃんとした薬はこっちの紅茶だ。ちょうどいい。ティにしよう」
 食堂から遅いランチを取り寄せた。
 廊下で気配がしたことがある。ライネスは迎撃しようとしたがウェイバーは止めた。
「ケイネス先生の結界を破るのは上級の魔術師でも難しい。だから衛宮切嗣はホテルごと爆破したんだ。ここにいる限り、安全なんだから、出ることはない」
「聖杯戦争って、そんなのなのかよ」
 ウェイバーは現場にいたわけではない。だが、あのときの冬木で妙な事件が起これば、関係者は聖杯戦争と結びつけざるをえない。今は第八と魔術協会双方の調書に記載されている。
「まあな。最悪の連続だよ」
「うはあ」
 ライネスがムンクの叫びみたいな顔でベッドに倒れこんだ。
 そんな一日が過ぎた後、なんとライネスはすっかり元気になっていた。
「うほお、完全復活ー! 調子がいいぜえええ」
 ベッドから飛び降り、気勢を上げてシャワールームに駆けこむ。
「借りるぜっ」
「どうぞ。調子がいいんじゃなくて、今までがダメだっただけだろ、ライネス」
「やっほー、やっと汗が流せるー」
 ばたーんといい音を立ててライネスがシャワールームに消える。
「あいつ、ホントにケイネス先生の再従兄弟なのかよ……」
 まったく、いわゆる「いいうちの子」の基準からライネスは外れている。だが彼は乱暴なようでものを壊したりしないし、食事の仕方は、ものすごくきれいだ。人に対して嫌な表情もしない。よく躾けられているのは確かだ。
「変なやつ」
 ウェイバーは口元を緩めて、寝不足でもやもやする頭を振った。まったくアーチボルトの血統はどうなっているのか。自分が二週間ものたうち回ったあげくに、魔力の消耗で死にそうになっていた刻印を二日で定着完了とか、デタラメすぎないか。
「これで今日からベッドで寝られそうだ」
 刻印を譲ったウェイバーは魔力の方は回復したが、椅子で寝続けたせいで全身がギシギシと音を立てそうだった。


 久し振りに二人で食堂に出た。朝食は間に合わなくて、ランチの時間だ。静謐に沈む時計塔だが、食堂だけは別だ。いつも喧噪が埋めている。
「イケメンだよねえ」
「見た見た、すっごいねえ」
 席を取る女子の会話にきょとんとした。
 ライネスが末席に決まっているので、ウェイバーは隣に席を取った。謹慎席に近づく生徒はいないので二人の周りは閑散としていた。
「誰の話だ?」
 ライネスがクロスに肘をついて目を伏せている。ウェイバーは彼が微妙に魔術回路を起動させているのに気づいた。解らない生徒が多いと思われる極低出力だ。繊細に過ぎる魔力のコントロールがライネスの特長だろう。
 ウェイバーは給仕が来るのを横目で探る。特に変わった様子は見られない。
「聞こえるのか」
「まあな。あ、もしかしてお前、解っちまうのか」
 ライネスが苦笑いして肩をすくめる。
「ホント、お前、惜しいな。回路を譲りたくなるぜ」
「はあ!?」
「ランチの御注文承ります」
 給仕が立ったので、二人は慌てて本日のメニュウを確認する。ランチは日替わりだ。
「ビーフシチューとアップルクランブル」
 ライネスは笑ってしまうくらい肉派らしい。いわば病み上がりにもかかわらず、しっかり食べる。ウェイバーがくすくす笑う理由も分からないらしい。変な顔で見つめている。
研究生スカラーは」
「僕は、鱈のクリームシチューカレン・スキンクとスティッキー・トフィー・プディング、お願いします」
「かしこまりました」
 ウェイバーたちと反対側の奥に人だかりができていた。
「新入生がいるみたいだな」
 ライネスが眉をひそめる。
「今?」
 ウェイバーも不審を隠さない。新学期は三週間も過ぎている。かえって日本などのアジアから四月に編入してくる方が納得できる。
「昨日、来たらしい。随分、噂になってるな」
「そりゃ、そうだろ。時計塔に時期外れの新入生なんて」
「お前以来だな、ウェイバー」
 うっとウェイバーは言葉に詰まる。
 すぐに料理が並んで、二人は食べはじめた。ライネスは聴覚操作を続行しながら食べている。魔力消費もごく小さく、手練れの技だ。
「なんかアジアから来たって話だな。男だ。けっこう歳いった声」
 この表現は時計塔の生徒を対象にする場合、大学生以上の年頃という意味になる。
 時計塔は、俗に初等部と言われる予備学科と本体である研究組織の二つから成る。一般の学校のような段階はない。初等部の入学条件も、なんらかの事由で親が養育をできない場合とされており、基礎は自宅で修めてくるのが常識である。そのため初等部に属する生徒の年齢はバラバラで、早ければ準備学校プレップ程度の年頃で入寮してくる子供もいる。上級組織の時計塔ともなれば、一般の大学と同じく、さらに年齢層は広がる。
 ウェイバーは親が魔術を教えてくれなかったせいで、屈辱的な「初等部戻し」──基礎が足りないと判断された生徒は初等部で徹底的に鍛え直される──を体験している。それも一年で飛び級してみせたことはウェイバーならではの業績だったのだが。
「あと、なんつうか、言葉遣いが変わってんな。曾御祖父ちゃんみたいだぜ。一回だけ会ったことある」
「もしかして英語が話せないのに親の都合で放りこまれたのかな」
 そういう生徒も時折いる。特にフランスやイタリアなど欧州の魔術家門は、子供が充分に英語を話せないことを認識していながら、平然と子供を入学させるので、在学生や講師たちは面倒をみなければならないことがある。
「そーゆー感じの話し方じゃねえけど、声はいいな。ちょっと格好いい感じだ」
「ふうん」
 ウェイバーはスプーンにまとわりつくスティッキー・トフィー・プディングを頬張る。棗椰子の入ったふわふわのスポンジに、歯に染みるほど甘い濃厚なトフィー──キャラメルっぽい味だが、ミルクベースでバターは入っていない──をたっぷりかけてある。ライネスは出始めの青林檎ブラムリーのクランブルをざっくりすくう。さくさくした、そぼろのようなクランブルと林檎はイギリスの定番だ。
 食事の間、特に変わったことはなかった。ウェイバーを気にする生徒は何人かいたが、謹慎処分中のライネスを憚って近づいてはこなかった。
 異変が起こったのは、新入生と思しい人物が席を立った時だった。
 血飛沫が上がったように見えた。
「え?」
 ウェイバーが瞬きしている間に、ライネスがさっとウェイバーの手を握った。彼は人だかりの奥を睨みつけている。
「離れるな」
 美しい時計塔の食堂に血の臭いが充満した。ウェイバーの頭に薄暗い排水路の記憶が蘇る。まさか、まさか。
「わあっ」
「きゃあああああ」
 絹を裂く悲鳴と同時に子供たちが走り出る。彼らは皆、恐怖と驚愕に凍りつき、動転していた。何度も転びながら走れなくなる子供、あるいは泣きながら叫んで両手を上げたまま全速力で走る少年。笑っているのか、泣いているのか分からない硬直した表情で、悲鳴が出ない女の子。
 ウェイバーの周りは戦場のような殺気が暴風となって流れていた。
 その奥で金髪の青年が子供の身体を持ち上げていた。その左手が優雅に胸を貫き、心臓をえぐり出す。
「おい、あんた! 何してるんだ!」
 叫べたのは食堂でウェイバーただ一人だった。彼にとって、人の死体が転がる様も、目の前で人が死んでいることも経験済だったからだ。人を萎縮させる騒然とした殺気も、彼にとっては懐かしいほどのものだった。アサシンに襲われること二回、あのときよりも危ないとは感じていない。
 ウェイバーはすっくと立ち上がる。
 青年が心臓を握りつぶして鮮血をほとばしらせる。その後、信じられないことが起こった。彼の手が子供の死体にあてられると、内蔵されていた刻印が浮き、次々と青年の身体に吸いこまれた。
ここ●●では刻印とやらが必要なのであろう? 当座は、これでよいとしよう」
 彼はけろりとしている。
 ありえない。
 席を離れようとするウェイバーの手をライネスが渾身の力で引き留めた。
「行くなっ、ウェイバー」
「放せ」
「馬鹿いってんじゃねえ。ありゃ人間じゃねえよっ」
「ほっとけるか、行くぞ」
 ライネスを引きずろうとするウェイバーの視界で青年が振り返った。
 彼はウェイバーを見つけると、鮮やかに微笑んだ。
 ああ、その秀麗なる顔立ちを忘れるはずもなく。一目見れば脳に焼きつき、生涯、支配されかねないほどの美貌──あでやかなる目元はユーフラテスブラヌンの濁りより、なお謎めいて沈む。
「捜したぞ、小僧。朝貢の品を差し出すがよい」
 血を垂らした紅玉の瞳、太陽のごとく輝く金髪、大理石のごとき白い肌に散る鮮血の鮮やかさよ。黒いシンプルなスーツとシャツがかえって彼を引き立てる。均整のとれた身体は微動だにせず、二人の子供の死体を提げていた。
「カラム! アシュリー!」
 誰だか分かった瞬間、ウェイバーは叫んでいた。
「そなたの知り合いであったか? それは重畳」
 死体を軽やかに放りだし、血濡れた腕を振るって歩いてくる彼は英雄王──彼の後ろにセイバーの顔を持つホムンクルスが付き従う。だが、その様子はウェイバーが知る、あの庭のセイバーとは違っていた。黒い妖艶なドレスを閃かせ、白い胸元が光る。髪型は同じだが、灰の金髪アッシュブロンドで瞳は不吉な金色に光っている。まるで、貴き英雄王の鎧のように。
「何、この慰みものに触れんとした不敬の輩を退治たまで。そう怖い顔をするな」
 英雄王は真っすぐウェイバーの向かいに来て立ち止まった。面と向かうと、背筋が震える。
 だがウェイバーは目を逸らさない。
 あのときよりも恐怖はない。むしろ危険なはずなのに、ウェイバーは落ち着いていられた。
「あんた、いったいここ●●で何をしようというんだ」
「王の言葉が聞こえなんだか? そなたが朝貢の品を持つ故、自ら受け取りに足を運んでやったまで。なに、船遊びのついでよ」
 血色の瞳を揺らめかせて邪悪に微笑むギルガメッシュは壮絶な美しさだった。
 彼が手を伸ばす、ウェイバーに向かって。
「聖杯の解析は終わったか? 我が妻を呼び寄せる方法が判ったはずだが?」
「……あんたの叙事詩に妻なんて出てないだろ」
 怖いのを通り越して、ウェイバーは笑い出しそうになっていた。ギルガメッシュが片方だけ眉をひそめて自慢げに笑った。
「たわけ。そなたも何度も会うてあろうや。セイバーを呼べ、小僧」
「は?」
 心が素通りしかけたウェイバーだが、ギルガメッシュが逃げ損ねた少女に目をつけた。彼はさっと一飛びで背後の少女を吊り上げた。
「ああぁぁああっ」
 火がついたように泣きだす女子生徒の首を、ギルガメッシュが高々と掲げる。
「その子を放せ、英雄王」
 冷静に彼と渡り合えるのはウェイバーしかいなかった。子供たちは大半が食堂から逃げ出しており、スタッフたちも腰を抜かして倒れたり、遁走している有様だった。
「なあ、そなたのみが聖杯さえも編み解けると噂ではないか。そなたの才を我に捧げよ。さもなくば、気の赴くまま死を賜わさんぞ」
 それが間違いなく本気であることをウェイバーだけが理解した。聖杯戦争で出会った彼は理由もなく人を殺す人間ではなかった。非常に冷酷で逆らいがたく、どこで爆発するか分からないようでいながら、筋の通った行動を保っていた。
 だが今の彼は何かが違う。
 まるで別人だ、やっぱり。僕が知ってる英雄王ではないような。
 彼は優しく微笑んだ。
「如何、ウェイバー・ベルベットよ」
 なんで、こんなときに。
 あんたが呼んでくれたのに。
 なんで、こんな話なんだよ、ギルガメッシュ!
「……ウェイバー」
 ライネスがそっとウェイバーの手を引いて首を振る。だがウェイバーは目を上げた。
 あんたが認めてくれたから、僕は誇りに思っていたのに。
 こんなの、あんたらしくない。なんで、こんなことを!
 透徹した眼差しは少年のものではなかった。彼は冷徹な動じる様子もない男の顔で、世界最古の英雄を睨みつけた。
「分かった。やってやる。だから、その子を放せ。英雄王に二言はないよな」
「当然だ」
 ギルガメッシュがぱっと手を放す。
「しばらくは、ここで退屈を殺すとしよう。だが我の気は長くない。忘るでないぞ、小僧」
 ギルガメッシュの後ろにぴたりと黒いセイバーがつく。彼女のドレスが死の色でたなびく。
 食堂には二人の死体が投げ出され、血の海が広がっていく。
 立ち尽くすウェイバーの横をギルガメッシュが悠然と歩き去った。
「あ、あははははは」
 突然、糸の切れた笑い声が響いて、流石のライネスがウェイバーの腕にしがみついた。
 あの少女が気の触れた笑いをなびかせて、食堂の中で踊っていた。

ウェイバー・ベルベット──時計塔の探求者 ⑤マーリンの庭 に続く

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