某事件の完結

ようやく某事件について決着がついた。散々有用な情報を引き出そうとしたにもかかわらず、ほとんどない。にもかかわらず「人と関わることは常に良いことだ」などと言っているのがイライラきたんだろう。「今後噂話の吹聴は一切せず、出会いから今まで、すべてが単なる時間の無駄であり、存在も関わりも可能なかぎり全て忘れる」ということに合意してもらい、ようやくすっきりした。これで晴れて、時間軸を大学院を卒業して研究テーマについて「ほとんど全てをやりきった」という達成感と同時に進む道がない、という無力感に打ちひしがれ、にもかかわらず寿命が余ってるのでなんとか他の目標を見つけなければいけない、と思い、ひとまずバカンスをとってヨーロッパを周遊して帰った時まで戻すことができる。

あれから面倒な人間関係に巻き込まれたが、基本的には私は「研究目的を失った」という状態にあった。事件が起こったのは、震災が起きてその「緊急時のルール」での行動に一区切りつき、目標が達成されて、日常のルールに戻ろうとした時のことだった。それも何の価値も生み出さない、ただイライラだけが残る不毛な時間、それに2年ほどを消耗されてしまった。その時間の中でも、まあプリゴジンをちゃんと読んだり、ヘラクレイトスを読んだり、プログラミングやAIに触れることができたのは有益だったかもしれない。しかし基本的には、受けたストレスと人間関係は無駄以外の何物でもなかったと言えよう。それらを避けるべきだ、とわかったことは逆説的には有益だったのかもしれない。

さて、私はここで「マルコフの淵」の立つことができる。つまりは「現在から未来を予測する時に、過去は何ら関係ない」という状態のことである。もし、今日が初めてこの世界に降り立った日であれば、私は一体何をしたいのだろうか。そういうブルーオーシャン感覚を久しぶりに手に入れることができる。心なしか、世界が鮮やかに色めいて見える。これからまた、新しい時代が始まっていくのだ。

私はやはり、また新しい「問い」に取り掛かる必要があるのかもしれない。そして嫌な記憶を消し去るのに一番いいのは「文脈」を変えること、であるらしい。それは同じく、言語体系を変えることも意味するだろう。言語体系とそれから出てくる意味構築を変えるということをも意味する。何かのカタストロフが起こった時、私は確かに「言語崩壊」を経験しているかもしれない。一時的に言葉が話せなくなったり、言葉が聞けなくなったり、特定の語彙に触れることができなくなるのだ。私が某環境に感じた薄気味悪さは、彼らの周辺環境ではかなり古い言語体系で進化が止まっており、時代後退感覚を感じたところなのだろう。次はどこの場所の言語体系を入れるべきか、私はその部分については少々迷いがある。しかし昭和の時代の性差別感覚を追っている人がいるような場所は不気味すぎて一瞬たりとも近寄りたくない。

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