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ポケットから孔雀が2羽


 2024年のほんわりぬるい春の夜。プノンペンでひとり晩酌をしているというKくんから突然LINEが来た。何でも、カンボジアでサーカスを観て、昔バンコクで私たち一家と一緒に行ったサーカスを思い出して連絡したくなったとのこと。それを告げられて、20年ほど前に観たサーカスの光景が鮮やかにフラッシュバックした。ちょうどKくんのお誕生日でもあるし、あの思い出を言語化してささやかなプレゼントにしたいと思う。
 Kくんはおそらくは博多あたりで青春を送った人で、知り合った頃は流暢なタイ語を使ってバンコク中央駅(フアランポーン)の二階にある小さなトラベルエージェンシーで働いていた。当時は駅近くの運河に面した中華系の安ホテルを常宿にしていたので、Kくんを知ってからはしばしば最安チケットを探してもらうようになり、オフィスの閉まる夕方に顔を出して一緒に駅の裏路地の安食堂でナゾに辛い炒め物を肴に安酒を飲んだりすることもあった。K君にガールフレンドができたり、こちらが結婚して娘持ちになったり、私の父が死にそうな時に超特急で台湾経由の便をとってくれたりと、こちらの放浪期の節目節目でお世話になり、ブルーハーツの話をしながらバカ酒を飲んだ。こちらは能天気な放浪ジャパニーズだったので、日本に生やすべき根っこの喪失具合がシンクロしたのかもしれない。放浪ライフを諦めてからはお互いの誕生日にメッセージを交換して近況を報告するくらいの関係だが、「袖すり合う」というのはこういう縁なのだと思っている。多分どちらかが死ぬまでこのいい感じの関係は続くのだろう。
 2001年、私と夫は当時6才だった娘を連れて無謀にも日本を「離脱」した。とりあえずバンコクに落ち着いて先の計画を練っていたある日、英字新聞の片隅にリングリングサーカスの広告を見つけた。造成中だったバンコク中心部の空き地で巡業公演をやるらしく、これは娘に見せたいと思ってKくんに切符の手配をお願いした。「いいなぁ、僕も行っていいですか」「いこいこ、一緒に行こ」ということになった。娘はサーカスがどんなものか知らなかっただろうから、むしろ大人たち三人の方が見たことがない本場のサーカスにわくわくしていたかもしれない。
 週末の夕暮れのバンコクをトゥクトゥクで駆けて会場に着くと、あの縞々のサーカスの大テントが立っていた。にぎやかな露店でビールを買うとやけに気前の良いくじ引きをやっていて、この時もらったノベルティのビールグラスはその後しばらく住んだカトマンズでずっと使っていたなぁ。
 砂を敷いた丸い中央ステージに前口上の司会者が登場し、サーカスがいよいよ始まった。綱渡り。空中ブランコ。跳び板をはねて人が軽々と宙を飛んだ。象や犬の曲芸もあった。球体の金網の中をオートバイが火花を散らしてぐるぐる走り、焦げたオイルのにおいが漂った。ピエロもうろうろ歩きまわり、アメリカ映画に出てくるようなめくるめく「サーカス」の世界だった。そこで照明が暗転し、スポットライトの中にマントを羽織った初老の手品師が登場した。初めにマントの内側に手を入れて白い鳩を出し、奥さん然としたアシスタントに渡したところで、地味かなと思ったらここからがすごかった。マントから次から次にものすごい数の鳩が現れ、さらにちょっとずつ出す鳥のサイズが大きくなっていく。インコ? オウム? えっ? えっ? とあんぐりしていると、とうとうポケットから孔雀を引っ張り出した(それも二羽だ)。その孔雀がステージで羽を広げたときの驚きは、今思い出してもちょっと涙が出そうになる。
 立ち上がって拍手していると、極彩色の光でキラキラする花吹雪のなかを空中ブランコのお姉さんやイケメンのバイク乗りやピエロや象や手品師の夫婦が登場し、ニコニコと歩いて手を振った。音楽がピークに達して皆が引っ込むとライトが落ち、こうして魔法の時間は終わってしまった。
 すごかったねぇ、すごかったねぇと言いながらも、ぽーっとしていたのだろう、そこからどう帰ったかはとんと記憶にない。母親としてどうかと思うが、6才の娘がどんな顔で見ていたか、どんな感想を言ったかも、実はほとんど覚えていない。それほどに魂を奪われてしまっていたのだと思う。
 Kくんが今も忘れられないというように、私にとってもあのマジックアワーは特別だった。あの瞬間を、ぎゅうっと集めて圧縮して、スノードームに閉じ込めて、かわいい箱に入れて、バンコクのKくんにFedexで送れたらいいのにね。ハッピー・バースディ。またバンコクで飲もうね!
 

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