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病院の定期検診にて。 ボクの通っている病院は、採血のテーブルは10位あるけれど、待つ人もいつも150人くらいいて、年末は特に混雑するようです。 この採血、上手な方に当たると、いつ刺したのかと思うくらいスムーズに終わるのですが… その日の採血は、約一時間近く待たされて、ようやく血液検査室に入り、40才前後の男性に採血してもらうことに。 「痛かったら言って下さいね」 と、とても丁寧な応対。 その方は左腕の血管を慎重探して、注射器を注入。 かなり、痛い。 顔をそむ
バブル全盛期でした。 親の跡を継ぐと会社を辞めた後輩が、会社を辞めたくせに、まだ親父が現役だからとアメリカへ遊学していました。 当時、一度彼の元へ遊びに行った事がありますが、彼は、カリフォルニアのナパバレーで、ワインのテイスティングと 称し 毎晩酔っ払っていたので、決して留学とは言わせません。 そんな彼は、なんと宅建の資格を持っていて、ちゃんと不動産屋の社員として月々に幾らかの給与を貰っていました。 当時、空前の不動産ブームの中、従業員10人に1人必要だっ
何年か前、妻と奈良方面へ久々に車で出かけた時でした。 峠へ向かう山道の途中に、 少年野球クラブの旗が はためいています。 そんな辺鄙なところに練習グラウンドがあるらしく、 「こんな所まで、親御さんも送り迎え大変やろなあ…」 と、感心していました。 すると、横で妻が冷めた目で 「あんた、前にも全く同んなじこと、言うとったで」 と。 およそ7~8年前にこの道を通った時に、ボクは同じように 感心して、全く同じセリフを言っていたそうで… そう言わ
20代後半、まだバリバリ働いていた頃の、衝撃的な事件。 南大阪の店の雑貨部門の会議に、月一回上京していました。 東京からの出張帰りの新幹線でした。 乗る直前まで、東京の仕事仲間とビールなど飲みながら、夕食。 帰りは一人きり、仕事の疲れもあって、座席に着くなり、すぐに眠りにつきました。 列車が名古屋を出たあたりで目覚めたボクは、トイレに。 客室から連結部へ出るドアの所で、一人でウロウロしている 3才位の男の子とすれ違いました。 その時は気にもとめず
かれこれ四半世紀前の事です。 好きなユーミンの曲『スラバヤ通りの妹へ』、その歌詞に、 ♪少しの英語だけがあなたとの架け橋ならさびしいから… 旅仲間とバリ島行きが決まって、その歌詞を思い出し、せめて 挨拶や簡単な会話はできるようにしておこうと、インドネシア語を少し勉強していきました。 バリ滞在は2日間、緊急帰国となったヒコーキの、隣の席に 座っていたのは、バリニーズのスダナさんでした。 スダナさんは、日本語はもとより、英語も話せませんでした。
昔、一度だけウルトラマンになったことがあります。 エイティという名だから1980年、今から約40年も前のゴールデンウィークの事。 大学生の頃、スーパーの屋上で金魚すくいをしたり、着ぐるみで踊ったりする広告屋の短期バイト員に登録していて、 その広告屋の一番人気が、ウルトラマンショーでした。 ただ、ウルトラマンショーの場合はバイトの要請があっても、 仕事はもっぱら会場までの機材運搬や設営でした。 ショーは色々なパターンがあって、最初から怪獣と戦うだけの
叔父の葬儀の連絡をいただいた時のお話です。 普段は仕事でもスニーカーなのですが、展示会や営業先への挨拶など、ネクタイをしなければいけない時は、一足だけある革靴を履きます。 たまにしか使わないし、まめに手入れもしていません。 すす汚れて、あちこち擦り切れた靴を見ると、葬儀には、ちょっと失礼かもしれない、なんとかせねば! この時、ボクは、閃きました!! 擦りキズには、キズグスリだ! 確か旅行カバンの奥に、ずいぶん昔に使用期限の切れたメンソレータムが入れたままに
「ご卒業おめでとうございます」 と、一言だけ言ってきたらいいのよ… 妻は言っていました。 娘が小学校5年生の時のことです。 娘が通っている小学校の卒業式に、ボクが参列することに。 当時、 娘の小学校のPTAの役職には、会長、副会長の他に母親代表」がありました。 今なら、多様な世帯構成にそぐわない「母親代表」なんて役職自体、物議を醸しそうです。 で、この「母親代表」の役職に就いたのが我が妻。 小学校では、子供が通っている1年から5年の間に