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③【小説】 さくら坂のほのかちゃん ガイドヘルパーのさっちゃん


(一)


「ほのちゃん、今日、凄かったんですよ!」


「ふふっ、昨日の夜ね、シンクロのテレビ、食い入るように見てたもん。 
きっと今日、潜ってばっかりやったんとちがう?」

 さすが、ほのちゃんのママだ。 
すっかりお見通し。


「ぐるぐるまわったり、逆立ちしようとしてプールの水飲んで、ゴホゴホいって、それでもめげずに水へ突進してましたよ!」

 ほのちゃんのママと話していると、とっても楽しい。 
ほのちゃんのママが大好きだ。


『神様は、障害を持つ子供が幸せになれるようにその母に授ける』
って、聞いたことがあるけれど、ほのちゃんには、あのママしか考えられない。
神様の正しい選択だと思う。

『自閉症を伴う知的発達障害』 

 きっと辛いことも、いっぱいあったにちがいない。
そんなところはおくびにも出さず、障害もほのちゃんの個性として楽しんでいるようにさえ見える。

 このバイトは、障害児のいる様々な家庭と触れ合う機会がある。
『障害=不幸』という家庭も少なくない。
自分がどんな子を授かろうが、ほのちゃんのママのように受け入れられるだろうか?
早智には、まだ自信がない。

 妹のミノリちゃんが
『おなかすいたぁ!』と玄関まで出てきた。

「はあい、わかりました、いま作るからね、ホノカ何してる?」

ママが、優しく応える。

「ホノカ、寝てるョ」

「ほのちゃん、泳ぎ過ぎて、疲れちゃったかな? 
話し込んでしまって、すみません。 
じゃあ、失礼しますね。 
ミノリちゃんバイバイ! 」

 ほのちゃんを、おうちに送り届けて、そのまま玄関先で小一時間も話し込んでしまった。

 早智は、愛用の原付にまたがった。
『さくら坂』は山の中腹にあり、遠く眺める大阪湾は、もうオレンジ色に染まっている。

『見たいDVDがあるから一緒に見てね』
と、今日は早智の方から誘ったのに、ヒロシに約束していた時間に遅れそうだ。
でも、きっと許してくれるだろう。
ヒロシのイケてないセリフを借用すれば、
『ほのちゃんは、僕たち二人の愛のキューピット』なのだから。



(二)



 ヒロシと大阪で再会したのは、2年前の6月のことだった。


 T市方面へ向かう電車に乗り込むと、車内は比較的空いていて、ほのちゃんは早速座席に上って、窓の外を眺めていた。

「お靴、脱いどこうね!」

 この間に、今日の行動報告を書かなければ。

 連れて行った動物園は、ほのちゃんに気に入ってもらえたようだ。
心配していた天気も、たまに晴れ間さえ覗かせてくれた位で、雨具の手間は必要無かった。

 しまった! 
 報告書を書くのに集中してしまった。

 電車の外を見ていたはずのほのちゃんが、いつのまにか、前の席の男性のところ、靴も履かずに行って、その男性の横の席に膝立ちになって、男性の肩に手を置き、顔をジーッと覗き込んでいる。

 男性は、少し照れながら

「こんにちは」

 と、ほのちゃんは、突然、

「メガネッ!」

と言って、男性のメガネをサッと取って、こちらへ戻ってきた。
上下反対にかけて、ご機嫌にしている… 

「あーっ、ほのちゃん、ダメ!」


 いけない。
『ダメ!』はだめだ。






「自閉症の子の中には『ダメ!』って言われると、自分全てが否定されるように感じる子がいるんだって」

 障害児童支援サービス『ぼんご』の三島さんから、教えられている。


「もしか、さっちゃんがさぁ、海外旅行してて初めて行く空港とかでさ、バン!バン! て音がして… 」

 三島さんは、手をピストル形にして撃つマネをする。

「誰かが『ダメッ!アブナイ!』って叫んでくれてたって、不安が募るばっかりで、どうしていいかわからないじゃない。
そんな時は『伏せろ!』とか『隠れろ!』って言われる方が、気分的にも、ずっと助かるでしょ。
そんな感じなのよ…」

 ちょっと頭を傾げて聞いていると、早智が理解出来ていないと思ったのか、三島さんは続けた。
 
「うーん、じゃあ、例えはあんまり良くないんだけどさ…」

 と、前置きして、

「イヌを散歩させてる時、もしそのイヌが、誰か知らない人に吠え掛かったら、『ダメ!』って言うより、『おすわり!』って言った方が、効果があると思わない? 
イヌにしてみたら、喜んで遊んでくれる人もいたりして、何が、『ダメ!』なのか、判らないの。 
『ダメ!』だけだと、パニックになる子もいるの。気をつけてね!」

 こっちの例えの方が、ずっと良いと思う。

「ガイヘルしてて、その子が急に車の通る道へ走りだしたりしたとしたら、『ダメ!』とか『アブナイ!』じゃなくて、『止まれ!』とか『こっちへ来なさい!』とか。
次の行動を教えてあげる方がいいわ。
その辺にいる普通の子にだって、その方が理解しやすいと思うの」

 ほのちゃんのガイヘルは、もう10回を数える。
ほのちゃんについては、かなり掌握しているつもりだった。
自閉症児には、落ち着きなくやたらと動き回る『多動性障害』の傾向がある子がいるが、ほのちゃんの『プロフィール』には、『多動は、あまりみられない』となっていた。
 ほのちゃんとの初めてのガイヘルの時、ずっと抱っこばかりで、腕が筋肉痛になってしまったが、それでも、サッと何処かへいなくなってしまう『多動』の激しい子に比べれば、ほのちゃんは扱い易い方と言えるだろう。

「さっちゃんと、一番相性がいいみたい…」

 三島さんは、ほのちゃんのガイヘル要請が早智のスケジュールと合うときは大抵、早智とほのちゃんを組合すようにしていた。
特に自閉症の子はパニックをできるだけ避けたいので、あまりヘルパーが入れ替わらないようにと考慮しているらしい。

『慣れた頃が一番事故が起きやすい』
と言われている。
報告書を書くのに集中していたら、つい油断してしまった。

 気をつけなきゃ。


*  


「メガネ、は・ず・し・ますっ!」

 ほのちゃんに声をかけた。
男性が立ち上がって、こっちへ来た。

「さかさだよ…」 

 男性は怒るわけでもなく、ほのちゃんに声をかけた。

「目、悪くするから、かけんほうがええよ…」

「すみませんでした… 
ほのちゃん! おじさんにメガネ、ハイッ!しなさい!」

 ほのちゃんは聞き分けよく男性にメガネを渡す。

「おじさんは、ないんやない…」

「あぁっ!すみませんでした!」

 ほのちゃんはと言えば、もうメガネにも男性にも興味なく、また窓の外を眺めている。

「もしかして、間違えてたらごめん。 
西村さん、だよね?」

「えっ?」

 そうだ、この顔、メガネ、見覚えがある。
確か、高3の時のクラスメート、名前なんだっけ、確か親友のミチコが選んだ『イケてないメンズ』のうちのひとり。

「頑張っとるんだね。 
僕のこと憶えとらんやろか? 田端比呂志」

タバタ… 
そう、その名前だ。

「僕、こっちの大学におるんや。 
西村さんも大阪におるって、山口の奴が言うてた。
福祉関係の大学らしいって。
どっかで会うかもしれんと思っとったけど…」

 山口という、高校の頃からすっかりオバサン味を出していた、ウワサ好きなクラスメートの顔を思い出した。


その時、まもなくT駅、というアナウンスが流れた。

「さあ、ほのちゃん! 
降りますよ、お靴はいてね!」

「今日、ほのちゃん送り届けたら、連絡する。 電話番号聞いとく!」

 ヒロシは、ちょっと驚いた顔をしてから、ケータイの番号を告げた。
早智はシャーペンで報告書の右上に走り書きし、

「じゃあ、またね!」

ほのちゃんの手を引いて、扉の方へ向かった。


 『さくら坂』行きのバスに乗り込んで、一番後ろの座席の窓側にほのちゃんを座らせ、その横に腰を下ろす。
脇に挟んでいた報告書、さっき走り書きした数字をケータイに落としてから、シャーペンの後ろについている消しゴムで、丁寧に消した。

 なんで、連絡するなんて言っちゃったんだろ… 
自分らしくない、不思議。

 そうか、『メガネの詫びをしなきゃ!』っていうのがあったんだ。
たとえ、イケてない顔見知りでも、ちゃんと謝っとかないと。


*  


 ほのちゃんを無事送り届けて、さっき登録した『タバタヒロシ』に電話をした。

 聞けば、お互い最寄り駅は別の電車路線だが、直線距離にして早智愛用の原付で10分ほどの距離のところに住んでいる。
今日は、奈良の方へ行っていて、その帰りに乗り合わせたらしい。

 改めて、メガネの詫びを入れた。

【晩ご飯、もう食べられましたか?】
と、やけに丁寧に聞いてきた。
 
近くのファミリーレストランで
【ご一緒に、夕飯でも食べませんか?】となった。

 まあいいか。今日は時間あるし。


 高校の時、ヒロシとは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。
流行を無視したメガネと、その奥の小さな目と、ボウボウの眉毛、お世辞にもモテる顔の持ち主ではなかった。
その時だって完全に恋愛対象外、同郷の友人としてのご対面だ。

 お互い、大阪に出てからの近況を話した。

 同郷の訛りを聞いたせいか、久しぶりに身構えずに話ができた。
知らぬ間に、自分でもびっくりするくらい饒舌になっている。
男性として見ていないからか。
聞き上手なのかもしれない。 
話すことを心地よく感じた。

 ヒロシは、校内で有名だったはずの『水泳部の先輩』については、何も触れなかった。
たぶん付き合ってたことも、別れたことも山口さんに聞いて知っているだろう。

 初めての一人暮らし。
忙しい授業のこと、バイト先の子供服屋のやり手女性店長のこと。
 昨年から始めたガイドヘルパーのバイトのこと、水泳部にいたことがそのバイトで役立っていること、大阪の学生のギラギラしていること。

 早智は、同じゼミの子に何回か合コンの数合わせに誘われ、1度だけ無理やり連れて行かれたが、相手男性陣の、欲情ギラギラな感じに吐き気がして、途中で帰ってしまった。
 後から『さっちゃん、ひどいよぉ!』と、早智を誘った子に怒られはしたが、『でも、いい男いたから…』 まんざらでもない様子だった。
 その子は、早智が、一番気の弱そうな男に
『ちょっと、体調悪いから…』と、伝言して先に帰ったことを、合コンが終わる間際まで気付かなかったらしい。
 
 そんな話もした。

「うちのゼミは理系やから、合コンとか、バイトとかも、まともにしとるヒマないけんなぁ… 
大阪にも色んな奴おるよ」


 その日話して初めて知った事は、ヒロシが高校の時、部活で歴史研究会にいたということ。
好きなのは歴史全般というわけではなく『邪馬台国』一辺倒で、今日は短期バイトが無く丸一日空いたので、奈良の桜井市まで足を伸ばして来たそうだ。

 申しわけないが、早智には殆ど興味のない世界だった。



*  


「今日は、僕出すね。 
僕が誘ったんやし…」

「アカンよ!そんなん…」

 そんなに、裕福そうには見えない。
出すとしたら迷惑をかけた、こっちの方だ。

「あと、1ヶ月くらいで僕の誕生日なんや。
また一緒に食事して、そん時、思いっきりご馳走してくれへん?」

 少し困った顔をすると、

「他の男と食事したりしたら怒る人が… 
西村さんなら… おるよな。 
今日は誘ったりして、ごめん…」

 ヒロシが、神妙な顔をしている。

「違うの、最近、ちょっとサイフのピンチが続いとって…」

「誕生日やからって、豪華なレストランやなくても、ここでええんやけど。
ファミレスでも…アカンやろか?」

 ここなら、たぶん大丈夫… 
早智は首を横に振って、また会う約束をした。



(三)


 早智は高校のとき、同じ中学出身で、同じ水泳部、一年先輩の優斗と付き合っていた。

 高1の春まで、『中島先輩』と呼んでいた。
その夏休みが終わる頃、学校以外では『ゆうちゃん』と呼び方が変わった。

 そんなウワサは、一気に広まった。
彼は人気者だったし、わざわざ高2の女子達が、水泳部の練習を見に来て、ウワサの彼女を確認していった。
彼は迷惑そうにしていたが、早智は恥ずかしい反面、祝福されているような気がして嬉しかった。

 彼の女性関係は硬派で、アプローチされても『俺、カノジョいるから』と、数ある誘惑には乗らないでいるらしい。

「もったいねぇんじゃなぁ。
ちぃとは、俺にまわして欲しいよ!」

 彼の友人が教えてくれた。 
彼は笑っていた。

 大晦日の夜から、二人だけで最上稲荷まで初詣。
短い3学期が終わって休みに入ると、親には水泳部の冬季合宿と偽って、二人だけでスキーに行った。

 その度に、同じ水泳部で中学校からの親友、ミチコに協力を仰いだ。

「うちにも、中島先輩の友達とかで、とびっきりカッコイイの紹介してくれなきゃだめよ!」

 二人の仲は順調に、誰もが認める二人になった。


 早智が高2で彼が高3、県大会予選も終わって水泳部を終了し、受験勉強モードに入った彼に気を使い、早智は、2人で逢うのをガマンしていた。

 早智の誕生日には、電話をくれた。
『今日だけは特別』と、2時間も付き合ってくれた。

 クリスマスの夜、部屋の窓から顔を出してくれた彼と、少しだけ言葉を交わした。

「来てくれて、ありがとう!
早智の顔が見れてうれしいよ…」

 それだけでも早智は満足だった。


 * 


  別れは訪れた。
早智にとって、人生の中で最悪の年が始まったのだった。

  年が明けて、神妙な声で 『会いたい…』と電話があった。
いつもの彼らしくない、沈んだ言葉。

「何?」

「いや、会って話す…」

 何か、いやな予感がまとわりつく。


  外は、雪が舞っていた。
早く、この得体の知れない、胸の中のもやもやを拭い去りたい。
早智は、傘も持たず、足早に彼の家に向かった。

 彼の家のすぐ横、大きな桜の木がある小さな公園、彼のさすビニール傘の下にいた。

「卒業したらアメリカに…留学することになった…」

 京都の大学を、目指しているはずじゃなかったの?… 


 早智も、高校卒業後は、京都か大阪の、保育の大学へと進路を考えている。
小さい子が好きだったし、漠然とだけれど、保育園の先生に憧れていた。
でも、本当は彼の近くにいたい、という思いの方が大きかった。


 建築会社を経営する彼のお父さんは、口癖のように
『若いうちに世界を知っておけ!』と。
無事大学に入ったら『一度は留学するよ』と返事を濁していた彼は、在学中の夏休み、観光がてらの短期留学にでも行けばいい、と考えていた。
それよりも、目前に控えるセンター試験を前に、そんな言い合いすら時間が惜しい。

 しかし、彼は甘かった。

「夏までは、語学学校でひたすら英語を学び、秋からMBAを目指しなさい。
将来の目的もなく京都で下宿して、女にうつつを抜かしてブラブラ遊ぼうなんていうのに、金は出さん!」

 この年末、ほとんど命令に近い話になったというのだった。
彼のお父さんは、手際よく、留学の手配を知り合いに依頼して、急転直下、彼のアメリカ行きが決まってしまったのだった。

「そんな大事なこと、なんでもっと早く教えてくれんかったの…」

 悔しかった。
でもそのあとの方が、もっと悲しく辛かった。

「何年行っとるか分からん… 
待っててくれんでも、ええよ…」

 目を合わせてくれなかった。

「それって、どういう意味なん? 
新しくカレを作れって事? 」

 声が震えているのが、自分でも分かった。

「……」

彼の背中が、小さく丸まっている。

「『待っとけ!』とは言うてくれへんの?
『高校出たら、お前もアメリカに来い!』って、そうは言うてくれへんの?」

「… ごめん」

「なんで、謝るん? 
うち、待ってる。ゼッタイ待ってるから!」

「……」

「アメリカだってケータイ使えるんでしょ?毎日メールするわ。 
電話もする。うち、手紙書く。
住むとこわかったら教えて… 
ぜったい!」

 涙声になっていた。

「ああ、わかった… そうする…」

 何かを、あきらめたような返事だった。 
雪は、冷たい雨に変わっていた。


「帰るね…」

「傘、持って行き」

 彼は、ビニール傘を早智に手渡すと、振り向きもせず、小走りに家に入っていった。


 また、雪になればいい。
高く積もればいい。
何もかも、真っ白になってほしい… 

 今日の出来事は、全て、無かった事にしてしまいたかった。



* 


 それから早智は、無理に明るく振舞っていた。

 もうすぐ、アメリカへ行ってしまうのに。

 電話をしても会話が弾まない。 
重たい無言の時間が訪れる。
空回りしている自分が惨めだ。

 彼の心を、繋ぎとめておかなくては。 
焦れば焦るほど、2人の溝が深まっていく。

 以前のように、いっぱいキスして欲しい。抱きしめて欲しい。
彼からは、何もしてきてくれなくなった。

 でも、口に出して不満は言えなかった。
言ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がした。


 実力を測るために、センター試験は受けていたが、大学受験が無くなったのだから、きっと時間はあるはずだ。
でも彼は『準備が忙しくて』と、できるだけ2人だけで逢うのを避けているように感じる。

 早智も本当は、2人だけになる時間が怖い。
もし、改めて、別れをきっぱりと宣告されたら、生きていけない気がした。

 卒業式の後も、送別会も、旅立つ日まで、カノジョとして横にいた。
笑顔でいる以外、どんな顔をしていればいいのか思い浮かばなかった。


 関空まで、来てくれなくてもいい… 
と言われていた。

 彼のお母さん、友達たちと一緒に、岡山駅まで見送りに行った。

 気を利かして、二人きりにしようとしてくれるミチコにも、

「ええの、うち、大丈夫」

 彼は、あっけなく旅立ってしまった。

 新幹線が出ていった。 
涙も出ない空っぽの女が残された。

 彼のお母さんが別れ際に、
『色々、ごめんね…』  
すまなそうに一言声をかけてくれた。

 『もう、ゆうちゃんとは逢えなくなるかもしれない』という予感に、押し潰されそうになった。
空っぽの早智の中、いったい何処にあったんだろう、熱い涙が溢れてきた。

 崩れ落ちてしまいそうだ。

 ミチコが支えてくれなかったら、そこから少しも動けなかっただろう。



*  


 大丈夫だと、信じていたかった。

 ケータイは、使えるはずだった。 
でもメールが、送信できない。
アドレスを、変えたんだろうか…

 夜中まで起きて、ケータイへ何度電話してみても、繋がらないことを教えてくれる、事務的な女性の声のメッセージが流れるだけだ。
返事の来ないエアメール、本当にゆうちゃんまで届いているんだろうか?

 自分の拙い英語に緊張しながら、聞いていたホームステイ先の電話番号へ国際電話をかけてみた。
しかし、ゆうちゃんまで繋がらない。

 でも、確かにそこに、ゆうちゃんが住んでいることだけはわかった。
それだけわかっただけでも、涙が出た。


一ヶ月ほどして、アメリカからエアメールが届いた。

『やっと落ち着きました…
… 僕には、日本に君を彼女としてキープしておいて、というような器用なことはできません。
いつ日本に帰れるかわからない僕に、君を付き合わすわけにはいきません。
ごめんなさい、これではきれいごとすぎる。 僕は卑怯者です。
正直に言うと今の僕は、新しい生活でいっぱいで君の事を考えている余裕がありません。 ごめんなさい。
こっちに来る前に、もう一度ちゃんと話しておくべきでした。
でも僕にはできなかった。
日本にいる間は君と別れるのが怖かった。
 僕のわがままです。 
君に迷惑をかけたこと謝ります…』


『君』って、誰に出してるつもりなの… 
他人行儀な文面が、心に痛かった。

 ゆうちゃんは、もう、うちなんか、いらん…
彼は、早智なんかと関係のない、新しい道を歩き出している。


『早智は、ゆうちゃんの重荷になっているのがつらいです。
早智のことは忘れてください。さようなら 』

 これだけ書くのに、ずいぶんかかった。 
涙が止まらなかった。

 郵便局でエアメールをお願いするときだけ、涙が溢れるのをガマンした。
郵便局を出たらまた、涙が止まらなかった。

 ミチコに、手紙の話をした。
一緒に泣いてくれた。 
少しだけ、すっきりした。


 それから一年、色あせた冷たい校舎に通った。

 夏休みに、アメリカに遊びに行った彼の友人がいたらしく、向こうに、もう別のカノジョが出来ているというウワサが流れた。

 水泳部だけは、最後までやり遂げとげたい。
県大会予選も、一生懸命泳いだ。
予選通過まで惜しいところだった、昨年の自己ベスト。
今年のタイムは、それに到底及ばなかった。
親身になって、早智の泳ぐフォームをチェックしてくれていた彼が、もういないからかもしれない。

 でも、水泳をやっていてよかったと思う。
ひたすら泳いだことで、自分の気持ちに区切りがつけられたような気がする。
 保育関係の大学への進学は、彼がいなくたって目指していたことのはずだ。
大阪の大学を受けることにした。
両親は反対したけれど、早智の意思は固かった。





 大阪に来て、初めての夏休み、岡山には帰らなかった。


 備え付けのエアコンが、連夜がんばっている。
そんな早智の部屋に、ミチコが泊まりにやってきた。

 天王寺の子供服屋のバイトが終わる時刻に待ち合わせ、近くのコンビニで弁当とお茶だけ買って、まっすぐ早智の部屋に来た。
ミチコはたった2泊だけのはずなのに、大きなバッグを抱えている。

「ええなあ、一人暮らし。憧れるわぁ!」

 早智の部屋を見回しながら、ミチコは嬉しそうだ。

「都会だし、出会いもいっぱい? ええことあった?」

「毎日、忙しくて… 何も」

「もしかして、男避けてる? 
まだ、先輩に未練あったりするん? 
あれっ、変なこと言うてしもた? ごめん… 」

「そんなんやない。
ほんま、日々の暮らしに追われてるって感じかな」


 明日のスケジュールは、電話で予約されてしまっていた。

【次の日、一日空けとってね。
どっか連れてってくれる? 
大阪の名所。 
ええ男がいるところ、探しとってね!】

 友達が遊びに来るのでと、明日のバイトは休みを貰っていたけれど、何処へ連れて行っていいのか、いい男がいるところなんて早智には思い浮かばなかった。


「そんなこったろうと思った。
さっちゃん、大阪へは水着持ってきてるん?」

 競泳用のやつだけど… 
水着を使う授業を取るかもしれないと思って持ってきていた。

「ジャラジャラするんじゃなくて、本格的にバシッと泳ぎに行こうよ。
うち、持ってきたんだ!」

 ちゃんと調べてきたんだ… 
大きなカバンから、パソコンからプリントアウトしたらしいA4の紙と、大阪のガイドブックを取り出した。

「『大阪プール』って競泳用のプールがあるらしいん。
その後、ここのたこ焼き屋へ行くの。
たこ焼きでビールといきたいところね… 」

 見せてくれたガイドブックには印がついてあった。


「お酒飲むん? まだ、未成年なのに…」

「本当はもうお酒だって、練習しとかなきゃアカンのやろね。
これから大阪で、女一人で暮らさなあかんのやから!」

 大阪って怖いとこよぉ。
ナメたら痛い目にあうわ… 
ミチコは訳知り顔でうなずく。

「どっちが、大阪に住んでんか、わからんね…」

 二人、顔を見合わせて笑った。


* 


 早智は、大阪へ出てきてすぐ、天王寺の子供服と輸入玩具を扱っているお店で、アルバイトをはじめた。
『普段は、授業が忙しくてなかなか入れないけれど、日曜とか、ゴールデンウィークとか、夏休みもお盆にもフルに入れます!』
というと難なく採用された。

 『仕送りなんかいらん、バイトしながら頑張るから!』
と言って、大阪に来た。

 それでも、両親は毎月仕送りしてきてくれた。
仕送りで、学費と部屋代をまかなっている。
でもそれを除けば、僅かしか残らない。
今更、親に足りないと甘えるわけにも行かず、せっせとバイトする。


 秋に、ガイドヘルパーの資格を取ってからは、ヘルパーのバイトを優先するようにした。
『辞めさせてください』というと、やり手の女性店長は残念がっていたが、

「忙しい時だけ、短期でもお願い。 
声かけるから!」

 手を合わせて拝まれた。
結局、年末や初売り、バーゲンと、店長にしっかりスケジュールを確保されてしまった。

 大阪に出てきて、瞬く間に1年が過ぎた。
毎日が忙しい。クタクタだ。
こんなんで、ミチコが羨むようなカレシなんか、出来るわけがない。



(四)


「二十歳。成人おめでとう、やね!」


 ヒロシとは、約1ヶ月ぶりに顔を合わせた。
ファミレスで一応小さなケーキを頼んだ。

 早智は、プレゼントを用意していた。
ブードゥー人形という、糸をぐるぐる巻いたタイのお守り。

 ほのちゃんのママが、ケータイにつけていた。

「パパにもらったの。
これ売れてるんやって」

 言われて、注意して見てみれば、色々な店に並んでいた。
ヒロシには、アラジンのような格好をした『幸運』のやつを選んだ。

「女性からプレゼント貰うやなんて、初めてや」

 さっそく、ケータイにぶら下げている。 サンタさんに頼んでいたおもちゃを、クリスマスの朝に発見した子供のようだ。
ヒロシの屈託の無い笑顔に、心が和まされる。

 長い間忘れてしまっていた、無邪気な感慨に浸ることができた。
重たかった鎧が消え、体が軽くなったような気がする。

 岡山を離れての一人暮らし、大阪でミチコほど心許せる友だちは未だ無く、孤軍奮闘している自分を省みる。
改めて、今まで装着していた鎧の重さに驚かされた。

 今日も身構えることなく、自分の話ができたし、誠実に話を聞いてくれるヒロシといる時間は、とても気持ちがリラックスする。

 この日から、マメに連絡を取り合うようになった。
ヒロシは、『さっちゃん』と呼ぶようになった。早智は、『ヒロシクン』だ。

 ヒロシは、夏休みでも大学の研究室が忙しいし、早智も実務研修や、バイトが忙しく
会う機会は少なかった。
早智は、ヒロシと会える僅かな時間を待ち遠しく思うようになっていった。
会えない時は用事が無くても、早智の方から頻繁にメールを送るようになった。



* 


 その年、街が、そろそろクリスマスの電飾で、きらきら輝きだした頃。


「ごめん、遅うなってしもて」

 それでも、大学を抜け出して来てくれた。

 2人で、遅い夕食をとった。
初めて食事したいつものファミレス、特別にグラスワインをふたつ頼んだ。

 早智は、今日から20歳だ。

 「おめでとう!カンパーイ!」

 ヒロシは、ケータイと、早智がプレゼントしたブードゥー人形を首からぶら下げていた。

「それ、ええね。丈夫そうやし」

ヒロシのネックストラップを指差した。

「そう、ハイこれ。 
誕生日おめでとう…」

と、ポケットから小さなリボンシールの付いた包みを取り出した。

「開けてもいい?」

ヒロシは、うなずいた。

 包みを開けると、ヒロシが付けているのと色違い、ハンプのネックストラップだった。

「これと、お揃いなんや」

 ヒロシは、首からかけたストラップを持って、細かく振った。

「バイトの時に、
『IDカードとかケータイはいつも、首からかけてんねん。その方が、両手、空くし』
って、前に言うとったから…」

憶えていてくれたん… 
ありがと。


* 


 電車の中で、再会した時の話になった。

「あの日、僕は電車乗った時に、すぐ気付いとったよ。
ほのちゃん、かわいかったなぁ。
ほのちゃんの無邪気な目で見つめられると、何も隠し事できんような気がした」

 早智は、かわいいほのちゃんの事、そして、大好きなほのちゃんのママの事を、熱心に話した。

「ほのちゃんとは、『同志』みたいな感じなん。
 ほのちゃんも、当然ママのことが大好きだから、『ほのちゃんのママ』を大好きなもん同志、分かり合えてるっていうか、通じるものがあるん!」

「じゃあ僕も、ほのちゃんと『同志』なのかもしれん…」

ヒロシはもじもじして、顔を赤らめている。

えっ? なんで… 
言っている意味が、飲み込めなかった。

「さっちゃんを大好きなもん同志。
さっちゃんは、高校の頃から憧れの存在じゃったから…
 ほのちゃん、それに気ぃついて、僕のメガネ取って、さっちゃんと話できるように…
お膳立てしてくれたんや!きっと…」

 ヒロシの顔がますます真っ赤になっている。
ワインのせいだけではない。

「お膳立てって… あんまり使わんよね」

 照れくさくて、どうでもいい指摘をしてしまった。

「電話番号聞いてくれた時、飛び上がりそやった。
僕にとっては、一世一代の大勝負で食事に誘ったんや!
平静を装うのに苦労した。
興奮して声が上ずっとったら、嫌われるかもしれんと思て、頑張ったんやヮ…」

 ヒロシが、いつになく、熱い直球をガンガン投げてくる。
早智は、しっかり受け止めたいと思った。


* 


「部屋に行ってもいい?」

 店を出て、思い切ってヒロシに言った。

「ワイン初めて? 
一杯だけだったけど、酔った?
原付じゃもんね、醒めるまで、ちょっと、休んでくとええよ。何にもないけど…」

 ちょっと、肩すかしの返事。
赤かった顔も、すっかり元に戻って、いつものヒロシになっていた。


「ほんま、何もない部屋。 
きれいに片付いてるんやね」

 大学の難しそうな本と、『邪馬台国』『卑弥呼』等がタイトルに含まれた本が並んだ本棚がある。 
簡素な机と、ノートパソコン。
14インチのテレビと再生専用のDVDデッキ、小さな冷蔵庫と電子レンジ。
小ちゃな掃除機、折りたたみ式のベッド。
どれも、安価な感じだ。

 部屋は、とてもきれいに整頓されていた。

 男の人の部屋って…
男の部屋といっても、ゆうちゃんの部屋と、弟の一樹の部屋くらいしか知らないが、どちらも、マンガだとか、CDだとか、ガンダムとかが散らばっていた。


 話は、ガンダム好きの、今度高校生になった一樹の話になった。

「結構、プレイボーイみたいなん」

 噂を聞いたミチコが、教えてくれたことがあった。


* 


「今夜、泊まっていってもいい?」


「酔いさめん? 
コーヒーでも入れようか?」

 鈍感というか、ちょっと奥手すぎるよ。


「ヒロシと、一緒にいたいん!」

 言ってしまった。
恥ずかしさを紛らわすために、少し怒った声になってしまった。


 ヒロシは、驚いた顔をしていた。 


 早智は、目を閉じた… 
やっと、ヒロシは唇を重ねてきた。 



*  



 その晩、早智はヒロシの部屋に泊まった。


 ヒロシは、ぎこちなかった。
マイペースで手際の良かったゆうちゃんとは、全く違う。
別の行為と言ってよかった。

 でも、とても丁寧だった。 
神聖な儀式のように愛してくれた。

 2人並んで横になっているシングルベッドの上、ヒロシがつぶやいた。

「こんなに恵まれてて、ええんじゃろか?… 」

 2人の仲が、こんなに急に進展するなんて、とても想像できなかったらしい。

「なに、言うてるん?」

 早智は、そんな不思議そうな顔に、しっかりキスをしてやった。
そのキスに反応して、ヒロシのがまた、元気になった。


*  


「いつも夜遅うて、急に大学に泊り込む時もあるし、バイトとかで無理させとうないから」

 ヒロシの提案だった。
一緒に住んだりはしなかった。
早智が、たまにヒロシの部屋に泊まるようになっただけで、2人が会うペースはさほど変わらない。

 ただ、早智は『ヒロシ』と呼ぶようになった。 



(五)



 大阪に出てから、早智は、ずっと実家に帰っていない。
さすがに成人式の時は、晴れ着や美容院の予約までしてくれた両親が、

「まさか、帰ってこねぇつもりじゃ、ねぇじゃろな!」

 脅され、懇願された。

「交通費も出すから!」

 喜んで帰省した。



*  


 地元の短大に入り、父親のコネで早々に地元の金融機関に就職を決めていたミチコと、久しぶりに会う約束をしていた。

 ミチコとは相変わらず頻繁に、メールや電話のやり取りをしている。
でも、ヒロシとの事は、『大阪で会った』としか伝えていなかった。

「あんなんと、おぅたん? 
オハライしとかなきゃ!」

 先に、そう言われてしまって『イケてないメンズ』との交際を言いそびれてしまっていた。

 初めてヒロシとの事を報告した。
ミチコの顔が、ビックリマークになった。

「なんか、もったいないなぁ…」

 あいつなんかに… 
と言いながらも喜んでくれた。


「今、私ここんとこ、ずっとカレおらんから… 
うちの分も、その、ほのちゃんにお願いしてみてくれる?」


*  


 ヒロシは、成人式には帰らなかった。

「もう、住民票こっちだから…」

 結局、大阪でも式には出なかったらしい。

 ヒロシの実家は、小さな薬局だった。
ヒロシが中学のときに亡くなったヒロシのお父さんに代わって、ヒロシとは年がひとまわり以上離れたお兄さんが跡を継いで、お母さんと奥さんとで切り回していた。

 甥っ子は、もう来年小学生だ。

 将来戻る家もないので、大学進学をいい機会に大阪に出た。
薬剤師は目指さなかった。
両親が歳を取ってからの子で、歳の離れた兄にも、かわいがられて育った。

 ヒロシが放つイケてない感じも、醸し出す不器用なぬくもりも、家庭環境によるところが大きいんじゃないかと早智は考える。

 ヒロシのお兄さんは、毎月仕送りを律儀に送ってきてくれているらしい。
お兄さんはお兄さんで、ヒロシを追い出してしまったと、引け目を感じているのかもしれない。



(六)



「去年もここで、お祝いしてくれたね」

 いつものファミレスだ。
ヒロシの誕生日。今年もケーキを頼んだ。

「なんか能がない感じだけど、カッコつけんでも、ええよね。
まあ、うちらにとっては、ファミレスも贅沢な方やもんね」

「僕は、いつも同じファミレスでも嬉しいけど。
『継続は力なり』って言うし」

「それ、なんか違う感じ…」



「ねえ、夏休み、旅行に行かへん?」

「1泊ぐらいだったら何とかなるかな。
あんまり遠いとことか、高いとこダメじゃけど。
どっか行きたいとこあるん?」

「一緒に、一度岡山へ帰らん?」

「えっ?」

「実家のお兄さんに紹介してよ。
カノジョ出来たって、自慢しに帰ろうよ。
岡山に随分帰ってないでしょ」

「なんや、旅行って、岡山に帰るだけか…」

「そう、泊まりは別々、でも宿泊費はタダ、うちも、たまには親孝行しなきゃ!」



* 



 帰省には、バスでなく新幹線を使った。

 仕送りの入金がいつもより多かったので、電話して聞いてみた。

【切符代だよ】

 甘えることにした。 
お母さん、ありがとう。


【1晩だけしか駄目なん? 
父さんが『なんでワシが仕事でおらん日にするんじゃ!』って怒ってたんよ】

「夏休みは、実習とか、ガイヘルの仕事で一杯なん」

【あんたが頼りにされてんなら、せぇも、しゃぁないねぇ…】

 それでも母さんは、声が弾んでいた。
母さんの声を聞いたら無性に家が恋しくなった。


* 


 最初に、駅前の商店街、ヒロシのお兄さんの店に顔を出した。

「早智さん。
よく、こいつを連れて帰って来てくれたね。
お袋も喜ぶと思うよ!」

 奥さんも優しそうな人だ。
温かい笑顔で迎えてくれた。

「お袋、家で首を長ごうして待っとるよ。 はよぉ、行ってやんな!」


 ヒロシの実家には、ヒロシのお母さんと甥っ子が待ち構えていた。
玄関チャイムを鳴らすやいなや、甥っ子の、タケシ君が飛び出してきた。

「父ちゃんが、店にも顔出ぇて欲しいって。
ヒロシおじちゃんじゃのうて、恋人のさっちゃん!」

 タケシ君に、ませた口で言われて、ヒロシは赤面している。

「お店は、さっきのぞいて来たわ。
ありがと!」


「3年ぶり…やっと帰ってきおったわ。
女の子まで連れてるし。
ヒロシが、女の子を家に連れて来るやなんて、初めて…」
ヒロシのお母さんは、涙を流さんばかりだ。

「スイカが好きじゃて、聞いとったけん!」

 大きな1玉を、丸々冷やしてくれていた。

「悪りぃ事しおったら、ちゃぁんと、叱ってやってね!」

 んなこと、するわけないじゃろ… 
ヒロシは、むきになってお母さんに言い返していた。

『よかったら晩御飯も…』
と言われたが、
今日は家に戻りますんで… と辞退する。

 ちょっと、残念そうな顔をして、

「そちらのお母さんじゃって、首を長ごうして待っとるよね。
引き止めたらダメじゃね」

 また、遊びに来てつかぁさい… 
ヒロシのお母さんは、深々と頭を下げた。

「ごちそうさまでした。
ありがとうございました」


「明日朝、迎えに行くけん」

ヒロシが耳打ちした… うん。


「ヒロシと仲良うしたってね、ずっと…」

 帰る背中に、ヒロシのお母さんの祈るような温かい声。
早智は振り返って微笑んだ。 

 ヒロシを連れて帰ってきて良かった。 
本当に良かった。


 駅に戻って電車で2駅、早智は実家へ向かった。
駅からの帰る道筋、『中島』の表札の前を通った。
高3の通学の時は、その道を避けていた。
成人式で帰省した時もまだ、通る勇気が無かった。

 近くの公園、大きな桜の木から降りかかる、セミの声のシャワーに包まれた。


 大丈夫だった。
全然、大丈夫だった。


 もし今『中島先輩』が家から出てきても、きっと笑顔で『久しぶり!』くらい言えそうだ。 

 今頃、どうしてるんだろう… 
でも、どうでもいいと思った。
ただ彼らしく、何処かで頑張っていてくれれば、それでよかった。





「一樹、ずいぶん女の子泣かしてるみたいなんよ。
早智からも、ちょっと説教してやってね!」

 母さんが、一樹の浮気性を心配している。
家に連れて来るカノジョが、コロコロ変わるらしい。

「まあ、モテナイより、ええんやない?」

「あんたも、大阪で変なのに引っかからんでよ」

「大丈夫。
一樹みたいなんは相手にせんから。
明日、ちゃんとカレシが迎えに来るけんね」

「岡山まで来るんかい? 
まさか突然、『お嬢さんをください!』
って言うんじゃねぇじゃろね!」

「違うの。高校の時のクラスメート。 
カレも今、岡山に帰ってきてるん」

 なんだ、手ごろなところで間に合わせてるんだ… 
一樹がチャチャを入れる。

「チャラチャラした、あんたなんかと違うん!」

一樹をひと睨み、

「一樹、あんまり女の子の気持ち弄んでたら、今にシッペ返し喰らうんよ。
殺されんように気ぃつけや!」


 夜、ミチコが来た。
パジャマと着替えと洗面道具も持参だ。
キーンと冷えた缶ビールも数缶持ってきていた。

「今夜は、寝かさへんよ!」



*  


「それじゃあ、ヒロシさんによろしくね」

 翌朝、ミチコは何事もなかったように西村家から出勤した。

 しばらくして、ヒロシが迎えに来た。
玄関先で母さんに紹介した。
一樹も玄関に出てきた。 
変に緊張して挨拶していた。

「こんな姉貴ですけど、よろしゅうお願いします」

 ヒロシは家には上がらずに、早智もそのまま、大阪へと出発した。


*  


「あの辺も、ずいぶん変わるらしい…」

 電車の窓から見渡せる田んぼの中、その見慣れた田舎の景色に、いささか不釣合いな建物群が出現していた。
山の稜線さえ見下している入道雲に、果敢に勝負を挑んでいるように見える。
 昔、国道沿いにポツンとあったスーパーが、以前の10倍位の大きさに建替えられ、そのスーパーと駐車場を共有する、そのスーパーのさらに3倍位ある巨大なホームセンターが聳えていた。
その並びに、ハンバーガー屋や、DVDレンタル屋の建物もオープンを待ち構えている。
その近くにまだ、電気屋、牛丼屋、紳士服屋、本屋、そしてドラッグストア等の出店計画が目白押しらしい。

 へー、そうなん… 
ヒロシの説明を、軽く受け流して聞いてしまった。

「おかげで、駅前の商店街が、対策に苦慮しとるらしい」

ヒロシの実家の店は、その商店街だ。


「大学院まで進むんは、無理かもしれんな」

 視線を、オープン間近のDVDレンタル屋の車内広告に移して、ヒロシは、深くため息をついた。



(七)


 早智も、ヒロシも、もうすぐ4回生になる。

 早智は在学中に、ガイドヘルパーのほかに保育士の資格も取っている。 
だが、今の不況で、大阪で正社員としてのまともな就職は競争率が高く難しい。
実家に話せば、当てにできそうなコネもありそうだが、今、岡山には戻りたくはなかった。


「卒業しても契約社員の形でよければ、ヘルパー、このまま続けて欲しいな」

 『ぼんご』の三島さんは言ってくれている。

 契約社員で給与は安いけれど、一応保険は利くらしいし、やりがいがある仕事だから『ぼんご』で続けていても良いのだが、早智には働きたい場所があった。
『徳心園』という、発達障害児のための保育施設が、来年度新卒を募集していた。
秋に採用試験がある。

 『ぼんご』を利用する子のうちにも、『徳心園』の子がたくさんいた。
ほのちゃんも、そのうちの1人なのだが、ほのちゃんのママが絶賛している保育施設だ。
他の『徳心園』に通っていた子の保護者の方からも、みんな、感謝の言葉は良く口にするけれど、悪口を聞いたことがない。
ただ、通っている大学での評判は、
『とにかく仕事がきついので、同じ給料なら普通の保育園の方がずーっといい』
と、人気は低かった。

 でもきっと、やりがいはあるはず。

『ぼんご』の三島さんは、早智の希望を聞いて、

「さっちゃんなら、きっと受かっちゃうだろうな…」

 残念がっていたけれど、

「でも、『ぼんご』での事が、きっと役に立つはず!」

 とも、付け足してくれた。

「万一、落ちたら、いや、辞める事になったら、また、戻ってきてね!」



*  


 3月の初め、ヒロシは、世間では名の通った会社の就職内定を、あっさり決めてきた。

「僕に、営業なんてできるんかな… 
車の免許も取らんと」

 営業マンにもかなりの専門知識が必要な職場らしく、配属予定の部署は、理系出身者ばかりということだ。

 ヒロシの内定が決まった時、

「すごいやん! お祝いしなくちゃね!」

 早智は、単純に喜んだ。

「ヒロシ、誠実な感じやから、営業の受けもええんやない!」

 うん、まあね… 
ヒロシは、他人事のようにブルーな感じだ。


* 


 春休みから、ヒロシは自動車教習所に通いだした。
内定先から指示があったらしい。
3ヶ月かかって、ようやく仮免にこぎつけた。

「運転、僕には向いてねぇな。
これから、ずっと仕事で車乗るのかと思うと…
仕事より、運転だけで疲れてしまいそうや」

 あまり運転センスは無い様で、路上教習もまだまだ時間がかかりそうだ。

「運転なんて慣れなんやない? 
じきに慣れてナンてことなくなるよ、きっと!」

 また、憂鬱そうな顔だ。
そんな顔されると、早智にまで、どよぉ~んとした気分が感染してくる。


「そうだ、今度のヒロシの誕生日は学校もバイトも休みにするから、ユニバーサルでも行こうか?」

 2人とも大阪に来て、まだUSJに行ったことがなかった。
お金も時間もない2人だから、2年も付き合っていたのに、丸1日どこかで、というようなデートは数回しかない。
ヒロシの趣味に合わせると『邪馬台国』がらみで、まあ、お金は掛からないのだろうけれど、早智にとってはツマラナイ。

「気晴しに、パーッと遊びに行こっ! 
一度くらい行ってみようよ! U・S・J」



* 



 大阪で、劇的にカッコいいカレシと、結ばれるかも知れない。
大阪へ来たばかりの頃、ミチコにそう言われてから、早智は一応御守のように、いつもコンドームを持ち歩いていた。
だが、初めてヒロシの部屋に泊まった夜、それは必要なかった。
ヒロシは、一度も女性とは付き合ったことが無かったはずなのに、部屋にコンドームをちゃんと備えていた。
今も、冷蔵庫の一番奥にしまっている。


「大阪に出るとき、『備えあれば憂いなし』って、兄さんが店のやつ持たしてくれたんだ。
卒業するくらいまでやったら、消費期限は大丈夫」

 そんなのに、そんなんあるの… 
知らなかった。

 ヒロシはずっと、その度に、ちゃんと避妊してくれていた。
ところがこの前、コンドームをつけない夜があった。

「ああっ、忘れとった、ゴメン、ちゃんとせなな…」

 避妊を忘れるなんて、ヒロシらしくない。 おかしい。

 就職の内定が決まってから、変に陽気だったり、ぼんやりしていることが多くなった。
早智の話を、いつも、しっかり受け止めてくれていたヒロシなのに、最近
『えっ、何じゃったっけ?』
と、聞き返すことが増えている。

 気が進まないんなら、内定断わって大学院に進んだら?… 
だめなん?

「もう兄ちゃんには、迷惑かけれんからな…」

 今も奨学金を受けてはいるが、バイトは、たまの休みに出来る短期を探すだけ、生活費は、ほとんどお兄さんの仕送りからまかなっていた。

 実家の近く、国道沿いにドラッグストアが、ついにオープンしたらしい。

『うちは、処方箋中心じゃけん大丈夫、気にするな』
 お兄さんはそう言ってくれているらしいが、ヒロシが小さい頃から通っていた店近くのよく処方箋を出す医院、先生はもうすっかりおじいちゃんらしいし、後継ぐ人がいないそうだ。
化粧品や生活用品も、厳しくなるだろう。

 今までの仕送りでさえ精一杯だったことは、ヒロシには痛いほどわかっている。



(八) 


【明日の夜、合コン、いってもええかな?】

 授業終わりのベルを待っていたかのように、早智のケータイが鳴った。
ヒロシからの電話だ。
ヒロシと同じ会社に内定が決まった人から
『親交の意味も込めて!』 と、お誘いがあったらしい。

『マメそうなやつだった…』
まだ学生なのに、自分の名刺を配っていたらしい。

「別に。行ったら、ええやない」

 ちょっと嬉しそうなのが、気に入らないけど。

「次の日、USJだからね。 あんまり飲みすぎんでね」

【女房妬くほど、亭主モテもせずってね】

 そっちの方は、これっぽっちも心配してへんよ。
バカみたい。


 ヒロシとの通話を終えたら、またすぐ、ケータイが鳴った。
今度は『ぼんご』の三島さんからだ。

【さっちゃん、突然だけど、アサッテ入れない?】

明後日って… ヒロシの誕生日の日だ。

「授業は入ってませんけど、でも…」

【昨日、ほのちゃんのママが『めまい』で倒れたらしいの。
救急車で運ばれたんだって。
今日も、まだチョイチョイあるらしくて。
明後日、大学病院でCTとかの予約がとれたから徹底的に検査したいって、ほのパパが 】

三島さんの、いつもの早口だ。

【で、学校へ迎えに行って欲しいの。
学校へは『ガイヘルさんが迎えに行きます』って連絡しておいてくれるって。
ほのちゃんのランドセルの脇に、家のカギぶら下げとくんで、
で、家の玄関に着替え置いてあるから着替えさせて、行き先はお任せ。
18時くらいまで】

三島さんは、一気にそこまでしゃべると、息をついた。

「ちょっと、メモします、時間とか。もう一回お願いします」

 三島さんとの電話は、いつもこんな感じ。
寄り切られて、早智の負け。

 合コンとか言って、案外楽しそうな声やったし… 
ヒロシごめんね。
ほのちゃんママの一大事やから、許してね。



*  


 その日の夜だった。

 せっかく、休みとれたのに… 
ヒロシは、USJ行きが流れてさすがに膨れっ面だ。

「僕って、ほのちゃんには、かなわんのかな…?」

 そんな、ほのちゃんと比べてどうするん… 
次元が違うやない。


「初の合コンデビュー、明日、しっかり遊んでくれば!」

「そうやって、カノジョに励まされるってのも、情けんよなぁ…」

 そう言いながら、いつになく乱暴に覆いかぶさってきた。

…………… 
…… 確信犯だった。 避妊してない!

 許せん。 
子供できたらどうすんの?
ちゃんと、してって 前にもお願いしたわ。

「…… ああ、ごめん」

なんで!… 
ちゃんとせなな、って、言うとったのに。

「……」 

 なに、ポケーっとしとるん!
 無性に腹が立ってきた。

「うち、ずるずると、できちゃった結婚なんてやよ! 
ゼッタイ、いやっ!」

 ヒロシは、黙っている… 
何も言えへんの。卑怯者!


「もう、終わりにする!」

早智は、さっさと服を着た。

「就職が決まってから、ずーっと! 
ひがみっぽくて、ウジウジして…
大学院に残りたいんやったら、借金してでも残ったらええやない! 
実家に悪いとか、子供ができて仕方ないとか、そんな理由つけて、ごまかしたいだけやわ! 
そんなんに利用されとうねぇわっ!」

 ヒロシは、パンツで前を押さえて、ボーッと突っ立っている。

「そのまますっぽんぽんで、合コン行ってきたらええねん!
その方が新しいカノジョできるんとちゃう! 
さよならっ!」


 ドアをバタンと閉めて、部屋を出た。

 原付を飛ばした。
涙が耳の方へ流れていく。

 見損なったわ。 
別れたっていい、あんなやつ。
一生、大学院に残れなかった言い訳にされたら、生まれてくる子がかわいそう。

 そんなん絶対許さない。

 もし、今日のんで赤ちゃんができたとしても、早智一人で育ててやる。


(九)


 コンビニで買ったパンで簡単な昼食を済ませ、原付を『さくら坂』のほのちゃんの家の駐車場に置き、学校へ向かった。

 ほのちゃんは、先生と一緒に校門の前で待っていた。
原則としては保護者じゃない人間が、学校へ迎えに行くのは駄目らしいのだけれど、今回は特別、先生からも
『よろしくお願いします!』 と頼まれてしまった。

 ランドセルの脇にぶら下がっていた鍵で玄関を入ると、籠に入ったほのちゃんの着替えと荷物、メモがあった。

『西村さんへ
制服を着替えさせたら、一度、トイレ行かせてください。
今日、少し風邪気味で鼻ズルズルしています。よろしくお願いします。
帰り、17時30分位にT駅かK駅か、その周辺あたりなら迎えにいきますので、一緒に乗って帰ってきてください。
その頃にうかがっている携帯へ電話します。
何かありましたら今日は父親の方の携帯へ連絡ください。090-XXXX-XXXX 』


*  


「ほのちゃん、またちょっと、おハナ出てる。 拭こうか…」

 携帯のティッシュがもう無くなってしまった。

「ほのちゃんのハンカチ、今日はおハナ専用にしとこね。
手、洗った時とかは、早智のハンカチ、貸したげるね」

 今日は、ジャスコで過ごそうか。 

 休憩ベンチで水筒のお茶飲んだら、外出用のおこずかい使って、ラムネ菓子のクレーンゲームしようね。
ほのちゃん大好きで、いつもジーっと覗きこんでるやつ。


 雨、降らんかったらいいけど…

 雨の中、『さくら坂』から原付で帰るとなると、憂鬱だった。
空全体を覆う、どんよりとした雲が、だんだん重さを増したように感じる。
今にも泣き出しそうだ。

 あれから、ヒロシから連絡はなかった。
早智も連絡しなかった。

 このまま、終わってしまうんかな…

 ほのちゃんの無垢な視線を感じた。
すると、ほのちゃんが歌を口ずさみだした。

「♪クーモーリードラー ファクーナァーアーッ」

 ほのちゃん、それ大塚愛? 
音程しっかり合ってるね。 
何の曲か、早智、わかったよ。

『♪泣くなーっ』て言ってくれてるの?  ほのちゃん。


 今までヒロシと、まともな喧嘩はしたことがなかった。

 早智が、頭が痛かった時だ。

「『バッファリン』か何か無い?」

「あれは『バッファリン』やなくて、『バファリン』て言うんだ。『イブ』ならあるよ」

「人が、頭痛いのにどっちでもええやない!」

…そんなのを喧嘩と呼ぶなら、その程度だった。

 きつい事を言ってしもたし、それだけでも謝っとこうか。
誕生日メールだけでも、送っといたほうがいいかな。

 迷って…
『誕生日おめでとう』 
と、形だけメールした。


 あっ!
ほのちゃんがおらへん!

 しまった、また油断してしまった。
どこやろ。 

 あっ、おった!… 

 靴屋さんの前だ。
大人用のサンダルを履いて、ご機嫌に走っている。

 カツカツ…

「危ないでぇ… こけちゃうで…」

と、胸に『おおの』とプレートをつけた優しそうな男性店員さんが、まったり注意している。
ほのちゃんは、お構い無しで、まだ、カツカツ駆けている。

「ほのちゃぁーん! 
歩きますっ! 止まりますっ! 
…きをつけッ!」

 ほのちゃんは立ち止まって、
『キオツケ!』 と、小さく声を出して、キオツケをした。


 脱ぎ捨ててあったほのちゃんの靴を、先ほどの店員さんが拾って、手渡してくれた。

「すみません、ありがとうございます!」

 ほのちゃん、サンダル脱いで。
こっち、靴、履いてちょうだい… 

 ほのちゃんが脱いだサンダルを、店員さんに返した。
真っ赤な、キラキラのビロビロが付いたサンダルだった。

 ほのちゃんって、趣味悪いんやね。


 ほのちゃんを促して、休憩用ベンチにまた座った。

 おハナ、少し出てるよ、拭いとこうね…ごめんね、早智、ちゃんと仕事するね。
 
ほのちゃんが、無垢な瞳で見つめ返してきた。

「♪アイタイッ ハラ アイニィークゥー」

 今日は、大塚愛メドレーやね。
大塚愛好きなの?

 逢いたいから、会いに行く…

 今夜、ヒロシに会いに行こう。
もう一回ちゃんと話してくる。 
そうするね、ほのちゃん。


 着信のメールが来ていた。 
ヒロシからだ。
さっきの誕生日メールの返信。
ほのちゃんを追い掛け回していた時、来ていたんだ。
気付かなかった。

『メールありがとう。嬉しかった。
 この前は、ごめんなさい。
 さっちゃんと、このまま終わってしまったら生きていけない。
 合コンなんか行く気になれなかった。
 ずるい自分が情けない。
 さっちゃんの言う通りだ。
 子供ができてしまったほうがすっきりするなんて考えていた。
 許して欲しい。
 大学院にどうしても残りたいというわけじゃなくて、働きに出るのに自信が無 かっただけだ。
 さっちゃんに言われて気がついた。
 ウジウジ甘えていた、許して欲しい。
 卒業して、ちゃんと働いて、落ち着いたら結婚して欲しい。
 ぼくは、さっちゃんを一生守る。
 約束する。
 ちゃんと結婚したら、今度こそ2人で子供を儲けよう。 』


『儲けよう』って… 
なにそれ。

『そんな大事なこと、ちゃんと顔見て言って!』
と、早智はメールを返した。

 すぐケータイが鳴った。
ヒロシだった。

【今、どこにいるの?】

「K駅の近所のジャスコ」

【何時ごろまでいる?】

「5時すぎ」

【すぐ行くから!待っとって! 
ちゃんと顔見て言うから! 
ほのちゃんもおるんじゃろ。
ちょうどいい。立会人になってもらおう。 
今すぐ行くけん!】

 ヒロシは、それだけ言うと通話を切った。

 
 早智は、通話が切れた後も、しばらくケータイを耳に当てていた。
ほのちゃんが、早智を見上げている。

 立会人にされちゃうよ、ほのちゃん… 
イケてないねぇ。

 ジャスコでプロポーズだって… 
イケてないよねぇ。ねえ、ほのちゃん。


 雨、降らんかったらいいけど…

 オンボロの自転車を、一生懸命こいでいるヒロシの姿が浮かんだ。

 早智の目から涙がこぼれた。 
温かい涙だった。
ほのちゃんの、つぶらな瞳が、ツーっと近づいてきて、早智の涙をハンカチで拭きだした。

 あぁ、ありがとう… 
ほのちゃんやさしいのね。


「あぁっ、でもそのハンカチ、さっき、おハナ拭いたやつ…」

(一)

「ほのちゃん、今日、凄かったんですよ!」


「ふふっ、昨日の夜ね、シンクロのテレビ、食い入るように見てたもん。 
きっと今日、潜ってばっかりやったんとちがう?」

 さすが、ほのちゃんのママだ。 すっかりお見通し。


「ぐるぐるまわったり、逆立ちしようとしてプールの水飲んで、ゴホゴホいって、それでもめげずに      水へ突進してましたよ!」

 ほのちゃんのママと話していると、とっても楽しい。 ほのちゃんのママが大好きだ。


『神様は、障害を持つ子供が幸せになれるようにその母に授ける』
って、聞いたことがあるけれど、ほのちゃんには、あのママしか考えられない。
神様の正しい選択だと思う。

『自閉症を伴う知的発達障害』 
 きっと辛いことも、いっぱいあったにちがいない。
そんなところはおくびにも出さず、障害もほのちゃんの個性として楽しんでいるようにさえ見える。

 このバイトは、障害児のいる様々な家庭と触れ合う機会がある。
『障害=不幸』という家庭も少なくない。

自分がどんな子を授かろうが、ほのちゃんのママのように受け入れられるだろうか?
早智には、まだ自信がない。

 妹のミノリちゃんが『おなかすいたぁ!』と玄関まで出てきた。

「はあい、わかりました、いま作るからね、ホノカ何してる?」
ママが、優しく応える。

「ホノカ、寝てるョ」

「ほのちゃん、泳ぎ過ぎて、疲れちゃったかな? 
話し込んでしまって、すみません。 じゃあ、失礼しますね。 
ミノリちゃんバイバイ! 」

 ほのちゃんを、おうちに送り届けて、そのまま玄関先で小一時間も話し込んでしまった。


 早智は、愛用の原付にまたがった。
『さくら坂』は山の中腹にあり、遠く眺める大阪湾は、もうオレンジ色に染まっている。

『見たいDVDがあるから一緒に見てね』
と、今日は早智の方から誘ったのに、ヒロシに約束していた時間に遅れそうだ。

でも、きっと許してくれるだろう。

ヒロシのイケてないセリフを借用すれば、
『ほのちゃんは、僕たち二人の愛のキューピット』なのだから。


(二)

 ヒロシと大阪で再会したのは、2年前の6月のことだった。

 T市方面へ向かう電車に乗り込むと、車内は比較的空いていて、ほのちゃんは早速座席に上って、      窓の外を眺めていた。

「お靴、脱いどこうね!」

 この間に、今日の行動報告を書かなければ。

 連れて行った動物園は、ほのちゃんに気に入ってもらえたようだ。
心配していた天気も、たまに晴れ間さえ覗かせてくれた位で、雨具の手間は必要無かった。

 しまった! 

 報告書を書くのに集中してしまった。

 電車の外を見ていたはずのほのちゃんが、いつのまにか、前の席の男性のところ、靴も履かずに行って、    その男性の横の席に膝立ちになって、男性の肩に手を置き、顔をジーッと覗き込んでいる。

 男性は、少し照れながら
「こんにちは」

 と、ほのちゃんは、突然、

「メガネッ!」
と言って、男性のメガネをサッと取って、こちらへ戻ってきた。
上下反対にかけて、ご機嫌にしている・・・ 

「あーっ、ほのちゃん、ダメ!」

 いけない。
『ダメ!』は、だめだ。
       *

「自閉症の子の中には『ダメ!』って言われると、自分全てが否定されるように感じる子がいるんだって」

 障害児童支援サービス『ぼんご』の三島さんから、教えられている。


「もしか、さっちゃんがさぁ、海外旅行してて初めて行く空港とかでさ、バン!バン! て音がして・・・ 」
 三島さんは、手をピストル形にして撃つマネをする。

「誰かが『ダメッ!アブナイ!』って叫んでくれてたって、不安が募るばっかりで、どうしていいかわからないじゃない。
そんな時は『伏せろ!』とか『隠れろ!』って言われる方が、気分的にも、ずっと助かるでしょ。
そんな感じなのよ・・・」

 ちょっと頭を傾げて聞いていると、早智が理解出来ていないと思ったのか、三島さんは続けた。
 

「うーん、じゃあ、例えはあんまり良くないんだけどさ・・・」

 と、前置きして、

「イヌを散歩させてる時、もしそのイヌが、誰か知らない人に吠え掛かったら、『ダメ!』って言うより、    『おすわり!』って言った方が、効果があると思わない? 
イヌにしてみたら、喜んで遊んでくれる人もいたりして、何が、『ダメ!』なのか、判らないの。 
『ダメ!』だけだと、パニックになる子もいるの。気をつけてね!」

 こっちの例えの方が、ずっと良いと思う。

「ガイヘルしてて、その子が急に車の通る道へ走りだしたりしたとしたら、『ダメ!』とか『アブナイ!』     じゃなくて、『止まれ!』とか『こっちへ来なさい!』とか。
次の行動を教えてあげる方がいいわ。
その辺にいる普通の子にだって、その方が理解しやすいと思うの」

 ほのちゃんのガイヘルは、もう10回を数える。
ほのちゃんについては、かなり掌握しているつもりだった。

自閉症児には、落ち着きなくやたらと動き回る『多動性障害』の傾向がある子がいるが、            ほのちゃんの『プロフィール』には、『多動は、あまりみられない』となっていた。
 ほのちゃんとの初めてのガイヘルの時、ずっと抱っこばかりで、腕が筋肉痛になってしまったが、      それでも、サッと何処かへいなくなってしまう『多動』の激しい子に比べれば、                ほのちゃんは扱い易い方と言えるだろう。


「さっちゃんと、一番相性がいいみたい・・・」

 三島さんは、ほのちゃんのガイヘル要請が早智のスケジュールと合うときは大抵、             早智とほのちゃんを組合わせていた。
特に自閉症の子はパニックをできるだけ避けたいので、あまりヘルパーが入れ替わらないようにと      考慮してくれている。

『慣れた頃が一番事故が起きやすい』と言われている。
報告書を書くのに集中していたら、つい油断してしまった。

 気をつけなきゃ。


*  

「メガネ、は・ず・し・ますっ!」

 ほのちゃんに声をかけた。
男性が立ち上がって、こっちへ来た。

「さかさだよ・・・」 
 男性は怒るわけでもなく、ほのちゃんに声をかけた。

「目、悪くするから、かけんほうがええよ・・・」
「すみませんでした・・・ ほのちゃん! おじさんにメガネ、ハイッ!しなさい!」

 ほのちゃんは聞き分けよく男性にメガネを渡す。

「おじさんは、ないんやない・・・」

「あぁっ!すみませんでした!」

 ほのちゃんはと言えば、もうメガネにも男性にも興味なく、また窓の外を眺めている。


「もしかして、間違えてたらごめん。 西村さん、だよね?」

「えっ?」

 そうだ、この顔、メガネ、見覚えがある。

そうだ、高3の時のクラスメート、名前なんだっけ、確か親友のミチコが選んだ               『イケてないメンズ』のうちのひとり。

「頑張っとるんだね。 僕のこと憶えとらんやろか? 田端比呂志」

タバタ・・・ そう、その名前だ。

「僕、こっちの大学におるんや。 
西村さんも大阪におるって、山口の奴が言うてた。福祉関係の大学らしいって。
どっかで会うかもしれんと思っとったけど・・・」

 山口という、高校の頃からすっかりオバサン味を出していた、ウワサ好きなクラスメートの顔を思い出した。


その時、まもなくT駅、というアナウンスが流れた。
「さあ、ほのちゃん! 降りますよ、お靴はいてね!」

「今日、ほのちゃん送り届けたら、連絡する。 電話番号聞いとく!」

 ヒロシは、ちょっと驚いた顔をしてから、ケータイの番号を告げた。

早智はシャーペンで報告書の右上に走り書きし、
「じゃあ、またね!」

ほのちゃんの手を引いて、扉の方へ向かった。


 『さくら坂』行きのバスに乗り込んで、一番後ろの座席の窓側にほのちゃんを座らせ、その横に腰を下ろす。
脇に挟んでいた報告書、さっき走り書きした数字をケータイに落としてから、シャーペンの後ろについている  消しゴムで、丁寧に消した。

 なんで、連絡するなんて言っちゃったんだろ・・・ 自分らしくない、不思議。
 そうか、『メガネの詫びをしなきゃ!』が、あったんだ。
たとえ、イケてない顔見知りでも、ちゃんと謝っとかないと。
*  

 ほのちゃんを無事送り届けて、さっき登録した『タバタヒロシ』に電話をした。

 聞けば、お互い最寄り駅は別の電車路線だが、直線距離にして原付で10分ほどの距離のところに住んでいる。
今日は、奈良の方へ行っていて、その帰りに乗り合わせたらしい。


 改めて、メガネの詫びを入れた。

【晩ご飯、もう食べられましたか?】と、やけに丁寧に聞いてきた。
 
近くのファミリーレストランで
【ご一緒に、夕飯でも食べませんか?】となった。

 まあいいか。今日は時間あるし。

 高校の時、ヒロシとは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。
流行を無視したメガネと、その奥の小さな目と、ボウボウの眉毛、お世辞にもモテる顔の持ち主ではなかった。
その時だって完全に恋愛対象外、同郷の友人としてのご対面だ。

 お互い、大阪に出てからの近況を話した。

 同郷の訛りを聞いたせいか、久しぶりに身構えずに話ができた。
知らぬ間に、自分でもびっくりするくらい饒舌になっている。
男性として見ていないからか。 聞き上手なのかもしれない。 話すことを心地よく感じた。

 ヒロシは、校内で有名だったはずの『水泳部の先輩』については、何も触れなかった。
たぶん付き合ってたことも、別れたことも山口さんに聞いて知っているだろう。

 初めての一人暮らし。

忙しい授業のこと、バイト先の子供服屋のやり手女性店長のこと。
昨年から始めたガイドヘルパーのバイトのこと、水泳部にいたことがそのバイトで役立っていること、     大阪の学生のギラギラしていること。

 早智は、同じゼミの子に何回か合コンの数合わせに誘われ、1度だけ無理やり連れて行かれたが、      相手男性陣の、欲情ギラギラな感じに吐き気がして、途中で帰ってしまった。
 後から『さっちゃん、ひどいよぉ!』と、早智を誘った子に怒られはしたが、『でも、いい男いたから・・・』 まんざらでもない様子だった。
 その子は、早智が、一番気の弱そうな男に
『ちょっと、体調悪いから・・・』と、伝言して先に帰ったことを、合コンが終わる間際まで           気付づいていなかった。
 
 そんな話もした。


「うちのゼミは理系やから、合コンとか、バイトとかも、まともにしとるヒマないけんなぁ・・・ 
大阪にも色んな奴おるよ」


 その日話して初めて知った事は、ヒロシが高校の時、部活で歴史研究会にいたこと。
好きなのは歴史全般というわけではなく『邪馬台国』一辺倒で、今日は短期バイトが無く丸一日空いたので、   奈良の桜井市まで足を伸ばして来たそうだ。

 申しわけないが、早智には殆ど興味のない世界だった。


*  

「今日は、僕出すね。 僕が誘ったんやし・・・」

「アカンよ!そんなん・・・」

 そんなに、裕福そうには見えない。出すとしたら迷惑をかけた、こっちの方だ。

「あと、1ヶ月くらいで僕の誕生日なんや。
また一緒に食事して、そん時、思いっきりご馳走してくれへん?」

 少し困った顔をすると、

「他の男と食事したりしたら怒る人が・・・ 西村さんなら・・・ おるよな。 
今日は誘ったりして、ごめん・・・」

 ヒロシが、神妙な顔をしている。

「違うの、最近、ちょっとサイフのピンチが続いとって・・・」

「誕生日やからって、豪華なレストランやなくても、ここでええんやけど。
ファミレスでも・・・アカンやろか?」

 ここなら、たぶん大丈夫・・・ 

早智は首を横に振って、また会う約束をした。

(三)

 早智は高校のとき、同じ中学出身で、同じ水泳部、一年先輩の優斗と付き合っていた。

 高1の春まで、『中島先輩』と呼んでいた。
その夏休みが終わる頃、学校以外では『ゆうちゃん』と呼び方が変わった。

 そんなウワサは、一気に広まった。
彼は人気者だったし、わざわざ高2の女子達が、水泳部の練習を見に来て、ウワサの彼女を確認していった。
彼は迷惑そうにしていたが、早智は恥ずかしい反面、祝福されているような気がして嬉しかった。

 彼の女性関係は硬派で、アプローチされても『俺、カノジョいるから』と、数ある誘惑には          乗らないでいるらしい。

「もったいねぇんじゃなぁ。ちぃとは、俺にまわして欲しいよ!」

 彼の友人が教えてくれた。 彼は笑っていた。
 
大晦日の夜から、二人だけで最上稲荷まで初詣。
短い3学期が終わって休みに入ると、親には水泳部の冬季合宿と偽って、二人だけでスキーに行った。

 その度に、同じ水泳部で中学校からの親友、ミチコに協力を仰いだ。
「うちにも、中島先輩の友達とかで、とびっきりカッコイイの紹介してくれなきゃだめよ!」

 二人の仲は順調に、誰もが認める二人になった。

 早智が高2で彼が高3、県大会予選も終わって水泳部を終了し、受験勉強モードに入った彼に気を使い、   早智は、2人で逢うのをガマンしていた。

 早智の誕生日には、電話をくれた。 『今日だけは特別』と、2時間も付き合ってくれた。

クリスマスの夜、部屋の窓から顔を出してくれた彼と、少しだけ言葉を交わした。
「来てくれて、ありがとう! 早智の顔が見れてうれしいよ・・・」
 それだけでも早智は満足だった。
 * 

  別れは訪れた。 早智にとって、人生の中で最悪の年が始まったのだった。

  年が明けて、神妙な声で 『会いたい・・・』と電話があった。
いつもの彼らしくない、沈んだ言葉。

「何?」

「いや、会って話す・・・」

 何か、いやな予感がまとわりつく。

  外は、雪が舞っていた。
早く、この得体の知れない、胸の中のもやもやを拭い去りたい。
早智は、傘も持たず、足早に彼の家に向かった。

 彼の家のすぐ横、大きな桜の木がある小さな公園、彼のさすビニール傘の下にいた。

「卒業したらアメリカに・・・留学することになった・・・」

 京都の大学を、目指しているはずじゃなかったの?・・・ 


 早智も、高校卒業後は、京都か大阪の、保育の大学へと進路を考えている。
小さい子が好きだったし、漠然とだけれど、保育園の先生に憧れていた。
でも、本当は彼の近くにいたい思いの方が大きかった。

 建築会社を経営する彼のお父さんは、口癖のように『若いうちに世界を知っておけ!』と。
無事大学に入ったら『一度は留学するよ』と返事を濁していた彼は、在学中の夏休み、観光がてらの       短期留学にでも行けばいい、と考えていた。
それよりも、目前に控えるセンター試験を前に、そんな言い合いすら時間が惜しい。

 しかし、彼は甘かった。

「夏までは、語学学校でひたすら英語を学び、秋からMBAを目指しなさい。
将来の目的もなく京都で下宿して、女にうつつを抜かしてブラブラ遊ぼうなんて、金は出さん!」

 この年末、ほとんど命令に近い話になったのだった。
彼のお父さんは、手際よく、留学の手配を知り合いに依頼して、急転直下、彼のアメリカ行きが         決まってしまった。

「そんな大事なこと、なんでもっと早く教えてくれんかったの・・・」

 悔しかった。 でもそのあとの方が、もっと悲しく辛かった。

「何年行っとるか分からん・・・ 待っててくれんでも、ええよ・・・」

 目を合わせてくれなかった。

「それって、どういう意味なん? 新しくカレを作れって事? 」

 声が震えているのが、自分でも分かった。

「・・・・・・」

彼の背中が、小さく丸まっている。


「『待っとけ!』とは言うてくれへんの?
『高校出たら、お前もアメリカに来い!』って、そうは言うてくれへんの?」

「・・・ ごめん」

「なんで、謝るん? うち、待ってる。ゼッタイ待ってるから!」

「・・・・・・」

「アメリカだってケータイ使えるんでしょ? 毎日メールするわ。 
電話もする。 うち、手紙書く。 住むとこわかったら教えて・・・ ぜったい!」

 涙声になっていた。

「ああ、わかった・・・ そうする・・・」


 何かを、あきらめたような返事だった。 雪は、冷たい雨に変わっていた。


「帰るね・・・」

「傘、持って行き」

 彼は、ビニール傘を早智に手渡すと、振り向きもせず、小走りに家に入っていった。

 また、雪になればいい。 高く積もればいい。
何もかも、真っ白になってほしい・・・ 

 今日の出来事は、全て、無かった事にしてしまいたかった。

* 

 それから早智は、無理に明るく振舞っていた。

 もうすぐ、アメリカへ行ってしまうのに。

 電話をしても会話が弾まない。 重たい無言の時間が訪れる。 空回りしている自分が惨めだ。

 彼の心を、繋ぎとめておかなくては。
 
焦れば焦るほど、2人の溝が深まっていく。

 以前のように、いっぱいキスして欲しい。抱きしめて欲しい。
彼からは、何もしてきてくれなくなった。

 でも、口に出して不満は言えなかった。
言ってしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がした。

 実力を測るために、センター試験は受けていたが、大学受験が無くなったのだから、きっと時間はあるはずだ。
でも彼は『準備が忙しくて』と、できるだけ2人だけで逢うのを避けているように感じる。

 早智も本当は、2人だけになる時間が怖い。
もし、改めて、別れをきっぱりと宣告されたら、生きていけない気がした。

 卒業式の後も、送別会も、旅立つ日まで、カノジョとして横にいた。
笑顔でいる以外、どんな顔をしていればいいのか思い浮かばなかった。


 関空まで、来てくれなくてもいい・・・ と言われていた。

 彼のお母さん、友達たちと一緒に、岡山駅まで見送りに行った。

 気を利かして、二人きりにしようとしてくれるミチコにも、
「ええの、うち、大丈夫」

 彼は、あっけなく旅立ってしまった。
 新幹線が出ていった。 涙も出ない空っぽの女が残された。

 彼のお母さんが別れ際に、
「色々、ごめんね・・・」  
すまなそうに一言声をかけてくれた。

 『もう、ゆうちゃんとは逢えなくなるかもしれない』

重たすぎる予感、押し潰されそうになった。
空っぽの早智の中、いったい何処にあったんだろう、熱い涙が溢れてきた。

 崩れ落ちてしまいそうだ。

 ミチコが支えてくれなかったら、そこから少しも動けなかっただろう。

*  

 大丈夫だと、信じていたかった。

 ケータイは、使えるはず。 
でもメールが、送信できない。アドレスを、変えたんだろうか・・・

 夜中まで起きて、ケータイへ何度電話してみても、繋がらないことを教えてくれる、            事務的な女性の声のメッセージが流れる。

返事の来ないエアメール、本当にゆうちゃんまで届いているんだろうか?

 自分の拙い英語に緊張しながら、聞いていたホームステイ先の電話番号へ国際電話をかけてみた。
しかし、ゆうちゃんまで繋がらない。
 でも、確かにそこに、ゆうちゃんが住んでいることだけわかった。
それだけ、それだけわかっただけでも、涙が出た。


一ヶ月ほどして、アメリカからエアメールが届いた。

『やっと落ち着きました・・・
… 僕には、日本に君を彼女としてキープしておいて、というような器用なことはできません。
いつ日本に帰れるかわからない僕に、君を付き合わすわけにはいきません。
ごめんなさい、これではきれいごとすぎる。 僕は卑怯者です。
正直に言うと今の僕は、新しい生活でいっぱいで君の事を考えている余裕がありません。 ごめんなさい。
こっちに来る前に、もう一度ちゃんと話しておくべきでした。
でも僕にはできなかった。
日本にいる間は君と別れるのが怖かった。
 僕のわがままです。 
君に迷惑をかけたこと謝ります・・・』


『君』って、誰に出してるつもりなの・・・ 他人行儀な文面が痛かった。


 ゆうちゃんは、もう、早智なんか、いらん・・・?

彼は、早智なんかと関係のない、新しい道を歩き出している。


『早智は、ゆうちゃんの重荷になっているのがつらいです。 早智のことは忘れてください。 さようなら 』

 これだけ書くのに、ずいぶんかかった。 涙が止まらなかった。
 郵便局でエアメールをお願いするときだけ、涙が溢れるのをガマンした。

郵便局を出たらまた、涙が止まらなかった。


 ミチコに、手紙の話をした。 一緒に泣いてくれた。
 少しだけ、すっきりした。

 それから一年、色あせた冷たい校舎に通った。

 夏休みに、アメリカに遊びに行った彼の友人がいたらしく、向こうに、もう別のカノジョが          出来ているとウワサが流れた。

 水泳部だけは、最後までやり遂げとげたい。 県大会予選も、一生懸命泳いだ。

予選通過まで惜しかった昨年の自己ベスト。今年のタイムは、それに到底及ばなかった。
親身になって、早智の泳ぐフォームをチェックしてくれていた彼が、もういないからかもしれない。

 でも、水泳をやっていてよかったと思う。
ひたすら泳いだことで、自分の気持ちに区切りがつけられたような気がする。


 保育関係の大学への進学は、彼がいなくたって目指していたはずだ。
大阪の大学を受けることにした。 両親は反対したけれど、早智の意思は固かった。

       *

 大阪に来て、初めての夏休み、岡山には帰らなかった。

 備え付けのエアコンが、連夜がんばっている。
そんな早智の部屋に、ミチコが泊まりにやってきた。

 天王寺の子供服屋のバイトが終わる時刻に待ち合わせ、近くのコンビニで弁当とお茶だけ買って、      まっすぐ早智の部屋に来た。
ミチコはたった2泊だけのはずなのに、大きなバッグを抱えている。

「ええなあ、一人暮らし。憧れるわぁ!」

 早智の部屋を見回しながら、ミチコは嬉しそうだ。

「都会だし、出会いもいっぱい? ええことあった?」

「毎日、忙しくて・・・ 何も」

「もしかして、男避けてる? まだ、先輩に未練あったりするん? 
あれっ、変なこと言うてしもた? ごめん・・・ 」

「そんなんやない。
ほんま、日々の暮らしに追われてるって感じかな」


 明日のスケジュールは、ミチコに予約されてしまっていた。

【次の日、一日空けとってね。どっか連れてってくれる? 
大阪の名所。 ええ男がいるところ、探しとってね!】

 友達が遊びに来るのでと、明日のバイトは休みを貰っていたけれど、何処へ連れて行っていいのか、     いい男がいるところなんて早智には思い浮かばなかった。


「そんなこったろうと思った。
さっちゃん、大阪へは水着持ってきてるん?」

 競泳用のやつだけど・・・ 
水着を使う授業を取るかもしれないと思って持ってきていた。

「ジャラジャラするんじゃなくて、本格的にバシッと泳ぎに行こうよ。
うち、持ってきたんだ!」

 ちゃんと調べてきたんだ・・・ 

大きなカバンから、パソコンからプリントアウトしたらしいA4の紙と、大阪のガイドブックを取り出した。

「『大阪プール』って競泳用のプールがあるらしいん。
その後、ここのたこ焼き屋へ行くの。たこ焼きでビールといきたいところね・・・ 」


 見せてくれたガイドブックには印がついてあった。

「お酒飲むん? まだ、未成年なのに・・・」

「本当はもうお酒だって、練習しとかなきゃアカンのやろね。
これから大阪で、女一人で暮らさなあかんのやから!」

「大阪って怖いとこよぉ。 ナメたら痛い目にあうわ・・・」 
ミチコは訳知り顔でうなずく。

「どっちが、大阪に住んでんか、わからんね・・・」


 二人、顔を見合わせて笑った。


* 

 早智は、大阪へ出てきてすぐ、天王寺の子供服と輸入玩具を扱っているお店で、アルバイトをはじめた。

『普段は、授業が忙しくてなかなか入れないけれど、日曜とか、ゴールデンウィークとか、夏休みも       お盆にもフルに入れます!』というと難なく採用された。

 『仕送りなんかいらん、バイトしながら頑張るから!』と言って、大阪に来た。

 それでも、両親は毎月仕送りしてきてくれた。
仕送りで、学費と部屋代をまかなっている。でもそれを除けば、僅かしか残らない。
今更、親に足りないと甘えるわけにも行かず、せっせとバイトする。

 秋に、ガイドヘルパーの資格を取ってからは、ヘルパーのバイトを優先するようにした。
『辞めさせてください』というと、やり手の女性店長は残念がっていたが、

「忙しい時だけ、短期でもお願い。 声かけるから!」手を合わせて拝まれた。

結局、年末や初売り、バーゲンと、店長にしっかりスケジュールを確保されてしまった。

 大阪に出てきて、瞬く間に1年が過ぎた。

毎日が忙しい。クタクタだ。
こんなんで、ミチコが羨むようなカレシなんか、出来るわけがない。


(四)
 

「二十歳。成人おめでとう、やね!」

 ヒロシとは、約1ヶ月ぶりに顔を合わせた。

 ファミレスで一応小さなケーキを頼んだ。

 早智は、プレゼントを用意していた。 ブードゥー人形という、糸をぐるぐる巻いたタイのお守り。

 ほのちゃんのママが、ケータイにつけていた。
「パパにもらったの。これ売れてるんやって」

 言われて、注意して見てみれば、色々な店に並んでいた。
ヒロシには、アラジンのような格好をした『幸運』と書かれたやつを選んだ。


「女性からプレゼント貰うやなんて、初めてや」

 さっそく、ケータイにぶら下げている。 サンタさんに頼んでいたおもちゃを、クリスマスの朝に      発見した子供のようだ。
ヒロシの屈託の無い笑顔に、心が和まされる。

 長い間忘れてしまっていた、無邪気な感慨に浸ることができた。
重たかった鎧が消え、体が軽くなったような気がする。

 岡山を離れての一人暮らし、大阪でミチコほど心許せる友だちは未だ無く、孤軍奮闘している自分を省みる。
改めて、今まで装着していた鎧の重さに驚かされた。
 今日も身構えることなく、自分の話ができたし、誠実に話を聞いてくれるヒロシといる時間は、とても気持ちがリラックスする。

 この日から、マメに連絡を取り合うようになった。
ヒロシは、『さっちゃん』と呼ぶようになった。早智は、『ヒロシクン』だ。

 ヒロシは、夏休みでも大学の研究室が忙しいし、早智も実務研修や、バイトが忙しく
会う機会は少なかった。
早智は、ヒロシと会える僅かな時間を待ち遠しく思うようになっていった。
会えない時は用事が無くても、早智の方から頻繁にメールを送るようになった。

* 

 その年、街が、そろそろクリスマスの電飾で、きらきら輝きだした頃。


「ごめん、遅うなってしもて」

 それでも、大学を抜け出して来てくれた。

 2人で、遅い夕食をとった。
初めて食事したいつものファミレス、特別にグラスワインをふたつ頼んだ。

 早智は、今日から20歳だ。

 「おめでとう!カンパーイ!」

 ヒロシは、ケータイと、早智がプレゼントしたブードゥー人形を首からぶら下げていた。

「それ、ええね。丈夫そうやし」
ヒロシのネックストラップを指差した。

「そう、ハイこれ。 誕生日おめでとう・・・」
と、ポケットから小さなリボンシールの付いた包みを取り出した。

「開けてもいい?」

ヒロシは、うなずいた。

 包みを開けると、ヒロシが付けているのと色違い、ハンプのネックストラップだった。

「これと、お揃いなんや」

 ヒロシは、首からかけたストラップを持って、細かく振った。

「バイトの時に、
『IDカードとかケータイはいつも、首からかけてんねん。その方が、両手、空くし』って、           前に言うとったから・・・」


憶えていてくれたん・・・ 

ありがと。

* 

 電車の中で、再会した時の話になった。

「あの日、僕は電車乗った時に、すぐ気付いとったよ。
ほのちゃん、かわいかったなぁ。
ほのちゃんの無邪気な目で見つめられると、何も隠し事できんような気がした」

 早智は、かわいいほのちゃんの事、そして、大好きなほのちゃんのママの事を、熱心に話した。

「ほのちゃんとは、『同志』みたいな感じなん。
 ほのちゃんも、当然ママのことが大好きだから、『ほのちゃんのママ』を大好きなもん同志、分かり合えてるっていうか、通じるものがあるん!」

「じゃあ僕も、ほのちゃんと『同志』なのかもしれん・・・」
ヒロシはもじもじして、顔を赤らめている。

えっ? なんで・・・ 言っている意味が、飲み込めなかった。

「さっちゃんを大好きなもん同志。
さっちゃんは、高校の頃から憧れの存在じゃったから・・・
 ほのちゃん、それに気ぃついて、僕のメガネ取って、さっちゃんと話できるように・・・
お膳立てしてくれたんや! きっと・・・」
 ヒロシの顔がますます真っ赤になっている。ワインのせいだけではない。

「お膳立てって・・・ あんまり使わんよね」
 照れくさくて、どうでもいい指摘をしてしまった。

「電話番号聞いてくれた時、飛び上がりそやった。
僕にとっては、一世一代の大勝負で食事に誘ったんや! 平静を装うのに苦労した。
興奮して声が上ずっとったら、嫌われるかもしれんと思て、頑張ったんやヮ・・・」

 ヒロシが、いつになく、熱い直球をガンガン投げてくる。
早智は、しっかり受け止めたいと思った。
      * 

「部屋に行ってもいい?」

 店を出て、思い切ってヒロシに言った。

「ワイン初めて? 一杯だけだったけど、酔った?
原付じゃもんね、醒めるまで、ちょっと、休んでくとええよ。何にもないけど・・・」

 ちょっと、肩すかしの返事。
赤かった顔も、すっかり元に戻って、いつものヒロシになっていた。

「ほんま、何もない部屋。 きれいに片付いてるんやね」
 大学の難しそうな本と、『邪馬台国』『卑弥呼』等がタイトルに含まれた本が並んだ本棚がある。 
簡素な机と、ノートパソコン。
14インチのテレビと再生専用のDVDデッキ、小さな冷蔵庫と電子レンジ。
小ちゃな掃除機、折りたたみ式のベッド。どれも、安価な感じだ。
 部屋は、とてもきれいに整頓されていた。


 男の人の部屋って・・・

男の部屋といっても、ゆうちゃんの部屋と、弟の一樹の部屋くらいしか知らないが、            どちらも、マンガだとか、CDだとか、ガンダムとかが散らばっていた。


 話は、ガンダム好きの、今度高校生になった一樹の話になった。

「結構、プレイボーイみたいなん」
 噂を聞いたミチコが、教えてくれたことがあった。


* 

「今夜、泊まっていってもいい?」


「酔いさめん? コーヒーでも入れようか?」

 鈍感というか、ちょっと奥手すぎるよ。

「ヒロシと、一緒にいたいん!」

 言ってしまった。
恥ずかしさを紛らわすために、少し怒った声になってしまった。

 ヒロシは、驚いた顔をしていた。 

 早智は、目を閉じた・・・  やっと、ヒロシは唇を重ねてきた。 
*  

 その晩、早智はヒロシの部屋に泊まった。

 ヒロシは、ぎこちなかった。
マイペースで手際の良かったゆうちゃんとは、全く違う。
別の行為と言ってよかった。

 でも、とても丁寧だった。神聖な儀式のように愛してくれた。

 2人並んで横になっているシングルベッドの上、ヒロシがつぶやいた。

「こんなに恵まれてて、ええんじゃろか?・・・ 」

 2人の仲が、こんなに急に進展するなんて、とても想像できなかったらしい。

「なに、言うてるん?」
 早智は、そんな不思議そうな顔に、しっかりキスをしてやった。
そのキスに反応して、ヒロシのがまた、元気になった。

*  

「いつも夜遅うて、急に大学に泊り込む時もあるし、バイトとかで無理させとうないから」
 ヒロシの提案だった。一緒に住んだりはしなかった。

早智が、たまにヒロシの部屋に泊まるようになっただけで、2人が会うペースはさほど変わらない。

 ただ、早智は『ヒロシ』と呼ぶようになった。 


(五)

 大阪に出てから、早智は、ずっと実家に帰っていない。
さすがに成人式の時は、晴れ着や美容院の予約までしてくれた両親が、

「まさか、帰ってこねぇつもりじゃ、ねぇじゃろな!」
 脅され、懇願された。

「交通費も出すから!」 喜んで帰省した。

*  

 地元の短大に入り、父親のコネで早々に地元の金融機関に就職を決めていたミチコと、久しぶりに      会う約束をしていた。

 ミチコとは相変わらず頻繁に、メールや電話のやり取りをしている。
でも、ヒロシとの事は、『大阪で会った』としか伝えていなかった。

「あんなんと、おぅたん? オハライしとかなきゃ!」

 先に、そう言われてしまって『イケてないメンズ』との交際を言いそびれてしまっていた。
初めてヒロシとの事を報告した。

ミチコの顔が、ビックリマークになった。

「なんか、もったいないなぁ・・・」

 あいつなんかに・・・ と言いながらも喜んでくれた。


「今、私ここんとこ、ずっとカレおらんから・・・ 
うちの分も、その、ほのちゃんにお願いしてみてくれる?」


*  

 ヒロシは、成人式には帰らなかった。

「もう、住民票こっちだから・・・」
 結局、大阪でも式には出なかった。

 ヒロシの実家は、小さな薬局だった。
ヒロシが中学のときに亡くなったヒロシのお父さんに代わって、ヒロシとは年がひとまわり以上離れた    お兄さんが跡を継いで、お母さんと奥さんとで切り回していた。

 甥っ子は、もう来年小学生だ。

 将来戻る家もないので、大学進学をいい機会に大阪に出た。 薬剤師は目指さなかった。

両親が歳を取ってからの子で、歳の離れた兄にも、かわいがられて育った。

 ヒロシが放つイケてない感じも、醸し出す不器用なぬくもりも、家庭環境によるところが大きいんじゃないかと早智は考える。


 ヒロシのお兄さんは、毎月仕送りを律儀に送ってきてくれている。
お兄さんはお兄さんで、ヒロシを追い出してしまったと、引け目を感じているのかもしれない。

(六)


「去年もここで、お祝いしてくれたね」


 いつものファミレスだ。 ヒロシの誕生日。 今年もケーキを頼んだ。


「なんか能がない感じだけど、カッコつけんでも、ええよね。
まあ、うちらにとっては、ファミレスも贅沢な方やもんね」

「僕は、いつも同じファミレスでも嬉しいけど。 『継続は力なり』って言うし」

「それ、なんか違う感じ・・・」


「ねえ、夏休み、旅行に行かへん?」

「1泊ぐらいだったら何とかなるかな。あんまり遠いとことか、高いとこダメじゃけど。
どっか行きたいとこあるん?」

「一緒に、一度岡山へ帰らん?」

「えっ?」

「実家のお兄さんに紹介してよ。
カノジョ出来たって、自慢しに帰ろうよ。
岡山に随分帰ってないでしょ」

「なんや、旅行って、岡山に帰るだけか・・・」

「そう、泊まりは別々、でも宿泊費はタダ、うちも、たまには親孝行しなきゃ!」

* 

 帰省には、バスでなく新幹線を使った。
 仕送りの入金がいつもより多かったので、電話して聞いてみた。

【切符代だよ】
 甘えることにした。お母さん、ありがとう。


【1晩だけしか駄目なん? 父さんが『なんでワシが仕事でおらん日にするんじゃ!』って怒ってたんよ】

「夏休みは、実習とか、ガイヘルの仕事で一杯なん」

【あんたが頼りにされてんなら、せぇも、しゃぁないねぇ・・・】 それでも母さんは、声が弾んでいた。

母さんの声を聞いたら無性に家が恋しくなった。

* 

 最初に、駅前の商店街、ヒロシのお兄さんの店に顔を出した。

「早智さん。よく、こいつを連れて帰って来てくれたね。お袋も喜ぶと思うよ!」

 奥さんも優しそうな人だ。温かい笑顔で迎えてくれた。

「お袋、家で首を長ごうして待っとるよ。 はよぉ、行ってやんな!」

 ヒロシの実家には、ヒロシのお母さんと甥っ子が待ち構えていた。
玄関チャイムを鳴らすやいなや、甥っ子の、タケシ君が飛び出してきた。

「父ちゃんが、店にも顔出ぇて欲しいって。ヒロシおじちゃんじゃのうて、恋人のさっちゃん!」
 タケシ君に、ませた口で言われて、ヒロシは赤面している。

「お店は、さっきのぞいて来たわ。 ありがと!」

「3年ぶり・・・やっと帰ってきおったわ。女の子まで連れてるし。
ヒロシが、女の子を家に連れて来るやなんて、初めて・・・」
ヒロシのお母さんは、涙を流さんばかりだ。

「スイカが好きじゃて、聞いとったけん!」
 大きな1玉を、丸々冷やしてくれていた。

「悪りぃ事しおったら、ちゃぁんと、叱ってやってね!」

 んなこと、するわけないじゃろ・・・ 
ヒロシは、むきになってお母さんに言い返していた。

『よかったら晩御飯も・・・』と言われたが、今日は家に戻りますんで・・・ と辞退する。

 ちょっと、残念そうな顔をして、
「そちらのお母さんじゃって、首を長ごうして待っとるよね。 引き止めたらダメじゃね」

 また、遊びに来てつかぁさい・・・ 
ヒロシのお母さんは、深々と頭を下げた。

「ごちそうさまでした。 ありがとうございました」

「明日朝、迎えに行くけん」
ヒロシが耳打ちした・・・ うん。


「ヒロシと仲良うしたってね、ずっと・・・」
 帰る背中に、ヒロシのお母さんの祈るような温かい声。

早智は振り返って微笑んだ。 

 ヒロシを連れて帰ってきて良かった。 本当に良かった。

* 

 駅に戻って電車で2駅、早智は実家へ向かった。

駅からの帰る道筋、『中島』の表札の前を通った。
高3の通学の時は、その道を避けていた。 成人式で帰省した時もまだ、通る勇気が無かった。

 近くの公園、大きな桜の木から降りかかる、セミの声のシャワーに包まれた。

 大丈夫だった。 全然、大丈夫だった。

もし今『中島先輩』が家から出てきても、きっと笑顔で『久しぶり!』くらい言えそうだ。 


 今頃、どうしてるんだろう・・・ でも、どうでもいいと思った。
ただ彼らしく、何処かで頑張っていてくれれば、それでよかった。

      *

「一樹、ずいぶん女の子泣かしてるみたいなんよ。早智からも、ちょっと説教してやってね!」
母さんが、一樹の浮気性を心配している。

家に連れて来るカノジョが、コロコロ変わるらしい。

「まあ、モテナイより、ええんやない?」


「あんたも、大阪で変なのに引っかからんでよ」

「大丈夫。一樹みたいなんは相手にせんから。明日、ちゃんとカレシが迎えに来るけんね」

「岡山まで来るんかい? まさか突然、『お嬢さんをください!』って言うんじゃねぇじゃろね!」

「違うの。高校の時のクラスメート。 カレも今、岡山に帰ってきてるん」

 なんだ、手ごろなところで間に合わせてるんだ・・・ 一樹がチャチャを入れる。

「チャラチャラした、あんたなんかと違うん!」
一樹をひと睨み、

「一樹、あんまり女の子の気持ち弄んでたら、今にシッペ返し喰らうんよ。
殺されんように気ぃつけや!」


 夜、ミチコが来た。

パジャマと着替えと洗面道具も持参だ。 キーンと冷えた缶ビールも数缶持ってきていた。

「今夜は、寝かさへんよ!」


*  

「それじゃあ、ヒロシさんによろしくね」

 翌朝、ミチコは何事もなかったように西村家から出勤した。


 しばらくして、ヒロシが迎えに来た。

玄関先で母さんに紹介した。

一樹も玄関に出てきた。 変に緊張して挨拶していた。
「こんな姉貴ですけど、よろしゅうお願いします」

 ヒロシは家には上がらずに、早智もそのまま、大阪へと出発した。


*  

「あの辺も、ずいぶん変わるらしい・・・」

 電車の窓から見渡せる田んぼの中、その見慣れた田舎の景色に、いささか不釣合いな建物群が出現していた。
山の稜線さえ見下している入道雲に、果敢に勝負を挑んでいる。
 
昔、国道沿いにポツンとあったスーパーが、以前の10倍位の大きさに建替えられ、              そのスーパーと駐車場を共有する、そのスーパーのさらに3倍位ある巨大なホームセンターが聳えていた。

その並びに、ハンバーガー屋や、DVDレンタル屋の建物もオープンを待ち構えている。
その近くにまだ、電気屋、牛丼屋、紳士服屋、本屋、そしてドラッグストア等の出店計画が目白押しらしい。

 へー、そうなん・・・ 

ヒロシの説明を、軽く受け流して聞いてしまった。


「おかげで、駅前の商店街が、対策に苦慮しとるらしい」

ヒロシの実家の店は、その商店街だ。

「大学院まで進むんは、無理かもしれんな」

 視線を、オープン間近のDVDレンタル屋の車内広告に移して、ヒロシは、深くため息をついた。

(七)

 早智も、ヒロシも、もうすぐ4回生になる。

 早智は在学中に、ガイドヘルパーのほかに保育士の資格も取っている。 
だが、今の不況で、大阪で正社員としてのまともな就職は競争率が高く難しい。
実家に話せば、当てにできそうなコネもありそうだが、今、岡山には戻りたくはなかった。

「卒業しても契約社員の形でよければ、ヘルパー、このまま続けて欲しいな」
 『ぼんご』の三島さんは言ってくれている。

 契約社員で給与は安いけれど、一応保険は利くらしいし、やりがいがある仕事だから           『ぼんご』で続けていても良いのだが、早智には働きたい場所があった。
『徳心園』という、発達障害児のための保育施設が、来年度新卒を募集していた。
秋に採用試験がある。
 
『ぼんご』を利用する子のうちにも、『徳心園』の子がたくさんいた。
ほのちゃんも、そのうちの1人なのだが、ほのちゃんのママが絶賛している保育施設だ。
他の『徳心園』に通っていた子の保護者の方からも、みんな、感謝の言葉は良く口にするけれど、        悪口を聞いたことがない。

ただ、通っている大学での評判は、
『とにかく仕事がきついので、同じ給料なら普通の保育園の方がずーっといい』と、人気は低かった。

 でもきっと、やりがいはあるはず。

『ぼんご』の三島さんは、早智の希望を聞いて、
「さっちゃんなら、きっと受かっちゃうだろうな・・・」
 残念がっていたけれど、
「でも、『ぼんご』での事が、きっと役に立つはず!」
とも、付け足してくれた。

「万一、落ちたら、いや、辞める事になったら、また、戻ってきてね!」

*  

 3月の初め、ヒロシは、世間では名の通った会社の就職内定を、あっさり決めてきた。

「僕に、営業なんてできるんかな・・・車の免許も取らんと」

 営業マンにもかなりの専門知識が必要な職場らしく、配属予定の部署は、理系出身者ばかりらしい。

 ヒロシの内定が決まった時、

「すごいやん! お祝いしなくちゃね!」
 早智は、単純に喜んだ。

「ヒロシ、誠実な感じやから、営業の受けもええんやない!」

 うん、まあね・・・ 
ヒロシは、他人事のようにブルーな感じだ。
* 

 春休みから、ヒロシは自動車教習所に通いだした。内定先から指示があったらしい。
3ヶ月かかって、ようやく仮免にこぎつけた。

「運転、僕には向いてねぇな。これから、ずっと仕事で車乗るのかと思うと・・・
仕事より、運転だけで疲れてしまいそうや」
 あまり運転センスは無い様で、路上教習もまだまだ時間がかかりそうだ。

「運転なんて慣れなんやない? じきに慣れてナンてことなくなるよ、きっと!」

 また、憂鬱そうな顔だ。
そんな顔されると、早智にまで、どよぉ~んとした気分が感染してくる。


「そうだ、今度のヒロシの誕生日は学校もバイトも休みにするから、ユニバーサルでも行こうか?」


 2人とも大阪に来て、まだUSJに行ったことがなかった。
お金も時間もない2人だから、2年も付き合っていたのに、丸1日どこかで、のデートは           数回しかない。

ヒロシの趣味に合わせると『邪馬台国』がらみで、まあ、お金は掛からないけれど、             早智にとってはツマラナイ。

「気晴しに、パーッと遊びに行こっ! 一度くらい行ってみようよ! U・S・J」


* 

 大阪で、劇的にカッコいいカレシと、結ばれるかも知れない。

大阪へ来たばかりの頃、ミチコにそう言われてから、早智は一応御守のように、いつもコンドームを      持ち歩いていた。
だが、初めてヒロシの部屋に泊まった夜、それは必要なかった。
ヒロシは、一度も女性とは付き合ったことが無かったはずなのに、部屋にコンドームをちゃんと備えていた。
今も、冷蔵庫の一番奥にしまっている。


「大阪に出るとき、『備えあれば憂いなし』って、兄さんが店のやつ持たしてくれたんだ。
卒業するくらいまでやったら、消費期限は大丈夫」

 そんなのに、そんなんあるの・・・知らなかった。

 ヒロシはずっと、その度に、ちゃんと避妊してくれていた。
ところがこの前、コンドームをつけない夜があった。

「ああっ、忘れとった、ゴメン、ちゃんとせなな・・・」

 避妊を忘れるなんて、ヒロシらしくない。 おかしい。

 就職の内定が決まってから、変に陽気だったり、ぼんやりしていることが多くなった。
早智の話を、いつも、しっかり受け止めてくれていたヒロシなのに、最近『えっ、何じゃったっけ?』と、     聞き返すことが増えている。

 気が進まないんなら、内定断わって大学院に進んだら?・・・ だめなん?


「もう兄ちゃんには、迷惑かけれんからな・・・」

 今も奨学金を受けてはいるが、バイトは、たまの休みに出来る短期を探すだけ、生活費は、ほとんど      お兄さんの仕送りからまかなっていた。

 実家の近く、国道沿いにドラッグストアが、ついにオープンした。

『うちは、処方箋中心じゃけん大丈夫、気にするな』
 お兄さんはそう言ってくれているが、ヒロシが小さい頃から通っていた店近くのよく処方箋を出す医院、   先生はもうすっかりおじいちゃんで、後継ぐ人がいないそうだ。
化粧品や生活用品も、厳しくなるだろう。

 今までの仕送りでさえ精一杯なのは、ヒロシには痛いほどわかっている。


(八) 

【明日の夜、合コン、いってもええかな?】

 授業終わりのベルを待っていたかのように、早智のケータイが鳴った。
ヒロシからの電話だ。
ヒロシと同じ会社に内定が決まった人から『親交の意味も込めて!』 と、お誘いがあったらしい。

『マメそうなやつだった・・・』まだ学生なのに、自分の名刺を配っていたと。

「別に。行ったら、ええやない」
 ちょっと嬉しそうなのが、気に入らないけど。

「次の日、USJだからね。 あんまり飲みすぎんでね」

【女房妬くほど、亭主モテもせずってね】
 そっちの方は、これっぽっちも心配してへんよ。バカみたい。

 ヒロシとの通話を終えたら、またすぐ、ケータイが鳴った。
今度は『ぼんご』の三島さんからだ。

【さっちゃん、突然だけど、アサッテ入れない?】

明後日って・・・ ヒロシの誕生日の日だ。

「授業は入ってませんけど、でも・・・」

【昨日、ほのちゃんのママが『めまい』で倒れたらしいの。
救急車で運ばれたんだって。
今日も、まだチョイチョイあるらしくて。
明後日、大学病院でCTとかの予約がとれたから徹底的に検査したいって、ほのパパが 】

三島さんの、いつもの早口だ。


【で、学校へ迎えに行って欲しいの。
学校へは『ガイヘルさんが迎えに行きます』って連絡しておいてくれるって。
ほのちゃんのランドセルの脇に、家のカギぶら下げとくんで、
で、家の玄関に着替え置いてあるから着替えさせて、行き先はお任せ。18時くらいまで】

三島さんは、一気にそこまでしゃべると、息をついた。

「ちょっと、メモします、時間とか。もう一回お願いします」

 三島さんとの電話は、いつもこんな感じ。 寄り切られて、早智の負け。


 合コンとか言って、案外楽しそうな声やったし・・・ ヒロシごめんね。

ほのちゃんママの一大事やから、許してね。

*  

 その日の夜だった。

 せっかく、休みとれたのに・・・ 
ヒロシは、USJ行きが流れてさすがに膨れっ面だ。

「僕って、ほのちゃんには、かなわんのかな・・・?」

 そんな、ほのちゃんと比べてどうするん・・・ 次元が違うやない。


「初の合コンデビュー、明日、しっかり遊んでくれば!」

「そうやって、カノジョに励まされるってのも、情けんよなぁ・・・」
 そう言いながら、いつになく乱暴に覆いかぶさってきた。

・・・・・・・・・・・・・・・ 
・・・・・・ 確信犯だった。 避妊してない!

 許せん。 子供できたらどうすんの?
ちゃんとしてって 前にもお願いしたわ。

「・・・・・・ ああ、ごめん」

なんで!・・・ 
『ちゃんとせなな』って、言うとったのに。

「・・・・・・」 

 なに、ポケーっとしとるん! 無性に腹が立ってきた。

「うち、ずるずると、できちゃった結婚なんてやよ! ゼッタイ、いやっ!」


 ヒロシは、黙っている・・・何も言えへんの。卑怯者!

「もう、終わりにする!」

早智は、さっさと服を着た。

「就職が決まってから、ずーっと! ひがみっぽくて、ウジウジして・・・
大学院に残りたいんやったら、借金してでも残ったらええやない! 
実家に悪いとか、子供ができて仕方ないとか、そんな理由つけて、ごまかしたいだけやわ! 
そんなんに利用されとうねぇわっ!」

 ヒロシは、パンツで前を押さえて、ボーッと突っ立っている。

「そのまますっぽんぽんで、合コン行ってきたらええねん!
その方が新しいカノジョできるんとちゃう! さよならっ!」


 ドアをバタンと閉めて、部屋を出た。

 原付を飛ばした。涙が耳の方へ流れていく。


 見損なったわ。 別れたっていい、あんなやつ。


一生、大学院に残れなかった言い訳にされたら、生まれてくる子がかわいそう。
 そんなん絶対許さない。

 もし、今日のんで赤ちゃんができたとしても、早智一人で育ててやる。


(九)

 コンビニで買ったパンで簡単な昼食を済ませ、原付を『さくら坂』のほのちゃんの家の駐車場に置き、     学校へ向かった。

 ほのちゃんは、先生と一緒に校門の前で待っていた。
原則としては保護者じゃない人間が、学校へ迎えに行くのは駄目らしいけれど、今回は特別、先生からも
『よろしくお願いします!』 と頼まれてしまった。

 ランドセルの脇にぶら下がっていた鍵で玄関を入ると、籠に入ったほのちゃんの着替えと荷物、メモがあった。

『西村さんへ 制服を着替えさせたら、一度、トイレ行かせてください。
今日、少し風邪気味で鼻ズルズルしています。よろしくお願いします。
帰り、17時30分位にT駅かK駅か、その周辺あたりなら迎えにいきますので、
一緒に乗って帰ってきてください。その頃にうかがっている携帯へ電話します。
何かありましたら今日は父親の方の携帯へ連絡ください。090-XXXX-XXXX 』

*  

「ほのちゃん、またちょっと、おハナ出てる。 拭こうか・・・」

 携帯のティッシュがもう無くなってしまった。

「ほのちゃんのハンカチ、今日はおハナ専用にしとこね。
手、洗った時とかは、早智のハンカチ、貸したげるね」

 今日は、ジャスコで過ごそうか。 

 休憩ベンチで水筒のお茶飲んだら、外出用のおこずかい使って、ラムネ菓子のクレーンゲームしようね。
ほのちゃん大好きで、いつもジーっと覗きこんでるやつ。


 雨、降らんかったらいいけど・・・

 雨の中、『さくら坂』から原付で帰るとなると、憂鬱だった。
空全体を覆う、どんよりとした雲が、だんだん重さを増したように感じる。
今にも泣き出しそうだ。

 あれから、ヒロシから連絡はなかった。早智も連絡しなかった。

 このまま、終わってしまうんかな・・・

 ほのちゃんの無垢な視線を感じた。
すると、ほのちゃんが歌を口ずさみだした。

「♪クーモーリードラー ファクーナァーアーッ」

 ほのちゃん、それ大塚愛? 音程しっかり合ってるね。 
何の曲か、早智、わかったよ。

『♪泣くなーっ』て言ってくれてるの?  ほのちゃん。

 今までヒロシと、まともな喧嘩はなかった。

 早智が、頭が痛かった時だ。
「『バッファリン』か何か無い?」

「あれは『バッファリン』やなくて、『バファリン』て言うんだ。『イブ』ならあるよ」

「人が、頭痛いのにどっちでもええやない!」

・・・そんなのを喧嘩と呼ぶなら、その程度だった。

 きつい事を言ってしもたし、それだけでも謝っとこうか。
誕生日メールだけでも、送っといたほうがいいかな。

 迷って・・・『誕生日おめでとう』 と、形だけメールした。


 あっ! ほのちゃんがおらへん!

 しまった、また油断してしまった。 どこやろ。 


 あっ、おった!・・・ 

 靴屋さんの前だ。
大人用のサンダルを履いて、ご機嫌に走っている。

 カツカツ・・・

「危ないでぇ・・・ こけちゃうで・・・」

と、胸に『おおの』とプレートをつけた優しそうな男性店員さんが、まったり注意している。

ほのちゃんは、お構い無しで、まだ、カツカツ駆けている。

「ほのちゃぁーん! 歩きますっ! 止まりますっ! ・・・きをつけッ!」

 ほのちゃんは立ち止まって、『キオツケ!』 と、小さく声を出して、キオツケをした。


 脱ぎ捨ててあったほのちゃんの靴を、先ほどの店員さんが拾って、手渡してくれた。

「すみません、ありがとうございます!」

 ほのちゃん、サンダル脱いで。こっち、靴、履いてちょうだい・・・ 

 ほのちゃんが脱いだサンダルを、店員さんに返した。
真っ赤な、キラキラのビロビロが付いたサンダルだった。

 ほのちゃんって、趣味悪いんやね。

 ほのちゃんを促して、休憩用ベンチにまた座った。

 おハナ、少し出てるよ、拭いとこうね・・・ ごめんね、早智、ちゃんと仕事するね。
 
ほのちゃんが、無垢な瞳で見つめ返してきた。

「♪アイタイッ ハラ アイニィークゥー」

 今日は、大塚愛メドレーやね。大塚愛好きなの?

 逢いたいから、会いに行く・・・

 今夜、ヒロシに会いに行こう。もう一回ちゃんと話してくる。 
そうするね、ほのちゃん。


 着信のメールが来ていた。 ヒロシからだ。
さっきの誕生日メールの返信。ほのちゃんを追い掛け回していた時、来ていたんだ。

気付かなかった。

『メールありがとう。嬉しかった。
 この前は、ごめんなさい。
 さっちゃんと、このまま終わってしまったら生きていけない。
 合コンなんか行く気になれなかった。
 ずるい自分が情けない。 さっちゃんの言う通りだ。
 子供ができてしまったほうがすっきりするなんて考えていた。
 許して欲しい。
 大学院にどうしても残りたいというわけじゃなくて、働きに出るのに自信が無かっただけだ。
 さっちゃんに言われて気がついた。 ウジウジ甘えていた、許して欲しい。
 卒業して、ちゃんと働いて、落ち着いたら結婚して欲しい。
 ぼくは、さっちゃんを一生守る。 約束する。
 ちゃんと結婚したら、今度こそ2人で子供を儲けよう。 』
『儲けよう』って・・・ なにそれ。

『そんな大事なこと、ちゃんと顔見て言って!』
と、早智はメールを返した。

 すぐケータイが鳴った。ヒロシだった。
【今、どこにいるの?】

「K駅の近所のジャスコ」

【何時ごろまでいる?】

「5時すぎ」

【すぐ行くから! 待っとって! ちゃんと顔見て言うから! 
ほのちゃんもおるんじゃろ。ちょうどいい。立会人になってもらおう。 今すぐ行くけん!】
 ヒロシは、それだけ言うと通話を切った。

 
 早智は、通話が切れた後も、しばらくケータイを耳に当てていた。
ほのちゃんが、早智を見上げている。

 立会人にされちゃうよ、ほのちゃん・・・ 
イケてないねぇ。

 ジャスコでプロポーズだって・・・ 
イケてないよねぇ。ねえ、ほのちゃん。


 雨、降らんかったらいいけど・・・

 オンボロの自転車を、一生懸命こいでいるヒロシの姿が浮かんだ。

 早智の目から涙がこぼれた。 温かい涙だった。


ほのちゃんの、つぶらな瞳が、ツーっと近づいてきて、早智の涙をハンカチで拭きだした。

 あぁ、ありがとう・・・ 

ほのちゃんやさしいのね。


「あぁっ、でもそのハンカチ、さっき、おハナ拭いたやつ・・・」


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