見出し画像

ジャーゴンにされた「伝道」と「社会活動」 -クリスチャンプレス・石橋秀雄氏インタビューを読んで-

 弁護士や医師のような専門職の人々や、宗教者からヤクザに至るまで信条や「生き様」を共有する人々は、同質性が高く、排他性を持った共同体(ギルド、セクトなど)を形成することが多い。その構成員は、外部で通用しない専門用語や隠語などの「ジャーゴン」を内部の結束力を確認し合うために、しばしば互いのコミュニケーションに用いる。ジャーゴンには、外部の者が聞いても全く意味の分からない語もあれば、一般用語としても存在するが、ジャーゴンとして特別の意味や、一般社会と全く違う意味が付された語も存在する。それゆえに、ジャーゴンを用いたコミュニケーションは一般社会から誤解されやすいので、ジャーゴンを用いる共同体に属する者は、通常は共同体の内と外でジャーゴンと一般的な表現を慎重に使い分けるのが普通である。一方で、明からさまに一般社会でジャーゴンを使用する者もいる。そういう者が所属する共同体は、たいてい一般社会に対して権威、権力、反社会性を誇示したいか、内部のカルト化が進み、その成員が一般社会との差異が認識できない状態にあるかのどちらかである。

 7/4から連載されている、クリスチャンプレスによる日本基督教団総会議長・石橋秀雄氏の一連のインタビュー記事(*1)を見ると、彼の属する日本基督教団(以下、教団)の、さらに教団政治上のセクト(派閥)の一つである、俗に「教会派」と呼ばれるグループのジャーゴンは「伝道」と「社会活動」であるようだ。彼らは、もともと1960〜70年代に現代社会の様々な課題とキリスト教や教会との関わりを模索する当時の教団のあり方に背を向け、敗北感で結束した集団に端を発する。その後、この集団は自らのルサンチマンな心情をバネに徹底して政治的に振る舞った挙句、1990年代後半に教団の権力を奪取することになるのだが、その過程で、キリスト教界や宗教界で一般的に使われる「伝道」や、一般社会で広く用いられる「社会活動」は、彼らの中で特別の意味を持つに至った。

 「伝道」は通常は類義語の「宣教」や「布教」と同じく、自ら奉ずる信仰上の教えを伝え広める、くらいの一般的な意味しかない。しかし、彼らにとっては、彼らが目の敵にする諸活動を排除し、彼らの理解を超えた社会事象には沈黙し、ただ教会堂の中で、講壇の高みから厳かに宣べ伝えられるものだけが「伝道」であるらしい。また、「社会活動」は文字通り、人間が社会参加して社会のために行う活動全般のことを指すのだが、彼らにとって気に食わない「教会と社会の関わり」のみを糾弾するためのスローガンと化しているらしい。一般的な「社会活動」の理解からすれば、彼らの属する教会も含め、キリスト教の教会が伝統的に設立、運営に深く関わってきた多くの学校、幼・保育園、医療・福祉施設、NGO/NPOは「社会活動」以外の何物でもないのだが。ちなみに、石橋氏は自身が牧師を務める教会の付属幼稚園長を40年以上も務めている立派な「社会活動家」である。

 石橋氏は今回のインタビューで、教団政治に精通している者でもなければ、一般の読者はおろかキリスト教他教派の読者にすら理解不能な「伝道」「社会活動」の特殊な用法を十分な説明もなく、超教派的なキリスト教メディアという「公共性の高い場」で用いた。本来、牧師という言葉を用いることを生業とし、教団総会議長という組織を対外的に代表する人物であれば、公共性の高い場での言葉遣いは誤解を生まぬよう、より慎重に、丁寧に行うのが普通である。それを、寛いだのか油断したのか知らないが、ジャーゴンを用いて大放談したのは極めて無責任な行いである。これによって、教団の現実離れした姿、誤ったメッセージが内外に広がり、教団の「虚像」へのあらぬ期待を生んで大きな失望につながったり、教団内外の誠実な人たちを必要以上に傷つけることになれば、さらに責任は重い。これまでの石橋氏の教団総会議長としての振る舞いを見れば、もはや多くのことを期待できないことは明らかだが、少なくとも自身の職業倫理と役割に照らして、自分が口にする言葉くらいには、責任が持てるように「成長」していただきたいものである。勇ましく伝道を語るのは、その成長を遂げてからでも遅くないのではないか。

(本稿は筆者が2020年7月8日にFacebookに投稿したものを転載したものである。)

*1. 「【インタビュー】日本基督教団総会議長・石橋秀雄さん(1)「社会活動家ではなく、伝道者になるんだ」」(クリスチャンプレス 2020年7月4日付記事) https://www.christianpress.jp/ishibashi-hideo/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?