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猫に日報をやらせてみたい。

猫は芸を覚えない、という話がある。

大道芸やサーカスで行われる芸は、すべて猫の「クセ」を利用したものだ。まず、猫で芸をさせようとする者は、子猫を大きな部屋に集める。そこには様々な器具や遊び道具があって、子猫は楽しく動き回る。ロープを渡る猫、ボールに乗る猫、まったく動かない猫など、思い思いに過ごす猫たちを観察しながら、芸になりそうな「クセ」を持つ猫を選び出すのだとか。あとは餌や褒めを使ってそのクセを出すタイミングをレッスンし、それを芸としてみせる。逆に、猫のクセにない動き(芸)は教え込もうとしても、決して猫は覚えないそうだ。

本当かどうかは知らないけれど、猫だけにさもありなん。

人間も同じだったら、ずいぶん社会はシンプルになったと思うけれど、万物の霊長たる柔軟性により、かなり融通が利く。適切な訓練さえ行えば、運動嫌いがスポーツ選手になることも、苦手な人に自然な笑顔をつくることも、左利きさんが右手用の道具を巧みに扱うことも、可能だ。

とはいえ、やはり合う・合わないは有る。生理的に受け付けない人とか、見るのも嫌な食べ物とか、どれほど必要でもやりたくない業務とか。

僕がまず思いつくのは「日報」だ。一日の最後に、今日の業務と成果を上司に報告するアレだ。

社会人の1社目と、独立前の会社でこの日報に取り組んだけれど、結局最後まで僕には合わなかった。イヤでイヤで仕方がない。湧き上がる嫌悪感に自分でもビックリするぐらいイヤだ。日報のメールを打つだけで2時間以上ディスプレイとにらみ合ったこともある。多少の業務より日報を書く時間が多いってどうなの。本当に意味がない。

そもそも、アレ、いる?

社員の一日を把握して、改善すべきポイントを洗い出し、必要な部分は助言し、日々のPDCAを回すとかナントカ。そりゃ意義は分かる。しかしそれが適切に回っていたことはなかったし、何より「見張られている」感がどうにも肌に合わないのだ。もう時効だから言うけど、前職を辞めた理由の6割ぐらいは日報があったからだ。もし日報がなかったら、僕はまだサラリーマンだったかもしれない。

ただ、これほどハッキリ嫌い、と思うことには、僕の中に何か原体験と言えるようなものがあるのかもしれない。

常に見張られていた幼少期とか、報告を義務付けてネチネチ粗探しをするバイト先の店長とか、日報をネタに脅してくるブラック企業の上司とか。

・・・。

ないわ。ぜんぜん心当たりないわ。ただ日報が嫌いなだけだし、見張られている感が合わないだけだわ。

でも、こういう些細なことを通して、自分への理解を深めていくんだろうね。自分がやりたいことを探せ、とか自己啓発本は言うけれど、その前に自分がイヤなことを探した方が自分が分かる。なんてまとめようとしたけれど、うまくまとまんないわ。(今回のnoteは猫の話がしたかっただけです)


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