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躊躇ない天せいろ注文と山本周五郎

3ヶ月くらい前から、週末の休みに特段予定がなければ、お昼は決まった蕎麦屋さんに行っている。前置きするが、ガチガチに決まったルーティーンがあるのではない。インディペンデントなお店が好きなわりに、どこに入ってもガチガチに緊張してしまう私にとって、馴染みやすい個人店を発見したら必然的に頻繁に通うようになってしまうのだ。寄生虫のようである。

その蕎麦屋さんの店構えにはこれといった特徴はなく、引き戸を引いて入ると、奥行きがある長細い小綺麗な空間が広がっており、カウンター手前のレジ台には凛とした生花が飾ってある。BGMには意外にも、情熱的で激しいアコースティックギターの音楽が多用されていることに最近気づいた。席に座ると、さっぱりとした印象のバンダナを巻いた女性の方が、自然体で温かいほうじ茶を出してくれる。もちろん仕事として接客をしてくださっているんだけど、力みを感じないから自然体に感じる。僕は接客の仕事をしていたとき、ガチガチの接客体勢に入って、お客様の前では不自然の塊と化していたから、何てことないことこそが本当にすごいと思う。奥の調理場から店主さんであろう方も顔を出してくれる。そこまで口数が多くなさそうな方だが、はにかむ笑顔がいつも爽やか。お二人は多分、ご夫婦で、正直、冒頭で書いたように、このお二人が積極ではなく消極でもなくニュートラルに親切に接してくださることが居心地よくて、いつも来てしまう。

もちろんお蕎麦は絶品で、特にせいろが好き。キリッとした辛めのツユに蕎麦をくぐらせて、つるつるっとすすり、蕎麦のしつこくない、絶妙な弾力を噛み締めていると、鼻腔の奥のほうで蕎麦の香りがほのかに立ち上って消えていく。せいろを食す楽しみは個人的に2段階あると思っていて、まず蕎麦とツユというシンプルを極めた組み合わせのキレを味わい、その後、ほのかに一瞬で過ぎ去る蕎麦の香りを、感覚を研ぎ澄ませて探る。(適当言っています)食通ではないし、蕎麦をたくさん食べ比べたことはないけど、このお蕎麦屋さんはその2段階が爽やかに凛と感じられて好きだ。

最近、そこで値段高めの季節の天ぷらが付く天せいろを躊躇なく頼んでいる自分に気づいた。昨日の天ぷらは海老とアスパラのかき揚げだった。海老とアスパラにあえて一体感を出さずに、個々が大ぶりで主張してくるのが素晴らしく美味しい。ああそうか、俺、食べることに、今の生活で一番、幸せを感じているのかもしれない、と気づいた。大学生の頃、高級料理屋で食べる同学年の女性が投稿するInstagramを見て、内心つばを吐きながらマックのハンバーガーを貪っていた自分に諭したい。食べること、おいしいこと。これほど老いても変わらず、比較的簡単に幸福を感じさせてくれるもの無いんじゃなかろうか、って。

今は山本周五郎『暗がりの弁当』を読んでいる。あるエッセイで曜日別の食事一覧を書かれていて、周五郎さんも散歩をしたあと、お昼に蕎麦をよく食べたようだ。意外だったのは、そのなかで朝食には毎日、ハム、エッグス、トーストと並んでいて、洋食パン派であること。てっきり硬派にごはんと味噌汁とかだと思っていて、すみません。

これはうまそうだと思うと、すぐさまかみさんに作ってもらうが、乗り物に乗ってどこそこまで喰べにゆく、という気持になったことはない。偶然ある店へはいって、うまい料理にぶっつかると、飽きるまでその店へかようけれども、私は根がけちだから、その店も料理の品名も決して他人には教えないのである。

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