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十年前にうしろめたい

足の悪い祖母が、フキをいただいたお返しに、コウザブロウさんの家へ缶ビールを渡してきてくれと言う。田舎のコミュニティにはよくあるであろう、いただきものには必ずお返しものの文化だ。ぼくは気が進まず、あいまいな返事で口を濁す。コウザブロウさんは、幼なじみの女の子のおじいさんなのだ。その子は小学校の同級生で、中学校に入学してから不登校になった。そして中学1年か2年のときに僕はその子から告白されたことがある。今のところ人生で2回だけあった、異性から好意を示されるという貴重な体験のうちのひとつだ。

22歳にもなって何を過敏に意識しているのだと思う。けれど、もし缶ビールを渡しにいって、その子がでてきたらどうしようかと考えると、一人でどぎまぎしてしまうのだ。もう10年は顔を見ていないし、中学校で不登校になってから何をしているのか全くわからない。知っているのは、その子はずっと実家にいるという噂だけだ。

夕方に祖母がもう一度、ぼくに頼みにきた。さすがに今度は祖母に申し訳ないという気持ちが大きくなったので、缶ビールをコウザブロウさんの家に渡しにいくことにした。自転車に乗って、田んぼに挟まれた道を駆け抜ける。今の時期の田んぼは水を張っているので、夕日に照らされて空を反射し、一面、鏡のようだ。大学1年生のときに何かのイベントで会った以来、ほとんど親交のない友人が卒業旅行でウユニ塩湖にいったときの写真をフェイスブックに載せていたなあと思い出す。

コウザブロウさんの家につき、インターホンを押す。なかなか応答がない。車もないし、留守かなと思った瞬間、胸が軽くなる。想像以上に緊張していたことに気づいた。

そしてなぜ嫌な予感は的中するのだろうと思う。いや良いことが起きたときには事前の予感など関係なく自分の力ゆえと思いこむくせに、嫌なことが起きたときばかりなぜ霊的なものと結びつけようとするのか。ぼくは傲慢である。沈黙のあとに、中から若い女性の声が聞こえてきた。「どうぞ〜」と言っている。

玄関の引き戸を開けると、かろうじで10年前の面影を把握できる女性が立っている。絵に描いたような驚きの表情を浮かべている。ですよね、と心の中で苦笑いしてつぶやく。「かっちゃん、ひさしぶり」とひさしぶりに聞くなまりの強いイントネーションで言われて、ひさしぶりにぞわりと寒気が走る。まるで十数年前のようだし、今の僕はサイトウである。自然と大学時代のアルバイト中や初対面の人に話すときの敬語と引きつった声で返答する。その子は昔と比べて幾分か不健全な印象を受ける容姿になり、地元の人らしいなまり口調で自然に話した。僕とその子の言葉のギャップがなぜか心をえぐる。手短に会話を終わらせ、缶ビールセットを渡し、そそくさと帰った。

昔の自分が思い出されたときに吹き出す、うしろめたさ。これはなんなのか。後悔とは全く違うし、今の自分に「こんなはずじゃなかった」と落胆するのともちょっと違う。少し思い当たるのは、「昔の自分の期待に応えられていない」罪悪感だ。例えば小学生の自分は集団にいれば率先して先頭に立つタイプで、自分の善を微塵も疑わず積極的に行動し、また、自分の明るい将来も疑わなかった。それが今はどうだ、どちらかといえばウジウジと、それこそ昔の自分のような人間を、妬むような人間に育った。それはそれで、楽しく恵まれた日々を送っているとは思う。けれど、昔の自分に対して他人のようにうしろめたい。

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