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敬語からタメ口に移るタイミングわからん

他人との距離をふと意識しはじめたときには、敬語からタメ口への移り方がわからなくなっていた。あれ、今の友人たちとは赤の他人同士からどうやって仲良くなってきたのだろうか? そんな疑問が頭をもたげるほど、昔は自然に安々とできていたことが、今は難しく、やろうとすれば、ぎこちない。

例えば、思い返すと中学生のときは、そもそも同級生同士で敬語を使うことはなかった。言葉が友情の始まりを取り持つのではなく、空気が友情を繋いでいたからだ。ある空気を持った集団に自分が近づいていき、少し緊張しながら飛びこむ。自ら発する言葉数は少なくても、そこにいるうちに、集団の空気に自分の空気がどんどん馴染んでいく。気づいたら違和感が消え、友情が芽生えている。プールに飛び込むと最初は冷たいが、そのうち平気になる。そんな自然な反応のように、あれよあれよという間に、友だちを作ることができていた。

しかし高校、大学とステージが上がるにつれて、友人を作るのも難しくなっていった。特に大学生になったときは決定的に今までの環境と何かが違った。大学に入って1ヶ月たって、知り合いはできても、友だちが一人もできなかったのだ。注意深く相手との距離をソロリソロリつめていき、自分の空気を出していこうとするうちに、相手は去っている。知り合いから友人へ、敬語からタメ口へ、移り変わる間もない。なにも相手が自分と長い時間をかけて仲良くなっていくことを望むわけではなく、また相手と自分が長い時間一緒にいることを強制するような装置、つまり教室やクラスのようなものはここには無いのだと気づくのに半年かかった。そして周りを見渡してみると、すでに入り口もわからないような集団ばかりだった。

ぼくは敬語が諸悪の根源なのだと思いこんだ。いつのまにか敬語が自分に染みこんで、抜けなくなっている。初対面の誰かと話すときはいつも無礼にならないように敬語を使う。しかしそのまま敬語を使っていると、相手と距離がある。じゃあ敬語からタメ口へ、どこかで変えるしかない。だが、その境界線はどこに? 探してみるが見当たらない。一度、無理やり敬語からタメ口に切り替えて女の子と話してみた。無理してるよねと見抜かれ、一笑にふされた。たぶん相当ぎこちなかったのだと思う。

敬語は他人と自分を隔てる壁だ。壁が自分と一体化してしまった以上、ぼくがこれから新しく気の置けない友人を作ることは不可能なのではないかとすら思ってしまう。残された手段は手術して敬語を取り除く、例えば敬語がない言語を覚えて、その国に住むことくらいだろうか。まあ、ハードルが高すぎて、現実味がない。

しかし敬語をお互いに使いあうままでも人は他人と深い関係を築けるのだと希望を抱く機会が、最近あった。それは『人生フルーツ』という映画を見たときだ。

この映画は、大規模団地のなかに土地を買い、家をつくり、雑木林を育て、庭では自家農園を営む老夫婦のドキュメンタリーだ。滋味豊かに映る2人の暮らしは見ているだけでこちらの心まで潤い、多幸感がある。そしてそんな2人の暮らしの背景が紐解かれていくうちに、自分の生活や人生を再考させられる。個人的にも胸を打たれる映画だった。

そして印象的だったのは、夫婦という親密な関係でありながら、この2人はお互いに緩やかな敬語で会話をしていたということ。全ての会話が敬語というわけではなかったけれど、例えばお互いの名前を呼ぶときは「〜さん」だし、文末は「でしょう」「ですね」「ですよ」など、ですます調が多かった。この敬語が2人の声質もあいまってか、ほっこり柔らかい。ぼくの敬語のような、堅苦しさや疎遠さは微塵もなかった。

親しみはありながらもお互いに相手の領域は侵害しない、心地いい距離感を保ちながら生きているように見える2人の関係。そのあいだを取り持つのが、この柔らかな敬語なのだとぼくには思えた。タメ口の関係性は距離が近すぎるがゆえに、お互いに体重を預け、お互いに負担を強いることにもなりうる。そう考えると、敬語だってなかなかいい言葉遣いじゃないか、と希望を抱けた。

ひいては、ぼくが取り組むべきは敬語をタメ口へと半ばやけくそで移行する努力ではなく、堅苦しい敬語の角を時間をかけて削って丸くしていくことだろう。ほどよい距離感をうみだす、柔らかい敬語を使えるようになりたい。


でも本当に大事なのは敬語、タメ口など、言葉に意識を向けることじゃなくて、目の前の人に意識を向けることなのかもなあ……。

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