歴史に学ぶときの心持ち

紀元前に起きたローマとカルタゴの戦いを中心に現代でも活かせる学びを考察しています。

紀元前のカルタゴの名将ハンニバル・・・その知謀とメンタルが神がかっていて寒気すらします。これは私がここでとやかく説明するより是非とも読んでいただきたい!と思います。

そんな感じで本書を読みつつ、ハンニバルに惹き込まれつつも、戦争で万の単位で人が死ぬ描写を見ながらふと違和感を覚えます。

人の価値、やすくない???

人が死ぬだけでなく、何千人単位の捕虜、何千人単位の奴隷が発生します。そして、ハンニバルがスペインからアルプスを越えてイタリアへ入って快進撃を続けるのはよいですが、補給のために各地を略奪していくわけです。

時代は紀元前なので人権の概念などあるはずもありません。しかし、戦争で死んでいった人たちにも家族がいて,想う人もいるわけです。無敵のハンニバルが輝いているだけではありません。

一方のローマも今の日本だと考えられないシステムを持っています。
それは敗戦の将が罰せられないということです。もし敗戦の将が責任をとることになれば,負けた理由がその人の属する組織の特性に帰着され(たとえば,貴族出身だからだ、とか平民出身だからだ、など)、その組織ごと非難される元となりうるからです。たとえば陸軍将校が負けたら陸軍が悪い、海軍が負けたら海軍のせいだ、といった世論が起こる感じでしょうか。そして、これにより世間の分断がおこり、社会不安定になるわけです。

でも逆に、罰せられなければ再建のチャンスがあり、生きている人はモチベーションを高く持て、社会の分断をさけられます。だから万の人の命を失った罪がトップにあるとしても罰せられないのです。

たしかに罰しないことにメリットがあるのが仮にわかったとしても、やっぱり人が死んでいるのに上が責任とらないってどうなの??って思うわけです。やはりここも人権の概念がないからかなと思ったりします。

つい過去の英雄の話を聞き、その武勇伝に心惹かれるわけですが、それが人の命を踏みにじることをベースに成り立っているのであれば、今の私たちの生きる術としてそのまま活かせるわけでもないのかもと思ったります。あるいは活かそうとするとむしろ危険な方向にいくのかもしれないなぁと思います。

歴史から学ぶというのはもう少し背景的な状況や概念的な隔たりも込みで考える必要がありそうだなと思います。



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