なんでも屋さんは,ダメ?

私は研究開発の仕事をしていますが,関わっている製品は色々,製品の開発フェーズも色々。関わる人たちも色々なチームと色々な人種。製品開発以外にも社外とのコラボとか,部内で研修をとりまとめたりとか。

結構いろいろ関わっていて,マルチタスクでやっているよね,と肯定的に言われることもあります。これはしかし私にとって,決して肯定的なものとしてとらえていませんでした。

どちらかというと,否定的で「結局何屋さん?」というはっきりしたものが構築できていない感覚です。悪く言えば器用貧乏。

昨今,世の中一般を見渡せば,スポーツや芸能の世界で研ぎ澄ました「個」の方が注目されるので,自分はその意味だとふわふわしている感じがあるなぁと思うことがあります。

ただ,何度もこれを克服するべく専門に特化した勉強に取り組んだりもしましたがイマイチ気分がのらないのです。結局これは嫌われる勇気でいうところの,あなたはあなたのライフスタイルを,自ら選んでいるのかもしれません。

そして,ライフスタイルを変えるには勇気が必要です。色々なことを捨てないといけないためです。

そんなリスクを冒して,勇気をもってそのライフスタイルを変えるべきなのかどうか。変えたいのか,変えたら幸せ??

そんなことを思っていたわけですが,昨日本屋さんに行ったとき面白そうな本をみつけました。それは以前,いつも聞いているPodCastで紹介されていた本でした。

役割にこだわらずなんでも屋になる
著者からみるイタリア人はどうも分業が下手。効率的に分業するよりも手の空いている人が,その作業をすると言った形式で仕事をするようなのです。レストランでは,料理係,ドリンク準備,接客,会計を店員同士であらかじめ決めていない節もあるようで。

効率重視の日本だと考えられないことです。しかし,イタリア人の性質としてその仕事の全体像が見えなければ労働意欲が下がるようで,結果なんでも屋さんになる選択をするのです。当然サービスや製品が質的にもまちまちになるものの,これが均一化されていない,豊かな差異に満ちた世界を醸成し,またそれを強みとしているのです。

この点が私にはピンときました。
何かに特化したものではなく,色々しつつそのプロセスを楽しむというのが自分の性質にあっているのかも。むらがあったとしても,それが「らしさ」になって喜んでもらえればそれでいいかなと思うわけです。現状,仕事に支障がないように細心の注意をはらいつつも色々なことに関わって大いに学びたいと思っています。そして,その過程で色々な人に関われることが自分の幸福感につながるのかなと思います。

わがままであってはならないと思うのですが,自分が演じられることを演じて周りを巻き込む。そして,評価いただければそれでいいのかなと思います。それが自分にとってはマルチに色々することであり,ある人にとっては専門に特化することなのかもしれません。

どっちかいいか悪いかの問題ではないのかもしれません。
とはいえ私はどちらかというと合理主義者なのでイタリア人の例ように非効率を許容するのはできないのですが。。

自分の意欲の源泉がどこにあるか。
今日はイタリア人に教えてもらった気分です。

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