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【書き起こし】『よこがお』×深田晃司監督

活弁シネマ倶楽部です。
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ロカルノ国際映画祭正式出品『よこがお』を深田晃司監督が語る!!活弁シネマ倶楽部#38

(森直人)始まりました。活弁シネマ倶楽部。この番組のMCを努めます、映画評論家の森直人です。どうぞよろしくお願いします。というわけで、今回のゲストをご紹介したいと思います。『よこがお』の深田晃司監督です。どうも。

(深田晃司)どうもよろしくお願いします。

(森直人)満を持して登場でございます。深田さん。いやもうほんと、スタッフ一同、心よりお待ちしておりました。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)僕個人としても、とにかく深田さん早く出ないとという感じになって、まあ本当、嬉しいです。お久しぶりでございます。

(深田晃司)お久しぶりです。

(森直人)それでは映画好きなら誰もが知っている深田晃司なので説明不要かと思いますが、簡単に監督のご紹介をさせていただきます。深田晃司監督。1980年生まれ、東京都出身。映画美学校フィクション・コースに入学し、習作長編『椅子』などを自主製作したあと、2005年、平田オリザさんが主宰する劇団青年団に演出部として入団。2006年、バルザックの小説をアニメーション化した『ざくろ屋敷』を監督。2008年には『東京人間喜劇』、2010年『歓待』、2012年、映画の多様性を創出するための互助組織「独立映画鍋」を有志数人と設立し、現在、共同代表理事でございます。2013年『ほとりの朔子』、2015年『さようなら』、2016年『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞されました。2018年、インドネシアを舞台にした『海を駆ける』、同年でフランスで芸術文化勲章シュバリエを受勲と。これは僕は素直に驚きまして、盛り上がりました。すげえ。

(深田晃司)いや、自分もびっくりしました。なぜって感じですけど。

(森直人)作品のノベライズも手掛け、『淵に立つ』と『海を駆ける』は書籍化されて、大活躍でございます。今、ざっと言った以外にも、深田さん、いろんなことやってるし、作品も実は撮ってるし、常に動き回ってる印象なんですよね。

(深田晃司)そうですね。なんか、幸いというか、結構濃い毎日を送らせてもらってますね。

(森直人)休んでないでしょ。

(深田晃司)休みほしいですね(笑)

(森直人)(笑)今、『よこがお』の宣伝中なんですけども、その間にもなんかさっき聞いたら『東京裁判』の再上映のパンフの原稿書いたりとか。

(深田晃司)そうですね。書いてます。

(森直人)そう。それで我々何度もご一緒させてもらってるんですけど、前にご一緒したのがバリー・ジェンキンスだったかな。『ムーンライト』の一般試写のトークを二人でやらせてもらって、それが2年数カ月前。

(深田晃司)あれもう2年前ですか。

(森直人)そうそう。

(深田晃司)あっという間ですね。

(森直人)まあいろんなことやられてる...。

(深田晃司)はい。ほんとにもう、1年ぐらい前な感じだったけど。

(森直人)それから『海を駆ける』を経て、今回の『よこがお』を拝見したんです。いやすばらしいですね。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)僕、深田さんの作品の中でもこれ好きです、すごい。

(深田晃司)ありがとうございます。それは嬉しいな。これ最新作が評価されるのは本当作家としてはやっぱり嬉しいので。

(森直人)やっぱり新作ごとに、積み重ねてますよね。深田さん。実は劇場パンフレットにも僭越ながら作品評を書かせていただきまして、これから読まれる...。

(深田晃司)そうですね。ありがとうございます。映画館で買われますし。

(森直人)ドキドキなんです。もう本当『淵に立つ』で章江役を演じた筒井さんともう一度がっつり組みたいというところから『よこがお』始まったというふうに思うんですけども、なんかね、僕、いきなりちょっと核心部分に入ってよろしいですか。

(深田晃司)はい。

(森直人)『よこがお』のなにが好きかというと、捉えがたいところなんですよね。まさに作品としても、うまいこと言うなじゃないですけど、いろんな『よこがお』を見せる映画だなと思って、それをすごく意識的にやられてると思います。今日はどこから話をしたらいいか、すごい悩んだんですけども、やっぱりこれかなと思って。ミラン・クンデラの『冗談』。これ最初のクンデラの長編小説ですよね。1967年。今、岩波文庫出てるんですけど、僕が持ってるのはこのみすず書房版で、これが深田監督、『よこがお』の着想になったと。

(深田晃司)そうですね。パンフにもそう書かせてもらってますけど。

(森直人)これ実際『冗談』の映画化として見ると、もうね、見事。

(深田晃司)ほんとですか。

(森直人)ため息出るぐらい、すごい、すばらしいバリエーションだなって思ってるんですよ。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)いつ読んだんですか?

(深田晃司)読んだのは...結構最近なんですよ、『冗談』自体は。『よこがお』の企画が始まる2、3年前ですね。4年ぐらい前。

(森直人)それはなんのきっかけだったんですか?

(深田晃司)いや...ミラン・クンデラは読まなきゃっていう作家の一人では当然あるんですけど、人から薦められて、友人から。「たぶん深田くんこれ好きだよ」って言って渡されて、自分の映画結構ずっと見てくれてる友人から渡されて、「じゃあ読んでみるよ」って言って。プレゼントされたんで、それで読んだらこれ面白いぞっていう。

(森直人)それはすばらしい。結構ほんと、元になってますよね。

(深田晃司)そうですね。なんか元々いろんなことがもう混ざり合っていて、筒井真理子さんと映画を作りたいっていうのは、『淵に立つ』のプロデューサーの方とまたやろうって言ったときにもう主演は筒井真理子さんだっていうのは決めていて。それで最初はプロデューサーのほうからは、『めぐりあう時間たち』っていう映画があったと思うんですけど...。

(森直人)ヴァージニア・ウルフのやつ?

(深田晃司)そうそう。あの現代とヴァージニア・ウルフの当時の三人の女性の運命が絡み合うみたいな、そういった映画をなんか作ろうみたいな、作れないかっていう話を受けて。じゃあ考えてみますって感じでやり始めたんですけど、最初は結構群像劇みたいな感じ、イメージだったんですけど。それからせっかく筒井真理子さんとやるってことは決めていて、本人からも、もうありがたい話なんですけど、脚本書く前にオファーをしてオッケーをもらっていて。筒井さん当て書きって形で市子というキャラクターを書いていたんで、じゃあもうやっぱり自然と筒井さんにフォーカスしていこうってことで、また話が変わっていったんですね。その中で、もうどういうきっかけか忘れちゃったんですけど、このなんか入れ子構造にしていこうってなったときに、この『冗談』の構成っていうのが、いろんな人間の証言を通しながら現在と過去が交錯していくってところを結構参考にしながら、これはちょっと一回映像やってみたいぞっていうのがあってって感じですね。いろいろ混ざり合ったって感じです。いろんな企画が。

(森直人)なるほど。だからいろいろ混ざり合ってるってことなんだな。ちょっと説明をすると、『冗談』っていうのは共産党員の青年ルドヴィークっていう主人公の、いろいろ出てくるんですけど、主軸になってるのは彼の転落劇なんですよね。同じ党員の恋人に軽い冗談のつもりでなんか変なはがきを送るんですよね。

(深田晃司)ちょっとチェコ共産党を揶揄するような手紙を送ったんですよね。

(森直人)トロツキー万歳。

(深田晃司)でしたっけ。

(森直人)そうそう。そういうやつを送って、そうしたら恋人のほうは真に受けて、その手紙が問題視、炎上するような形でルドヴィークは同志に追っ払われてしまう。

(深田晃司)友だと思っていた友人から追っ払われるっていう。

(森直人)そうそう。で、『よこがお』は筒井さん演じる市子っていう訪問看護師の転落劇になっている。

(深田晃司)そうですね。

(森直人)さっき言ったルドヴィークのトロツキー万歳みたいな、そういう政治思想的な冗談にあたるものが転落のきっかけになった。これちょっとお楽しみってとこがあるんであやふやに言いますけど、セクシャリティーの問題、これちょっとすごいお聞きしたかったんです。

(深田晃司)ああ。ねえ、それなんでなんでしょうね。これもよく、こういう脚本の発想源がどこかって、すごいいつもなんか「うーん」って悩んでしまうんですけど。多分、まず転落ってことに関していうと、最初のイメージは『冗談』っていうよりは、『西鶴一代女』とか。あるいはこれも転落って言っていいのかわかんないけど、『浮雲』みたいな女性の生き様か。これも転落とは言えないけど、やっぱり『こわれゆく女』みたいな。やっぱり女性の一つの生き様を描くみたいな映画っていうのは自分好きなのが多くて、そういってただ女性をじっとこう捉えるようなもので、しかもどんどん流転していくようなものっていう。こういうのをやりたいって思ったところが多分スタートにあって、『冗談』だとそれがすごい政治思想の行き違いっていう、本当に60年代、70年代だとあちこちで暴動が起きたんだろうなっていうようなことが題材になってるんですけど。それがセクシャリティーの問題になったっていうのは、なんでなんでしょうね。でもやっぱりそれが今のこの2019年にとっての一番ものすごい大きなトピックですよね。
多分こういうのはフェミニズムの問題とか、そういったことが絡んでくるんだと思うんだけど、やっぱり今すごく過渡期にあると思っていて。ずっと人間社会って、ほぼあらゆる地域で例外的な地域もあることはありつつ、もう何千年と、ようは男社会、男性社会ってのがずっと続いてきた中で。やっぱりあらゆる社会の仕組みとか慣習とかそういった価値観みたいなものは、基本的には男社会の中、男社会であることを前提にして組まれている、女性観みたいなものに関して言っても。そういった中で言えば、フェミニストの運動なんてたった100年しかないわけで、ここ。言わば、ずっと不均衡であったバランスがここ100年で急速にそのバランスを戻そうとしている中で、多分逆に、履いていた下駄を外されそう担っている男性が反発とか、いろんなことが起きている過渡期だと思うんですね。例えばMe tooの運動とかそういったもので、まさにここ数年で一気に爆発してきてるって気がしていて。そういった中で今、自分の中での、クンデラがその当時チェコで共産党の問題として扱ったものが、多分ジェンダーの問題とか、そういったことのほうが多分すごい今日的なテーマなんだろうっていう風に思ったんじゃないかなと思うんですけど。脚本書いてるときは必至なんで、もう連想ゲームなんですけど。

(森直人)いや、今、「なんででしょうね」って言いながら明確じゃん(笑)

(深田晃司)そうですね。

(森直人)いやでも僕そうだと思ったんですよ。つまり本当、60年代、政治の季節で転換点になるのはイデオロギーだったけども、今、ある種の政治的な問題はなにかって言ったときに、やっぱり性の問題であるってことですよね。

(深田晃司)そうですね。LGBTも含めてですね。

(森直人)そうですよね。全て。先ほどおっしゃった溝口『西鶴一代女』、成瀬『浮雲』、カサヴェテス『こわれゆく女』っていう並びも、いわゆる男性優位社会の中で出て来た女性の壊れゆく悲劇だと思うんですけども、それをどう2019年に落とし込むかっていうところのチャレンジが多分ここにあるんだろう。

(深田晃司)だからそういった意味で溝口なんかも結局、高貴な立場であった女性がある男性と恋愛をしたことによって、疑われたことによってだんだんと破滅されて、だんだんと水商売に戻ってみたいな話が描かれてるし。カサヴェテスの『こわゆく女』なんかもやっぱ専業主婦なんですよ。ようは家庭の中で専業主婦が心を病んでいくみたいな話になっていて。やっぱりそういった社会の...やっぱりその話に対する共感みたいなものあって。多分女性をどう描くかっていうことに関して、自分は男性だからどうしても男性目線でしか描けないっていう制約はやっぱり大きいんですけど、やっぱりなんか二つの大きな流れがあるのかなと思っていて。まずは社会の中で女性が置かれてる立場の残酷な現実みたいなもの。『西鶴一代女』にしても『近松物語』もそうですよね、溝口の。成瀬の『浮雲』とかも全部そうだと思うんですけど、そういったものをある意味みつめるような作品っていうのと、あるいは70年代以降とかで多分増えたんだろうけど、やっぱり強い女性を描く。ウーマンリブじゃないですけど、強い女性をあえて描いていくっていうような姿勢で、その女性の権利っていうものを社会に示していくっていう。

(森直人)今もその流れありますもんね。

(深田晃司)ある。多分そっちのほうがどっちかっていうと主流なのかなって。

(森直人)主流ですね。

(深田晃司)別にそれ自体否定する気はないんだけど、MARVELものとか結構好きで、拝見してるんですけど、とにかく女性が強いっていう。これでもかとばかりに。あれもあれで全然、ずっと何千年とあった男性社会の不均衡を一気に100年で戻そうとするゆえの、ある種のバランスのとり方なんだなと思うんですけど。でも、やっぱり2019年でも令和の時代になっても、やっぱり女性の立場が強かったってのは、例えば医大で当たり前のように女性の受験生がマイナス10点になっていて、みたいなことが当たり前のように起きているのが現代なわけで。やっぱり女性が弱い立場に置かれているのは間違いなくて、やっぱりどっちを見せていくかですよね。その強い女性っていうのを示していくか、その現実をありのままに描こうとするかっていう。やっぱり自分が関心があるのは、現実をありのままっていうほうが関心が強いので、こういう書き方になるっていう感じになるのかなと。

(森直人)そう。それで市子を訪問看護師っていう設定にしたのは、そこに絡んでることなんですか。

(深田晃司)いや、それについてはなんかいろんなイメージがあったんですけど、やっぱり『淵に立つ』っていう作品で、筒井さんがあれの場合、娘が重い障害を負ってしまって、それを介護している母親っていつもあって。やっぱり、献身的に介護する筒井さんの姿っていうのは、すごく自分の中では印象的で。多分そのイメージがまずあったのと、あと今回の企画プロデューサーの方と、大体映画っていうのはプロデューサーの方と企画書いたり脚本書いたりするんですけど、今回のこともすごい主体的にいろんな企画を、企画プロデューサーとして関わってくれた方の実体験とかもいろいろと聞いたりして。それで訪問看護っていう設定に行きついていったって感じで、一番最初のスタートの地点から訪問看護師っていうわけじゃなかったんですね。なんかいろいろと、こういうの難しいです。脚本の変わっていく過程って本当にもう粘土をこねくり回しているような感じで、もうあっちでもないこっちでもないって、足したり引いたりしていくうちに、なんか気がついたらこの形になっていたっていう感じなんで、明確にどのタイミングでこの設定が出てたってのがあんまし覚えてないですね。

(森直人)でもその...結果的に形になったものはすごく、ある必然を帯びていると思うんですけども、僕が思ったのは、できあがったものを見て思ったのは、訪問看護師さんって他人の家に入るじゃないですか。それで『歓待』とか『淵に立つ』っていう、闖入者っていうモチーフが深田監督の作品には何度か出てきてるという。それは家に入る、ある家族の平穏を破壊する男性キャラクターっていうのがあの2作品では、攻撃的なのか遊撃的なのかわかんないけど、いたと。それを今回、反転させたように見えたんですね。

(深田晃司)確かに。

(森直人)つまり介護の必要、(『よこがお』の)大石家ですよね。それを助け、平穏を支えていたはずの女性キャラクター市子は「あなたが家族を破壊した」っていう濡れ衣によって、逆に破壊されるっていうのは、さっきおっしゃった男性、女性っていうジェンダーがあるから、社会、男女反転の構図と通じてる話なのかな。

(深田晃司)そうですね。確かに闖入者が多いっていうのは結構いろいろ指摘されて、言われてみればそうだなって思ったことが多いんですけど。今回の作品については、多分全然視点を変えれば、恐らく例えば『淵に立つ』における浅野忠信さんや、『歓待』の古舘寛治さんみたいな、突然やってきてその秩序をかき乱していくトリックスターみたいな闖入者、実は立場はこの筒井真理子さんであるかもしれないんですけど。そういった意味ではそっちの立場の側のほうにずっと寄り添いながら作っていくっていうのは自分の中では初めてだったので、そこらへん、やっぱり被害者と加害者っていう観点でいうと、やっぱりどうしても映画ってのは被害者の側のほうに寄り添いがちというか、物語というのはそっちに行きがちなんですけど。今回の場合はその被害者と加害者の境界を曖昧にした上で、その加害者の側の立場になってしまった人間がこうしていく中で、自然と今までやってきた闖入者の構造が反転していったんじゃないかなっていう気がしますね。

(森直人)過去の、だから深田さんの作品が積み重ねているなってそういうことなんですよね。『海を駆ける』もディーン・フジオカさん扮する正体不明の男も、ある種闖入者のバリエーションかなっていうふうに思って、ただ優しい闖入者というか、あれを経て、今回はだから、男性的な闖入者も反転させてるし、さっきおっしゃったように、この市子においては加害者、被害者の構図も反転していく。だからちょっと僕、「あー」と思ったのは、被害者には世間は優しいけど、加害者っていうレッテル貼られると助けてくれないっていう。これはもうね、本当リアルなところですよね。そこは結構ポイントではあった?

(深田晃司)多分それは、今回物語を作っていく過程でどこかでそういう加害者と被害者の問題ってのがモチーフとして浮かび上がってきて、じゃあそれをどう描いていくかっていう過程の中で、やっぱりこういったときにはもう結局作り手がどういうふうにそれを見てるかっていうところが反映してこざるを得ないと思うんですけど。やっぱりああいう報道見てると怖いですよね。なんかその、なにが怖いかって、とくにインターネットが普及したことによって、すごいそういう面が露呈するようになったなと思うんだけど、やっぱりなにか起こるとみんながすごい正義の側に立つっていう、簡単に。やっぱり言わばなにか起きると犯人や加害者っていうのはものすごい攻撃されるわけで、もちろんそれは道徳観としては非常に正しいし正論だし間違ってないんでしょうけど。でもそこにあるなんかちょっと怖さ、薄ら寒さみたいなものは、それを非難してる人たちがあまりにも「自分はその側には立たない」っていうようなすごい確信をもって人を非難するっていう。もしかしたらいつか自分はそちらの側に転落してしまうかもしれないっていう不安感、恐怖心が全くないのか、あるいはあるからこそ隠そうとしてるのか。そこらへんは多分人それぞれなんでしょうけど、やっぱりそういったなんか人間の怖さというか、ある意味それが面白さなのかもしれないんですけど、そういった自己防衛みたいな形で加害者を糾弾することによって自分を高みに置こうとする、安全地帯に置こうとするっていうのは...そういったものはちょっと映画の題材としては面白いですよね。面白いって言ったらなんだけど。

(森直人)でも深田さんはメディア論的なことで正義の暴走みたいな、正義イコール、ニアイコール悪意の暴走みたいなことを描いたの初めてかな?

(深田晃司)えーっと...ここまである意味、明確なモチーフとして描くのは多分初めてです。『歓待』のときで言うと、いわゆるある地域、コミュニティの中に異物が入って来たときに、地域の安全を守るという形で、地域の住民たちがその人たちを排除しようとするっていうのを描いていて、それもやっぱり近いものあると思いますけどね。

(森直人)そうですね。言われれば確かにそうですよね。

(深田晃司)ちょっとなんか、話の中で付け足すと、多分そういったことが起きてしまうのって...基本的に「私たちの社会、私たちの生きる平和、世界は秩序があるものである。その秩序がある、よどみなく均衡が保てるっていうのが正しい状態なんだ」っていう世界観に立ってしまうと、そういった混乱や排除、混乱やそういったものを過度に恐れるようになってしまうと思うんですよね。でも一方で、現実社会ってそんな自分にはコントロールしえないような、そういった暴力とか自然災害とか実際そうだし、そもそも人間、人が二人いれば、隣の人がなに考えてるのかわかんないわけで。やっぱりそういった自分にはコントロールできない、なにか得体のしれないものと付き合いながら生きていかなくちゃいけないのが、本来の世界の姿だと思っていて。そういったものをそうじゃないっていうふうに立ってしまうと、スタートラインで、多分移民の問題にしても難民の問題にしても、それらを排除すべき混乱、混乱をもたらすものというふうな発想になってしまうのかなっていう怖さが、ネット社会だとより顕著になるっていう気はしますね。

(森直人)ですから僕は、秩序と混乱っていうところにグーッと持っていくと、クンデラも恐らく本質的にはそういうことを書いてると思うし、あるいは『歓待』って僕、本当グローバリズムの寓話みたいなことだと思ってるんですけども、そことも実はつながることなんですよね。だから全部の問題が実は入ってるっていう言い方もできる。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)いやでも、これちなみになんですけど、『歓待』でずっと、『淵に立つ』もそうなんだけども、前にお話させてもらったときに、「あの闖入者、もちろん『テオレマ』ですよね」みたいなこと言ったんですけども、いや、パゾリーニ好きだけど『テオレマ』実はそんな好きじゃないみたいな...。

(深田晃司)ああ、そうそう。言いましたね。

(森直人)実は『歓待』の闖入者のヒントになったのって、つげ義春さんの『李さん一家』だって聞いて、えーって思ったことがあって...そうなんですか。

(深田晃司)あのマンガ好きで、あれそうですね。今おっしゃられたことの繰り返しになっちゃうんですけど、パゾリーニは本当に大好きで。どんだけ大好きかっていうと、パゾリーニのおかげで自分は蓮實重彦と距離を置けたというか。これを言うと蓮實さんに怒られちゃうかもしれないんだけど、やっぱり自分も中高のときからすごい映画評論の本とか読むの好きで。やっぱり読んでたの淀川長治さん、山田宏一さん、蓮實重彦さんとか...。

(森直人)『映画千夜一夜』と。

(深田晃司)そう。もう『映画千夜一夜』から入って...暉峻創三さんとか、やっぱりあの時代の人たちってすごい好きで読んでいたんですけど、まあすべからくあの時代の人たちって蓮實さんの影響力がものすごい強くて。たくさん読んでいく中で、蓮實さんの肯定する作品はなにか、蓮實さんの否定する作品はなにかみたいなものにものすごい囚われ始めるっていう、「あれ、ウディ・アレンめっちゃ面白いと思ったけど、蓮實さんはめっちゃ悪く言ってる」みたいな話とか。

(森直人)(笑)インテリア貶してる!みたいな。

(深田晃司)そう。でもなんかウディ・アレンに関してはちょっとわかる気がするっていうのは自分の中であって、好きなんだけど。でもやっぱりそのある意味ものすごい...オリジナリティのあるというか、ものすごい偉大な書き手であるからこそ、その偉大さ故に読み手に対する抑圧ってのもものすごい強い。やっぱり文章もものすごい圧の強いものだし、そういった中でやっぱりパゾリーニってコテンパンに書いてるんですよね。

(森直人)蓮實さんそうですよね。

(深田晃司)そう。毎回ワーストの常連で。

(森直人)確かに。

(深田晃司)でもやっぱりこれは絶対面白いっていう、なので自分の中では確信が持てる作家だったんで、そのおかげでちょっと距離が取れた。

(森直人)パゾリーニをきっかけに。

(深田晃司)そう。そんなことがあったんだけど、『テオレマ』に関しては、なんかちょっとあの家族になんか...あまりにも図式的すぎる気がして、そんなに盛り上がれなかったってのがあったって話なんです。

(森直人)もっとほかの作品...好きな作品、パゾリーニの他になんて言ってたんだっけな。深田さん。

(深田晃司)いろいろありますけどね。

(森直人)意外なものを言ってた気がするんだよな。後期の...。

(深田晃司)ああー、『アラビアンナイト』か。

(森直人)『アラビアンナイト』か。

(深田晃司)『アラビアンナイト』最高ですね、もう。

(森直人)それこそ蓮實さんワーストの1位にしてたよな。

(深田晃司)ワーストの1位でしたよね、あれ確か。あの当時は。見てました。本当。やっぱりワースト1位だっていう。

(森直人)(笑)なるほどね。その意味でいうと、市子のモデルって、『冗談』のルドヴィーク以外になにかあったりします?さっき『西鶴一代女』とかありましたけど。

(深田晃司)モデルなんかあるのかな。なんか...やっぱり筒井さんから発想したってところあるので、モデルがなにかってのはわからないんですけど、今回の脚本に関しては、市子の動機に関しては、やっぱり筒井真理子さんに脚本書く前からオッケーをもらえていたっていうのがすごい大きくて。やっぱり脚本の書き手とか監督からするとものすごく広くて真っ白なキャンパスをもらえたっていう感じなんですね。自由なキャンパスを。やっぱりなかなか怖くてこれだけ書けないですよね。相当演じ手がうまくないとできないですし、単純に技術も必要だし、本当に全力で準備してぶつかってくれる人でないとできない、書けない役なので。こちらにしても筒井真理子さんで書けるってことがわかっていたので、これだけ追いこんだキャラクター書くことができたかなっていうのがあります。

(森直人)確かに追い込んでる。さっき『西鶴一代女』のときもおっしゃったじゃないですか。大人の女性なんですけども、僕の印象では無垢な少女に見えるんです。ある種、転落劇ってとこによりフォーカスすると。僕が思い出したのは、むしろ『散り行く花』とか、あるいは...。

(深田晃司)ああー、リリアン・ギッシュ。

(森直人)そう。リリアン・ギッシュ。あるいは、これは傾向映画ですけども『何が彼女をそうさせたか』、鈴木重吉の。あの転落と流転っていうのはあの二つの古典だと思うんですが、それはどう?

(深田晃司)確かにこれはもうどうしても、自分が結構(映画を)見てきて、ずっと一番多感な時期に見てきた映画ってのはそこらへんの古典映画だったので。こういうことこそ男社会の中での価値観なのかもしれないんだけど、やっぱりああいう女性の儚い転落劇みたいなものにはぐっとくるものがあるっていうところがあって。

(森直人)やっぱりそれが自然にワーッと出てきちゃってるっていう感じ?

(深田晃司)かもしれないですね。今指摘されて初めてなるほど、確かにリリアン・ギッシュのあの感じ。でもなんだろう。多分もしかしたらそれに近い感じなのが、とにかくどんどん彼女が追い詰められていくし、かわいそうな立場になるんだけど、それに対して市子自身はそんなに明確に抗議をしてないというか、ある意味文句がないんですよね。だんだん流れながら困ったなと思いながら、どんどん追い込まれていく感じ。困ったなっていう顔しながら。それがなんかリリアン・ギッシュだったりとか、そういったところに近いのかもしれない。なんか...望むと望まざると運命がどんどん回っていって、ある意味抗いようのないその運命が大きすぎて、もはや抵抗もしないっていう感じの。まあ彼女は抵抗しようとしてそれも全部空回りに終わるみたいな内容になってるんですけど。

(森直人)ですから、なす術はないっていうのは、さっき大人の女性だけど云々っていう言い方しましたけども、要するに社会性を剥奪されるってことだと思うんですよね、少女性に見えるってことは。それは一つだからリリアン・ギッシュ的なるものがあると思う。

(深田晃司)それはあるかもしれないです。多分社会性を剥奪するっていうのは、考えてみれば『淵に立つ』って作品でも結構それに近いことをやっていて。やっぱり、毎回手を替え品を替えなにを描いてるかって言ったら、「結局人は孤独だ」っていうことだと自分の中では思っていて。でも、じゃあその孤独をどう描くんだろうって思ったときに、やっぱりそれって、例えば砂漠にポツンと立ってるのを撮れば孤独を描けるのかっていったらそういうもんでもない。夫婦で隣にパートナーがいても、その人はそのときのほうが孤独感じることってあるかもしれないって考えたときに、例えば『淵に立つ』の場合は、家族っていう社会性をはぎ取って宗教もはぎ取って、そういった共同体に所属していない人の人間っていうものをとにかく映してるっていうことを多分やろうとしてたと思うんですけど。ある意味今回もバリエーションなのかもしれないんですけど、市子っていう登場人物がいわば人間は動物であると同時に半分は社会的な生き物でもあるっていう、その社会性の中で構成されている個性ってものが、その社会性みたいなものをどんどん剥ぎ取っていくと、ある意味社会性に所属する前の子どもみたいな状態に戻っていくのかもしれないですね。

(森直人)動物みたいなときもありましたね。

(深田晃司)そうですね。明確にしたら動物みたいなシーンってのがあるんですけど、これでも。それはお楽しみですけど。

(森直人)それで実はずっと市子って言ってるんですけども、実は映画では最初リサというほうで登場するんですよ。これがすごい面白くて、やっぱり僕ここで『めまい』、ヒッチコック。同一人物の女性が二人のヒロインとして、ダブルヒロインとして現れる。ちょっと『裏窓』っぽい感じもあります。池松さんを「覗く」っていう。

(深田晃司)あれはやっぱりもう映画ファンのフェチシズムですよね。

(森直人)あれは勝手に出ちゃったような感じですか。

(深田晃司)あれはやっぱりなんかもう脚本書いてると、ああいうなんか「覗く」とか、いわば窓枠のフレーム内フレームみたいなものっていうのは、どっかで入れようって。入れるからには脚本に絡めて合理的に入れようみたいな発想にはなっちゃいますよね。なんとなくいつも。

(森直人)なるほどね。それでそのリサに、さっきおっしゃった社会性を剥奪していったときに変身するわけじゃないですか。それはどういった発想で出て来たんですか。市子からリサへっていう。

(深田晃司)なんかとにかく市子がある種どんどん社会性を剥奪されていく中で、そこに対して彼女なりに一番抵抗するっていう。

(森直人)さっきちょっとおっしゃった抵抗の部分。

(深田晃司)はい。ただ結局、そういった抵抗だったり、このキャッチコピーに書かれているような「ささやかな復讐」という行為も結局全部空回りしていく。結局は諸行無常だなっていう感覚には持って行きたくて。その空回り感を出すために、なるべく変えたほうが面白いなっていうのはあって、この市子自身がなにか新しいものを演じようとしていて、ゲームのように復讐のほうに向き合っていって。でも本人はすごく真面目なんだけど、真面目であるが故にどんどん滑稽になっていくっていう感じがなんか出るといいなっていうのはあって、そこらへん、結構ミラン・クンデラの『冗談』に通じるテーマだと思うんですけど。

(森直人)ありますよね。やっぱり市子、リサっていうのが面白いですけど、ぐーっと下がっていったとき、ある種の抵抗、プレッシャーをぐーっと与えていって、抵抗勢力でリサに変身したっていうこの感覚。すごいよく出てたと思うんですよね。やっぱり筒井さん、さっき本当にすごい役者さんでないとできないっておっしゃったじゃないですか。本当これできる人いないんじゃないかなっていう。

(深田晃司)いや、なかなか難しいと思う。筒井さんのああいうすごい多面性というか、ものすごいコメディエンヌみたいな役も実は全然できる方。だけどこうやってガッと詰めてく役もやっぱりできるし、もちろん俳優さんだからいろんな役ができる人は当然多いと思うんですけど、どんなキャラクターでもとにかく全力でぶつかっていくっていう。変な言い方、シンプルな言い方になるんですけど、「うまい」ってことですよね。シンプルにやっぱり。

(森直人)市川実日子さん演じる基子って実はすごいキーパーソンで、セクシャリティっていう問題にもかなり関わってくると思うんですけどね。この基子ってキャラクターも必然的に出てきたって感じですか。

(深田晃司)これも脚本書く連想ゲームの中で、最初なんか女性の群像劇にしようって。市子と基子っていうのはもともと両方ともダブル主人公みたいなぐらいのイメージで書いていて、ただそのときには本当に企画の書き始めで。筒井真理子さんっていうイメージ、筒井真理子さん主演ってことしか決まってなかったときで、そこからガッと市子の物語にフォーカスしていこうって中でなってったんですけど。ただ最初になんとなく群像劇で二人ともなるべく立ってっていうようなイメージよりも、結果としてはある意味基子の存在感ってものすごい増したかなって思っていて。市子との関わりがどんどん密になっていったので、脚本書きながら。

(森直人)だからラブストーリーって言い方すると、市川さんもいるし池松さんもいるんだけども、この3人がいることで、非常に重層的な複雑なものになりますよね。それこそ本当はいろんな「よこがお」が見れるラブストーリーだっていうね。いやすごいと思う。でも深田さんってさっきもちらっとおっしゃったけど、10代のころから本当に古典映画ばっかり大量に見続けてきた人じゃないですか。

(深田晃司)そうですね。

(森直人)モノクロのほうが多いぐらい。

(深田晃司)モノクロのほうが明らかに多い。基本、自分が生まれる前の映画がメインフィールドみたいな感じでしたね。

(森直人)そうなんだけども、でもとくに最近だと思うんですけども、ご自身の作る映画はやっぱりすごい現代、今の時代とほんとガチで格闘してらっしゃると思うんですよ。

(深田晃司)そういってもらえると嬉しいです。

(森直人)そこはやっぱり意識されてることですよね。

(深田晃司)それは多分、現代の映画を作ろうって意識というよりは、やっぱり自分たちの生きる社会と地続きの映画を作りたいっていうものがあると思っていて。多分そこから、二つのイメージがあると思うんですけど、「とにかく普遍的なものを描きたい。100年後になっても残るような普遍的なものが描きたい」っていうような気持ちがまずあって、メインの核があるんですけど。ただ一方で、やっぱりカメラ、映画というのは今この現実の社会にカメラを向けて、三脚を据えて撮るものなので、絶対そこに立つ俳優もそこのカメラの三脚も、あらゆるものが、今の現代と地続きじゃないといけないって意識はやっぱりあるんですね。それは結構もしかしたら日本映画が、とくにここ2、30年苦手としてきた分野かもしれなくて...。

(森直人)うん。おっしゃる通りだと思う。

(深田晃司)これは単純に、別に特別なことっていうものではないと思っていて。よくあるあるで言われるのは、欧米から見ると、どうも日本映画っていうのは社会性が薄い、欠いてるように見られていて。言わばそれは、裏から見れば幼稚に見えるっていう。それこそやっぱり社会性を得る前の未分化の状態の少年少女だったりとか、そのメンタルのままで社会に出て行った大人たちの物語になっていたり、いつまで経っても「いつまで青春引きずってんだ」みたいな物語が多いっていう中で、でもやっぱり面白い、つまんないとかはまたおいとくとしても、例えばヨーロッパの映画とか見ていても、他愛もない少年少女の恋愛物語だとしても、そこに例えば貧困の問題とか差別の問題とかそういったものが、別に社会派の...ケン・ローチみたいにそれを社会の問題として描くってものじゃなくても、世界観のベースとして普通に描かれてることが多いんですよね。

(森直人)本当そう思いますね。そう。だから僕ね、深田さんのフィルモグラフィーを順に見ていくと、やっぱり『さようなら』からその感じが強くなった気がする。どんどん強くなってる気がするんですよね。『ほとりの朔子』とかは...。

(深田晃司)一応原発問題とか...。

(森直人)入れてるけど。

(深田晃司)一応絡んでますよね。

(森直人)でも...まだサブラインというか、結構ガッと押し出すようになったのって、やっぱ強くなってますよね。

(深田晃司)ああ、かもしれないですね。

(森直人)だからやっぱり意識が、ヨーロッパの映画祭とかに行く中で、世界はこっちが標準なんだっていうような意識が入って来たんですか。

(深田晃司)まあブレーキを掛ける理由がないっていうのがわかったのかもしれないですね。

(森直人)確かになんかね、それこそ前にインタビューでなぜ深田少年が古典映画に惹かれたかっていうと、むしろ古典映画に現代を感じた、リアルを感じたみたいなことをおっしゃってたんですよ。そのとき確か『ミツバチのささやき』の話をされてて、あれがやっぱり当時の10代の深田さんにすごい刺さった。それはリアルにも刺さったみたいな話をおっしゃってて...。

(深田晃司)『ミツバチのささやき』は本当に自分にとってはものすごい大切な大事な作品で、多分、中学3年のときに、父親がたまたま映画好きで、家にVHSビデオが何百本もあって。ケーブルテレビ、結構早い時期にBSとか入ってくれたんですね。映画が見れる環境があって、それで多分NHKのBSの深夜枠だったと思うんですけど、『ミツバチのささやき』がやっていて、見て、やっぱりそれまで自分が見ていた映画とあまりにも違うっていうふうに興奮したんですけど。やっぱり多感な10代だったんで、「世界とはなにか」とか「人間とはなにか」っていう、ある意味、今よりももっとセンシティブに感じてる時期で、言葉にしたら中二病なのかもしれないんだけど、やっぱりそういう時期だったんですよね。『ミツバチのささやき』ってのが、少女がある意味幻想にとらわれていく。映画で見たフランケンシュタインを森の妖精と信じていて、そこに内戦で傷付いた兵士がいて、そのフランケンシュタインと思い込むっていうような、非常に絵本のようなかわいらしい話でありながら、やっぱりそこにあるのがものすごく残酷な世界認識と人間観で、結局そこはその主人公の家がミツバチの養蜂家なんですよね。そこに対するミツバチの、ミツバチの営み、ある意味虫としての自由意思があるのかないかもわからないような、でもある種規則性に沿ってずっと生活をしているミツバチの営みっていうものと人間の営みっていうのを重ね合わせられていて。それを『ミツバチのささやき』の場合は本当に一切そういう説明的な台詞とか関連的な台詞とかなしに、その主人公たちの住んでる家が蜂の巣の、窓が蜂の巣の形をしているっていう、それだけで示してしまうっていうことに「うわっ」ていう。「映画ってこんなことができるんだ」っていうような興奮を得て、人生を踏みあやまるっていう。

(森直人)(笑)いやいや、だからそこから今があるんだと思うんだけど、だから、ほんと古典映画と現代性、リアルをどうつなげるかっていう主題が、どんどん深田晃司という映画作家を読み解く核になっていると思うんですよ。それも射程の長いリアルですよね。やっぱその遅延性というか、だんだん効いてくるみたいな。しかも古典映画を教養のベースに置きつつ、現代の問題を描くって、実はヨーロッパの映画作家ではある種王道ではあるんですよね。

(深田晃司)まあ、そうですよね。

(森直人)そこと同じところに深田さんはちゃんと乗っかって勝負しているっていうのがやっぱり大きいなと思ってるんですけどね。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)『淵に立つ』以降は日本とフランスの合作になるんですよね。

(深田晃司)そうですね。

(森直人)『海に駆ける』はインドネシアも入ってるんだけど、今回も...。

(深田晃司)フランス。

(森直人)やっぱりフランスの助成金が入るとやりやすいですか。

(深田晃司)いろんな面があると思う。やりやすいのは、単純にお金が助かるって意味があるんですけど、やっぱりフランスの助成金っていうのは基本的にはフランス人、あるいはフランスに税金を納めてる人に使わないといけないものなので、政治的に。それでフランス人をスタッフに入れざるを得ないってことになるんですけど。

(森直人)まあそうなるわな。

(深田晃司)ただやっぱりそこで日本の文化圏、ある意味自分と同じ文化圏ではない、全く違う文脈からの意見がガッと入ってくるのはやっぱりいいですよね。

(森直人)外部からの。

(深田晃司)はい。それこそまさに闖入者ですけど。

(森直人)本当だ。

(深田晃司)そうそう。それによってやっぱり自分にとっての常識みたいなものが覆される瞬間ってのがあって、全部が全部その意見が「じゃあそれでいこう」ってわけではなくて、全然違う、全然こっちのイメージと違うよってのがあるんだけど。向こうは向こうで本気でぶつけてくるから、こっちもちゃんと言葉を持たないといけないし、それに対する。

(森直人)ああ。それで言葉が鍛えられていったところがある。

(深田晃司)それもあるんですかね。これなんか、そういう面白みはあるなっていうのと、でもそのフランスのシネマ・デュ・モンド助成金は結構いろんな人が知っていいと思うんですけど、やっぱり「フランスの映画を支援していこう、映画を通して文化を支えて楽しもう」っていうのって、本当本気だなって思うんですけど、そもそもシネマ・デュ・モンドってあれ世界の映画って意味で、外国映画のための助成金なんですよね。そもそも外国映画のために助成金っていうものがちゃんと部門としてあるっていうこの時点で、日本で全く想像できないと思うんですけど...。

(森直人)すごいよね、これ。

(深田晃司)しかもこのシネマ・デュ・モンドっていうのは、助成金をもらえるだけではなくて、それに通ることによって、例えばその通った作品が海外に、例えばヨーロッパの国とか海外に配給されることに対しても助成金がおりるんですよ。例えばこの映画がベルギーで公開されるってなったら、この映画をベルギーで買った配給会社にフランスから助成金がおりるっていう。だからそれだけすごく、世界中に拡散していくためのサポートまでしてくれる、なんかすごいなっていう。

(森直人)いや、すごいと思う。だから深田さんの重要な活動の一つとして、やっぱり映画環境っていう、日本の自分たちの置かれている映画環境をちょっと良くしようっていう、それこそ活動家の面がやっぱりすごい重要だなって思ってて。それで「独立映画鍋」を始められたわけですけども、中規模の作家映画がなんでこんな作るの大変なんだっていう。深田さんもよくおっしゃられてることですけど、日本映画って実質的にはヨーロッパの作家映画に近いものが多いのに、なぜかアメリカライクというか、ハリウッド型...。

(深田晃司)そうです。ハリウッド型の作られ方をしている。

(森直人)そうそう。これビジネスモデルだったり、運営の意識だったり、全部が。そこでちょっと軋みが出てるっていうのは確実にありますよね。

(深田晃司)あると思いますね。それは...やっぱりその文脈で話すと、例えば黒沢清さんとか是枝さんとか、ご本人たちの資質はともかく、やっぱりヨーロッパ主義・作家主義映画かアメリカ的娯楽映画かって言ったら、ヨーロッパ的作家主義映画なわけで。

(森直人)実際そうなってきてますから、流れはね。

(深田晃司)でも、映画はすごく日本の場合、ある種新自由主義的で、全部映画の興行収入やDVDで回収しないといけないっていう制約があるので、どうしても興行性、商業性っていうのは意識しなくちゃいけなくて。もちろんフランス映画だってなんだって、商業性っていうのはある程度意識されるんですけど、やっぱり日本映画の場合、過剰に大きすぎると思っていて、それはハリウッド映画だと市場が世界中にあるっていうのがありますし、いいんですよね。それはわかるんですけど、でも同じことやろうとしても、これ本当自覚しなきゃくちゃいけないんですけど、もう日本語ってだけでマイノリティなんですよ。やっぱり「英語ではない」ってだけでマイノリティで、そういった意味でフランス映画も韓国映画も、まず「私たちはマイノリティである」っていう発想から助成制度を作っていて、その中でいかに日本映画、フランス映画、韓国映画、多様性を守っていくかっていう発想をしていて、だからフランスの助成金の中にも、シネマ・デュ・モンドの助成金に中にも、きちんと母国語を話されてることってことが条件に入ってるぐらい、やっぱりマイノリティの文化、多様な文化を守ろうっていう。
それはやっぱりハリウッド映画がずっと100年間、外国で撮っても全部英語でしちゃうっていうようなことに対する反発もあったわけで、でもアメリカ映画は英語を喋んなければ商売にならないから英語にしてるわけですよね。『アベンジャーズ』でも、みんな宇宙人だけどみんな英語しゃべるっていう。それはやっぱり彼らが英語であるっていうことが一つの商業性の強みになってるから当然、全部英語にするわけで、だからその観点から多分その助成制度を作っていかないと、なかなか厳しいだろうなと。しかもその上、アメリカの場合はその中でいかに健全に競争が行われるかっていうことがちゃんと制度設計がなされている。やっぱり大手映画会社が、大手の映画製作会社が大手の興行チェーンを持ってはいけないとか、独禁法で。というような制度設計をしているし、民間からの寄付文化ってのも、ものすごいちゃんと税制優遇をしていて、文化に寄付が流れるような制度を作ってるんですけど、日本の場合なんにもないんですよね。公的な手続きも少ないし、民間からの寄付も少ないし、しかもその市場原理の競争性を守るための制度、アメリカで言ったら映画館チェーンを製作会社が持ってはいけないっていう制度とか、フランスでいったら映画のCM、予告編をテレビで流してはいけないっていう、そういった市場の平等性を守る制度すらない上で助成金もないっていう。本当ないない尽くしだなって思いますね、日本は。なんていうことをひとっきり言ってみましたけど。

(森直人)いやいや、でも、インドネシアってどうですか。インドネシアもジャカルタとジョグジャカルタってちょっと毛色が、なんか商業主義とアート系っていうようなイメージがあったりするんですけど。

(深田晃司)インドネシアもそんなにすごく詳しいわけじゃないんですけど、話聞いてると、やっぱり助成金とか少ないですし、検閲厳しいですし、大変だと思いますよ。インドネシアのインデペンデントはもうほぼインドネシア国内では市場持てないから、海外映画祭とか海外のほうでやってくっていう道に行かざるを得ないですね。

(森直人)一時、「アジア圏の映画がちょっとすごく面白い、元気だ」っていうようなところがあったと思うんですけども、意外にちょっと伸びないなっていう印象があって、それってやっぱりなんかシステム的なところに阻まれてるのかなっていう。

(深田晃司)伸びないっていうとそれは日本でですか。

(森直人)日本っていうか、もっとなんか、もっとガーッと出てくる印象があったんですよね。インドネシアにしろ。数年前の勢いからいうと。

(深田晃司)確かにちょっと足踏みしてる。フィルメックスで一応『マルリナの明日』という映画がグランプリを獲ってやっていますけど、でもどうなんでしょうね。やっぱり韓国のような成功例にはたどり着けてないっていうのはあって。

(森直人)そうそう。なかなか出てこない。

(深田晃司)でもそれ...なんだろう。やっぱり韓国がフランスのCNCってフランスの制度設計をモデルにして、韓国独自の形できちんと制度設計をしていたのに比べると、多分場当たり的なんだと思います。日本も含めて、ほかの国の映画の助成制度というのが。やっぱりそこが難しいですよね。

(森直人)なるほどね。これはなかなか...。

(深田晃司)これ語り始めたらあと1時間、これで特番ができる。

(森直人)そうそう。本当ですよね。もう一つ。ちょっと『よこがお』に絡めると、でも本当、深田さんはとくに女性の才能が映画の現場から生活の問題で脱落してることを、すごく前から問題してらっしゃったじゃないですか。やっぱりそれともちょっとつながる...。

(深田晃司)つながるのかもしれないですね。映画作るときにあんまりそういった自分のこういう、活動家としてのあれってのはそんなに意識しないで...。

(森直人)してないけど、僕から見ると完全につながってんなと思ったけど、どうですか。

(深田晃司)それはでも通底してると思いますよ。やっぱりこういう、今日の前半のほうの話にもまた戻ってくるんですけど、やっぱり女性をどう描くかっていったときに、ある意味、男性作家、例えば自分が『ざくろ屋敷』、最初紹介してもらった2006年に作った『ざくろ屋敷』ってアニメーションも、バルザックの短編小説が原作で。あれもその当時のフランス文化の一つの類型で、あるヒロインが恋に破れたり社会的になんか傷つけられて死んでいってしまうっていう、本当にそういう話って結構多くて、一つの類型なんですけど、それを批判するフェミニストの方とかもいらっしゃって。男性社会の中で、女性の死や弱々しい女性の姿というのが一つの娯楽として消費されているっていうことに対して問題点を指摘する視点はあって。でも自分の中でそれは半分は頷きつつ、でも『近松物語』とか『西鶴一代女』とかもそうですけど、やっぱり19世紀においても現代においても女性っていうのは弱い立場にある以上、そのなにか暴力が起きたりなにか起きたときに真っ先に被害を受けるのはやっぱり女性であるっていう。男性よりも女性のほうが被害を受けやすいっていう現実はそのまんま自分は描くっていうほうが関心があって。やっぱりそういったものと日本映画業界で...それと同じですよね、結局。
映画業界で、例えば夫婦で二人とも映画に関わっていて子どもが生まれたら、仕事を辞めてくのは女性ばかりであるっていうような現実とか。やっぱり日本の映画って、これ自分の自戒を込めてなんですけど、自分の映画の撮影の環境だって結構大変なんで、そんなに堂々と言えるもんでもなくて大変なんですね。でも現場の労働環境が大変だと、やっぱりそれを体力的に、自分より体力ある女性たくさんいるんだけど、平均的に言えば、その体力的にも女性が残りにくい環境になってしまうし、そういったことは全部、世界観の一つの、今の現代の認識としてはありますし、結局自分自身の世界認識がその作品には反映されてくので、つながってるのかもしれないと思います。

(森直人)だから、ちょっと...いや、傑作ですよ。

(深田晃司)ありがとうございます。

(森直人)傑作だと思います。本当、見てほしいですね。

(深田晃司)はい。ぜひ見てほしいですね。もう。

(森直人)ご本人としてはどうですか。一作一作の手ごたえってのは、なんか一回ずつなにか確信をもって新しいことをやったっていうような感じって毎回あります?

(深田晃司)いや、そこに関して実はあんまり意識してなくて、というのもやっぱり企画って『淵に立つ』にしてもあれ書いたの2006年なので...。

(森直人)そう。らしいですよね。

(深田晃司)そう。結局映画の場合は思い立ったときに作れるもんじゃないから、その企画の思いついた順番と完成の順番がバラバラだったりするんで、「今これが新しいぞ」っていうような、すごく積極的な意識はないんですけど。ただやっぱり、今回の作品に関して言うと、自分の中では結構...これまで自分の映画って比較的「関係性の映画」というか、人物の関係性の中でなにかを想像させていくっていうスタイルが多くて、今回もそれに近いものあるんですけど。ただここまで一人の女性の登場人物に延々と寄り添って作っていくっていう作り方は初めてだったんで、本当にほぼ99%のシーンで筒井さんが出ずっぱりであるっていう。なかなかそういう作り方は今までの脚本上なかったので、そういった意味ではすごく自分の中では新しいことできたかなと思っています。

(森直人)で、ちょうど今日、この収録してるときに、ロカルノのコンペに決定して、おめでとうございます。

(深田晃司)どうも、ありがとうございます。

(拍手)

(森直人)まだでもどんどんこれからですもんね。公開もそうだし、映画祭もそうだし。

(深田晃司)そうですね。映画祭もいくつか決まってきてるみたいで、おかげさまで。本当に映画を日本だけじゃなくてとにかく世界中に見てもらいたいので、広がっていくといいなと思ってます。

(森直人)今回、じゃあかなりいろんなとこ回る予定ですか。その映画祭...。

(深田晃司)そうですね。とりあえずロカルノも私と筒井真理子さんで行く予定になっています。

(森直人)いい結果をお祈りしています。

(深田晃司)はい。頑張ります。頑張りようもないですけど、頑張ります。

(森直人)(笑)というわけで、番組を楽しんでいただけた方は#活弁シネマ倶楽部、#活弁で投稿をお願いいたします。活弁シネマ倶楽部のTwitterアカウントもありますので、ぜひフォローください。というわけで、今回ここまでです。いや、すごいやっぱり楽しかったです。ありがとうございます。深田晃司監督でした。どうもありがとうございました。

(深田晃司)ありがとうございました。

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