見出し画像

ARCHIVES『THE NIKKEI MAGAZINE Ai』プレミアムクラブ会員向けメールマガジンその11「家(2)」(2015年11月~2023年3月配信/文:Katsuma Kineya、編集:講談社、配信元:日本経済新聞社)

松本幸四郎家の見どころと見せどころ

2017年12月1日配信

 来年早々からの襲名披露公演を控え話題が持ちきりの松本幸四郎家。松本幸四郎が二代目松本白鸚(はくおう)、市川染五郎が十代目松本幸四郎、松本金太郎が八代目市川染五郎を襲名します。興行は歌舞伎座「壽初春大歌舞伎」「二月大歌舞伎」を皮切りに二年をかけて行われる予定。当代の松本幸四郎といえば、歌舞伎のみならず、ミュージカル『ラ・マンチャの男』をはじめ、舞台、映画、テレビでも活躍し、全国で知らない人はいないといってもいいくらいのビッグスター。『ラ・マンチャの男』は、市川染五郎時代の一九七〇年、本場ブロードウェイでも六十回上演しています。それはさておき、そもそも松本幸四郎とはどんな名跡なのでしょうか。市川團十郎家とも縁の深い家のようです。まずは初世から見ていきましょう。

立役で評判を博した初世、実悪の二世

 初世松本幸四郎は、一六七四(延宝二)年、下総(しもうさ)小見川生まれ。現在の千葉県香取市のあたりです。幼名は松本小四郎。元禄初期に江戸に出て、美少年役の若衆方(わかしゅがた)、女形を経た後、立役を演じるようになります。松本幸四郎を名乗るようになったのは、一七一六(享保一)年。人気役者二世團十郎とも肩を並べる勢いがありました。初世幸四郎には息子がいましたが亡くなっていたため、養子を取ります。名は七蔵。一七一一(正徳元)年生まれです。実母は、今の人形町あたりにあった堺町の芝居茶屋、袋屋源七の未婚の娘。茶屋の和泉屋勘十郎家の養子に出され、そこで次男として育ちました。ちなみに同家は初世團十郎の娘の嫁ぎ先です。
 さて、この七蔵、父親は諸説あります。和泉屋勘十郎その人、狂言作者二代目津打治兵衛……。初世松本幸四郎の養子になると幸四郎説が浮上し、二世團十郎説も。
 七蔵が二代目松本幸四郎を襲名したのは、初世幸四郎没後五年目の一七三五(享保二十)年のこと。三年後には悪人“巌流”役で出演した『敵討巌流島(かたきうちがんりゅうじま)』がロングランとなるなど人気を得ていきます。誠実な振りをして実は悪人という“実悪”も得意としました。性格的には神経質で喧嘩っ早い感情家だったようです。
 二世幸四郎は、二世團十郎の姪で養女となった“いぬ”をめとり、二人の間には、梅丸という息子が誕生。つまり、この梅丸は、二世團十郎の血も引いていることになります。
 両家とも人気の名跡でしたから、姻戚関係により、それぞれの家だけでなく、拠って立つ歌舞伎界そのものも盤石にしたい、そんな意図もあったのかもしれません。

三世と四世の軋轢

 梅丸の初舞台は一七五四(宝暦四)年、十四歳のとき。名は松本幸蔵でした。同年、二世幸四郎が四十四歳で四代目市川團十郎を襲名し、幸蔵が三代目松本幸四郎の名跡を継ぎます。
 三世幸四郎の妻は、三世團十郎の娘“亀”。二代続けて市川團十郎家と婚姻関係を結んだことになります。三世幸四郎は、やがて五代目市川團十郎を襲名。時は一七七〇(明和七)年。父親は名を再び幸四郎に戻します。
 四代目松本幸四郎を継いだのは、一七五七(宝暦七)年に四世團十郎の門人となった市川武十郎。後に市川染五郎を名乗り、さらに市川高麗蔵と改名、そして一七七二(安永一)年、三六歳で師の前名を継ぎます。男ぶりがよく、多弁で、容姿や身のこなしが柔和かと思えば、しゃれっ気もあり、まじめに見えて色気もあるという多才ぶり。和事や実事を得意とし、所作事もよくこなし、晩年には実悪にも秀でた名優でした。
 四世は師匠の前名をもらったものの、役者としてすぐれていただけに、三世幸四郎が師匠の実子ということで五世團十郎を継いだことに不満を抱きます。せめて自分の子どもを六代目團十郎にしたいと考えていたようです。当時は座頭が権力を持っていたため、座頭を巡る権力闘争も要因となり、四世幸四郎は、陰謀によって五世團十郎を座頭から引きずり下ろしたりもしています。しかし結局は成功しませんでした。

 次回は五世幸四郎から当代までをご紹介します。

*(参考資料:『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2巻 歌舞伎の歴史Ⅰ』岩波書店、『市川團十郎・代々』講談社、『歌舞伎 家と血と藝』講談社現代新書、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研出版)

Copyright (C) 2017 Nikkei Inc. & KODANSHA Ltd.

松本幸四郎家の見どころ見せどころ(二)

2018年1月5日配信

 前回は、四世までご紹介しました。四世幸四郎は七世團十郎への陰謀事件の後、中村座を追われ、初世菊五郎のおかげで市村座に出演しますが、ここでも座頭を狙います。菊五郎は舞台上で四世を面罵したものの、結局上方へ戻ってしまいます。このためいっとき四世が座頭を務めますが、数年後に経営破綻、控え櫓に経営権が移ります。四世は大坂へ赴いた後、一七八六(天明六)年に江戸へ戻り、團十郎とも和解しています。
 ところで、松本幸四郎家では、なぜ、子が市川姓を名乗るのか、不思議に思ったことはありませんか? 実は、起源はこの四世にあるようです。四世は團十郎の門下に入った際、市川武十郎を名乗り、さらに市川染五郎と名を変えます。その後二代目市川高麗蔵を襲名、やがて四代目松本幸四郎を継承します。市川姓を経て松本幸四郎を継ぐ形は、これが初なのです。

“鼻高幸四郎”の異名を取った五世

 五世は、四世の子で、一七七〇(明和七)年に七歳で初舞台。一八〇一(享和一)年十一月、市村座で五代目松本幸四郎を襲名しています。最初のうちは、四世が得意としていた和事の役柄をこなしますが、後に実悪に転じます。細く鋭い目に特徴のある容貌で、睨みには凄みがありました。鼻が高く、それが鼻高幸四郎の由縁。実悪に転じてからは、「古今無類」「三都随一」と評判を博し、四世鶴屋南北の作品に不可欠な役者となります。時代物の実悪として『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』の仁木弾正など、当たり役も多くありました。一方で生世話の市井の悪も生き生きと演じます。むさくるしい鬘、顔の汚れ、古く汚い着物などの写実主義を徹底し、それでいて愛嬌のある独特の持ち味が特徴でした。
 何でもこなす万能役者ではありませんでしたが、この人ほど盛りの長い人は知らないと言われるほど、移りゆく時代の波に乗り続けました。
 この五世の妾腹の娘“こう”は、七世市川團十郎の最初の妻となっています。

大成しなかった六世、武家の出の七世

 六世は五世の実子で、一八四四(弘化元)年襲名。父の当たり役を継ぎますが、大成せずに一八四九(嘉永二)年に没します。子どもがなかったので、七世團十郎の三男を養子に迎え、娘の“ひで”と結婚させますが、破局。後継者がいなくなります。このため、幸四郎不在時代が約半世紀続くことに。
 七代目松本幸四郎を継ぐのは、三重県四日市市の武家に生まれた人物。建築業を営んでいたとも。一八七〇(明治三)年、三歳で二代目藤間勘右衛門の養子となり、一八八〇(明治十三)年に九世團十郎の門弟に。市川金太郎、四代目市川染五郎、八代目市川高麗蔵を経て、一九一一(明治四十四)年に七代目松本幸四郎を襲名します。堂々とした風貌、朗々とした声音の持ち主。九世團十郎の高弟で、九世譲りの『勧進帳』の弁慶は、生涯に一六〇〇回も勤めています。九世團十郎が奥義の一部を伝えたのは、七世幸四郎と、六世菊五郎だけとも言われています。七世幸四郎には三男あり、長男は市川宗家の養子となり、後に十一代目市川團十郎を継ぎます。八代目松本幸四郎を継ぐのは次男。三男は二代目尾上松緑。三人は“高麗屋三兄弟”と呼ばれました。
 七世幸四郎には進取の気質があり、一九〇〇(明治三十三)年には、日本初のオペラ『露宮の夢』に主演したり、明治四十四年に帝劇が開場すると、女優を加えたさまざまな芝居で演じたりもしています。

人間国宝の八世、八面六臂に活躍した九世、襲名披露の十世

 八世からは、記憶に残っている方もいらっしゃいますよね。昭和三年から吉右衛門に師事し、吉右衛門の娘婿となります。八代目松本幸四郎を襲名したのは、昭和二十四年です。時代物を得意としましたが、父と同じように、進歩的な面があり、文学座に客演したり、菊田一夫に招かれて、三十六年から十一年間、東宝劇場や帝国劇場を根城にしたことも。昭和五十年人間国宝、五十一年芸術院会員、五十六年初世白鷗となり、文化勲章を受章しています。昭和五十七年没。
 九代目松本幸四郎は第一回目でご紹介したように、歌舞伎のみならず、『ラ・マンチャの男』など、意欲的に他分野でも活躍しています。平成三十年二代目松本白鷗を襲名予定。同時に息子の七代目市川染五郎が十代目松本幸四郎を継いでいます。このメールマガジンが配信される頃には、すでに襲名披露公演が始まっているはずですね。
 まずは襲名披露公演を観て、これからの松本幸四郎家がどのようになっていくのか、ちょっと予想してみるのも面白いかもしれません。

(参考資料:『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ』岩波書店、『市川團十郎・代々』講談社、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研出版)

Copyright (C) 2018 Nikkei Inc. & KODANSHA Ltd.

尾上菊五郎家の見どころと見せどころ

2018年4月27日配信

 毎年5月になると歌舞伎座で催される團菊祭。今年の演目のうちの一つ『鳴神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』では菊之助が雲の絶間姫を演じます。実はこの役、同狂言初演で演じたのが初世尾上菊五郎。いまから276年前の1742(寛保2)年、大坂佐渡島長五郎座でのことで、大当たりしました。菊五郎といえば江戸前というイメージがありますが、ルーツは上方なのです。

多芸多才の初世と中興の祖となった三世

 初世は1717(享保2)年、京都の都万太夫座の出方(客を席に案内して飲食の世話をする係)音羽屋半平の子として生まれます。屋号の音羽屋はこの生家が由来。上方で女形を勤めていましたが、前述の『鳴神』を上演した二世團十郎(当時海老蔵)とともに江戸へ下ります。当初は華やかで艶のある女形として大評判を取るものの、1752(宝暦2)年立役に転向。今度は立役として四半世紀もの長きにわたり活躍します。『仮名手本忠臣蔵』の由良之助と戸無瀬の二役を演じて大ヒットするなど、女形も立役もこなしてこその功績も。人一倍研究熱心なことで知られ、晩年は“性根”と称する心理面を掘り下げた演技にこだわりました。現在空席の大名跡梅幸は、もともと初世の俳名。
 子の二世は19歳で早逝。容姿も声もよく惜しまれました。
 現在の尾上家の芸脈の祖と目される三世は、初世の高弟だった尾上松助(後の初世松緑)の養子。1784(天明4)年、江戸小伝馬町に生まれました。二代目松助、三代目梅幸を名乗った後、30年間絶えていた菊五郎を襲名。さまざまな役を“兼ねる”名役者の一人として立役、実悪(空想上ではなく現実的な悪人)、女形までこなしました。江戸前の粋な立役、小悪党役などもよくし、どれも代々芸風が伝わっています。さらに、養父松緑が開拓し得意とした妖怪変化物、怪談物も。鶴屋南北書き下ろしの『東海道四谷怪談』の三役を初演。同狂言では早替わり、宙乗り、本水、幽霊の出没といった演出も評判を呼びました。数種の俳名のうち梅寿が有名で、三世がなした型を梅寿の型とも。二度引退二度復帰していて一度目の引退時の隠居住まいが向島寺島。本名の姓はこれに因むものです。
 四世は三世の娘婿で女形専門。梅幸を長く名乗りました。1855(安政2)年に襲名しますが、5年後に歿します。

五代目だけで通った五世から円熟きわまる当代まで

 普通は○代目○○と名をつけなければ誰のことかわかりませんが、五代目といえば、五代目菊五郎を指します。ちなみにもう一人○代目だけで通るのが、九代目團十郎。名を言わなくてもわかるほど歌舞伎界で有名なのはなぜかというと、明治維新後の変動期に、好敵手として芸を競いともに近代歌舞伎を支えたからです。五代目は市村座座元十二代目市川羽左衛門の子で、家督を継いだものの1868(明治元)年弟に譲り、自分は母方の菊五郎を襲名。出世役は、羽左衛門時代の幕末1862(文久2)年に18歳で演じた、書き下ろし『弁天娘女男白浪』の弁天小僧です。今でも尾上家が得意とする役どころですね。祖父の幅広い芸域を受け継ぎ、その型を固める一方で、明治に入ると当時における現代劇の“散切物”を開拓。音羽屋の家の芸「新古典劇十種」も制定しています。
 五代目の実子、六代目菊五郎は幼年時代に九代目に預けられたため、家の芸のみならず、團十郎の肚芸もその芸風に加味。柔と剛、庶民とインテリという両家の芸風を受け継ぎ統合させることができたのは、名優だからこそなせる技でした。昭和11年に催された第1回目團菊祭で六世が踊った『鏡獅子』を観て、フランスの詩人・作家のジャン・コクトーが、映画『美女と野獣』を創ったという逸話も。
 当代の七代目菊五郎は、六世の養子だった六代目尾上梅幸の子。日本芸術院会員、人間国宝、文化功労者。円熟した存在感でいまもなお活躍し続けていることはご存じの通りです。

(参考資料:『演劇界1996年5月号』演劇出版界、『【岩波講座】歌舞伎・文楽 第2および第3巻 歌舞伎の歴史Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、『團菊祭五月大歌舞伎筋書』、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『歌舞伎座誕生』朝日新聞出版、『五世尾上菊五郎』文學堂 )

Copyright (C) 2018 Nikkei Inc. & KODANSHA Ltd.

「家(1)」
「家(3)」

トップページに戻る


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?