余命

本日のテーマ「余命」

私のお題出しターンだったんですよ本日。
幡野さんのツイートやブログを拝読して、やはり改めて考えざるをえなかったんですね。リアルタイムで生きている幡野さん(写真家兼猟師)は3年の余命を宣告されていて。
別段直接の知り合いというわけではないし、たまたまツイッターのタイムラインに流れてきた情報から知ったのだけなのだけど。。
気になってしまう。

聖路加病院の日野原先生は「いのちとは使える時間のことである」と喝破した。

「いのちとは使える時間のこと」もう一度自分の口で言ってみる。

「余命」と言う言葉はおそらくせかちゅう以降、ずいぶんと世の中に流通したんじゃないでしょうか。映画を観れば、ドラマを見れば、売れる小説を読めば、主人公又はその恋人が突然余命を宣告されたり、余命が短いにも関わらず恋に落ちたりしている。ぼくはそういう類の作品があまり好きではなくて、、(類とか一緒くたにしてしまってすみません)一番の理由は見ると悲しい気分になるということ、他の理由はオオカミ少年よろしく「余命」という言葉の既視感である。予告編である程度の筋書きが見えている(見せているとも言える)もう悲しいストーリーを観る心の余裕はないのである。

そうやって少しうがった気持ちを持っていた僕でさえも、幡野さんのブログには考えさせられてしまった。リアルなので。本当の余命。僕たちはいつもどこかで余命に対してリアルになりきれない部分がありませんか。いつか持ち時間はなくなるのですぞ。

「いのちとは使える時間のこと」(ここでもう一度日野原先生)

持っているのに、使えていない時間があるとしたら?やりたくないことを仕方なくやっている時間は?

やりたくないことをやっている時間は、やはり、ない。のかね、

お読みいただきありがとうございます!