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拘束する言葉、高く飛ばす言葉

書け、と言われている原稿がいくつもあるし、出せ、と言われている企画がその倍近くある。でも、筆は進まず、脳は動かず、雑念ばかりがせっせと働いており、よくないことだけど、「よくあることだから」と諦めて、雑念と付き合っているのが今である。

雑念は雑念止まりで、そこから進展することなく萎んでいくのが平常運転だけれど、今日は珍しく雑念の方がむくむくと展開と推敲を繰り返して、これは金もらって出せる記事じゃあねえけれども世には出してみてえ話だなあと思える次元に至ったので、約9ヵ月ぶりにnoteを書く。原稿の締め切りを無視して書くnoteは、人の金で食う肉や酒と同じくらい美味しいです。


括られることで安心する人、怒る人

先日、歌人でありオープンリー・ゲイである鈴掛真さんとトークイベントに出た。テーマは「言葉で世界は変えられるのか」。鈴掛さんは、ゲイの存在をもっと多くの人に偏見なく知ってもらうために、本を書いて、世界を変える冒険に出たばかりの人だ。

トーク中、印象的だったシーンがある。

僕が「LGBT」という言葉から派生して、過去に「好きになった人がアセクシャルだった」という悩み相談に乗ったことがある、と話をした。

すると、鈴掛さんは「ああー、アセクシャルって、何でしたっけ、恋愛できない体質の人でしたっけ」と、まるで知らぬテイで相槌を打った。

「え、ゲイなのに、それを広めようとしてる人なのに、アセクシャルがわからないんだ?」と、一瞬思った。もしかしたら観客に合わせてくれたのかもしれない、とも思った。しかし、これが僕の中にある偏見なのだと、後から気付かされることになった。

鈴掛さんはイベントの最後のあたりで言う。

「ゲイだったら、レズビアンやバイセクシャルやトランスジェンダーの人の気持ちもわかるでしょ?って考えは、偏見ですよね。それって、日本も中国も"アジア人"だから、考えてることわかるでしょ?って言っているのと同じだと思うんですよ」

ああ、仰る通りだ。僕は膝を打つ。

だから、鈴掛さんの著書のタイトルは『ゲイだけど何か質問ある?』なのであり、『LGBTだけど何か質問ある?』ではないのだと、鈴掛さんは言った。なんなら、「ゲイじゃなくて、僕の意見です」とも言っていた。

「『LGBT』という言葉と出会って、自分1人だけみんなと違うわけではないと気付けて、安心した」と、過去にフォロワーに言われたことがある。その時、言葉を与えられることによって、名前を付けられることによって、救われる人がいるのだと実感した。

しかしこのイベントに出て、括られることに対して、違和感を覚える人がいるのだとも思った。「アジア人じゃねえ。日本人だ。日本人だし、俺は俺だ」と。

そして、考えてみたら、自分だってそうだったと、ふと思い出した。

今となってはもう消化できたし、うまく体が対応できるようになったけれど、昔「読モライター」って言葉が出てきたときに、「これってカツセのことだよね」と数人に言われたことがある。(ちなみにその人たちの名前は今でも全員覚えているごめん)

端的に言って、嫌だった。

多分、ライターの中ではマイノリティな存在として、それこそジェンダーでいうLGBTと同じように、括ったのだと思った。括られた側の僕は、大多数の人間と同じだと思って生きてきたから、まるで医師から「あなたは異質です」と言われたような気分になった。

この「異質」が、「能力者」だとか「天才」だとかの意味なら良いのだけれど、異質=少数であるだけで、「劣っている」と脳が受け取ってしまうのが人間なのだと、実感した。(これは自分がマイノリティだと言われて初めて気付く感覚だった)

「LGBT」という言葉で救われた人もいれば、
「読モライター」という言葉で少し傷ついた僕もいる。

括られることで、安心する人もいれば、怒る人もいる。
だから、言葉は、簡単には生み出してはいけないし、軽率に使ってはいけないと思った。


言葉を飲み込んで、消化すること

言葉といえば、もう一つ思うことがあって。

初めましての人は本当に「なんだこいつ」って思うかもしれないですし、嫌悪感マックスになると思うのですが、僕には「タイムラインの王子様」というクソふざけたニックネームが付けられています。

自分で名乗ったことは一度もないし、愛着もクソもないのだけれど、このニックネームが付けられ、一部の人に浸透したことによって、なぜか僕自身の仕事がやりやすくなったケースが、何度かありました。

https://twitter.com/raf00/status/1062555612083453952 )

この「読モライター」の嫌悪感と「タイムラインの王子様」の嫌悪感、僕の中では「どちらもちょっとバカにしてるっしょ」って意味で似たような言葉だとは思うのですが、なぜ後者の方は、自分がその言葉に流されるほどに影響を受けているのかと、鈴掛さんのイベントに登壇しながらリアルタイムで考えていた。

で、とりあえずの答えとしては、前者(読モライター)は少数のグループを括る言葉に対して、後者(タイムラインの王子様)は、僕単体を言い換えた言葉だからかも、という結論に至った。

これって例の「肩書き問題」にも関わってくるのだけれど、もう性別も職業もスタイルも、多様性って言葉すら偏って聞こえるほどに「バラバラでオッケー!」な時代になってきているから、「少数であっても、複数人を括る言葉にすると無理が出る」ってことなんじゃないかと。

「作家」って言葉には複数人の人が当てはまる。でもそれだけじゃ当てはまらない人が出てきたから「なんとか作家」とか、「作家」と「何か」を並べて名乗る人が出てきた。そうすることで「個」を表現しようとしてるからだ。

「ハイパーメディアクリエイター」だって「メディアアクティビティスト」だって、そうしたグルーピングから逃れるため、個を立てるために自ら付けた名前だ。その名を背負うことで、高く飛べる人がいるのだ。

逆に、誰かに名前を付けられた事で、その言葉が足枷のようになっている人もいる。下手したら「大学生」という名前だって、誰かの可能性を抑え込める言葉なのかもしれない。

「だからみんな、自分だけの名前を持とうね!」とか超絶気持ち悪い結論に至るつもりは毛頭ない。

単純に「高く飛べる言葉もあれば、足枷のように拘束する言葉もある。それをどう受け入れられるか、その言葉からどう逃れるかが、人生を左右するほど大切なことかもしれない」とだけ、鈴掛さんのイベントを通して思ったことだった。

雑念から始まったのだからやっぱりまとまりない話になったけれど、僕自身がスッキリしたから良しとして、見直さずにこのまま公開します。原稿と企画出しが死ぬほど待っている。しんどい。ありがとうございました。




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