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『信仰』はいまや激レアスキルなのだろうか。

みなさんこんばんは。
久々の更新となりました。

今回は、わたしが「宗教」というものに触れていく中で、その根幹を為す、あるいは為していた「信仰」という言葉について、想うところを書き綴ってみたいと思います。

ちなみに、少しググるくらいはしておりますが、何のエビデンスもなく、内容は全て自己解釈に過ぎませんのでその点はご留意ください。

現代における信仰

そもそも、まず「信仰」とはどんな意味だっけ?
ということで、ググってみました ↓

1. 神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを
    分のよりどころとする
こと。
2. 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。
※出典:デジタル大辞泉(小学館)

結構振り切っている感じがしますよね。
「たまに頼る」のはダメ、「大方信じてるけど少しは疑ってる」という状態も信仰とは呼べないようです。

わたしは、これ現代日本においては無理ゲーなのでは?と思っています。

インターネットの普及によって、それまでは、目に見える範囲の人とその行動によって成り立っていたわたしたちの生活には情報が溢れかえりました。

"イエ"や"ムラ"を重視していた世界は、その境界線が瞬時に破壊され、個々の好みや裁量で、付き合う人間も付き合い方も決められるようになり、疑いを持ち、情報を取得しない人間から搾取されていくような構造へと変化を続けています。

「信仰」はある種、自ら弱点を弱点のまま放置する行為に等しくなってしまったようにも思えます。

信心に至る

また、信仰とよく似た言葉に「信心」という言葉があります。

これは信仰とは違い、通俗的な意味合いを持つため、神や仏に限らず人に対して強く帰依する場合にも用いられます。

では、一旦宗教という枠組みを外れて、一般的に人が信心に至るパターンについて考えてみたいと思います。

現時点でのわたしの中での整理は、以下の2つのパターンです。

① 「九死に一生を得る」ような劇的な体験から生まれる信心
※「お金に助けられた」「あの人が救ってくれた」「神様が…」など
② 意識と情報の一致から生まれる信心
※例えば、"100円でパンが買える"からお金に対する信心を持つ、など

①はわかり易いと思います。
事件や事故、自分にはどうしようもない事象に直面し、そこから救いあげてくれた存在には、一生頭が上がらないように感じます。
ちなみに、わたしは「妻」「母」「義父」「親友」がこれに当たります。
ただし、帰依する(全身全霊をもって依存する)ほどではないため、信心には至っておりません。
でも、このパターンで帰依、そして信心に至る人の考えは理解できなくもありません。

②については、当たり前のことを言っているようで、少し難しい解釈になります。
②のパターンで信心に至るのが何故難しいかを考察していきたいと思います。

物理世界と精神世界

いきなりですが、わたしたちは当然ながら物質でできた「肉体」を持って物理世界に生きています。
いわゆる「科学」の領域で、一部例外はありますが、「目で見える」「手で触れられる」世界のことです。

しかし、わたしたちが脳の中で作り出した思考感情は目で見ることも、手で触れることもできません。
こちらの世界を「精神世界」と定義しましょう。

大まかにいえば、わたしたちが存在している世界は、この「物理世界」と「精神世界」によって構成されています。
また、物理世界は物質のみならず、「体験」と「情報」も同様に存在している世界です。
物理世界で生まれた情報は、何らかの形で伝達されることによって精神世界に影響を及ぼします。

例えば「食事」。
これは言ってしまえば、「人という物質が、食べ物という物質に触れる」という行為ですが、そこで得られた「味」や「匂い」という情報は、記憶や感情となって精神世界に入っていきます。

また、精神世界で生まれた思考や感情も当然ながら、物理世界での行動に影響を及ぼします。

これが、わたしが考えている「物理世界」と「精神世界」の関係性です。

意識と無意識

さらに詳しく言うと、精神世界はさらに2つの領域に分かれます。
それは、「個の世界」「全の世界」です。
個の世界にはまた、「意識世界」と「無意識世界」が存在します。

全の世界は、自分以外の個の集合体のため、無意識の世界は存在しません。
(各々には存在しているが、絶対に触れることのない世界)

物理世界の情報は、個の世界から全の世界へも、またその逆にも流れ込みます。新たに生まれた情報は、これらの世界の双方に影響を与えます。
また、それぞれに情報を許容するキャパシティが存在しており、情報が溢れると、それぞれの世界は崩壊しカオスを生み出します。

このキャパシティを圧倒し、双方の世界の境目を曖昧にしてしまったのが、前述した「インターネット」という存在です。
また、1人の「個」に対する「全」の絶対数も、インターネットの登場によって、爆発的に大きくなっていきました。

インターネットは『悪』なのか

結論から言えば、わたしはインターネットが悪だとは考えていません。
むしろ、「個の世界」に多くの選択肢をもたらした救世主だとも思っています。

ただし、このインターネットの普及をモロに受けたのが、冒頭から話してきた「信仰」であり、「信心」ではないでしょうか。

インターネットが普及する以前は、「個」が持つ情報も全の世界も、非常に小さなものでした。
言葉が生まれ、紙が生まれ、人は次々と知識欲を満たす手段を講じてきましたが、1人の個が持つ時間は有限で、触れられる情報は至極限定的なものでした。

それがインターネットによって、崩壊する。
信じていたものが猛スピードで崩れていく。

日本国内で言えば、戦後豊かになった日本において、どれだけの衣服や食料が無駄になっているか。そんなこと、ほとんどの人間は知らなかった。
海外に目を向ければ、当たり前に水道の水を飲める日本人には、未だに泥水をすすり体を洗うアフリカの人々の生活は想像もできなかった。

そんな中で、未だに一つのものを信じていられる人間なんて存在するのだろうか。

つまり、「個の世界」の「意識世界」と、物理世界にある情報が一致しているというパターン②の信心は、現状成立し得ないと言っても過言ではないのではないでしょうか。(殊、日本の若年層においては特に)

これが、日本から、もしかしたら世界でも、「信仰」が薄れている本質なのかもしれません。

もはや信仰は存在しないのか

さて、散文的な文章にここまでお付き合いいただいた方、誠にありがとうございます。

この章が最終章です。

タイトルにした、「『信仰』はいまや激レアスキルなのだろうか。」については、前述のパターン①の「劇的な体験」に依るところが大きく、現代日本においては、「激レアスキルである」と言えるのではないでしょうか。

ただ、わたしが今回言いたいのは、「だから宗教はオワコン」ということではありません。

まだ、「信じる」ことはできます。
正直、わたしには信仰が大事かどうかはわかりません。
ただ、父親の死を通した自らの経験から、信仰している人たちの「言葉」や「行動」は大事だと思っています。

「お天道様が見てる」から横断歩道は青で渡りましょう。
「いただきます」と「ごちそうさま」、また「ありがとう」はちゃんと口に出しましょう。
「生きている人の幸せを願ってくれている」のだから、仏様には手を合わせておきましょう。

上記は稚拙ではありますが、
目まぐるしく発達した情報社会で、あえて避けてきた領域の「良い部分」を、わたしたちの「個の世界」にツールとしてインストールすることが、これからの社会と宗教の繋がり方なのではないかと考えています。

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