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真実


2021.10/14

僕は今、友達の知り合いの紹介で豊岡に滞在して連日農業バイトをしている。
その時感じたことを書きます。

野菜の収穫と袋詰め作業にて基準で考え方の違いが出ることを感じた。
本当にイイモノってなんなんやろうか。
野菜は規格に満たさないと売れない。
良いモノが選ばれる。悪いものは捨てられる。
でも、その基準ってものすごくはっきりしていると同時に、曖昧。
だいぶロスが出る。無料でも、食えるものもある。持って帰った。虫食いでも、とれたて野菜を家庭で調理し食べることは幸せやった。

こだわりを持って食を提供する人など、美味しさへ追求する素材のモノしかダメもいれば、
フードロスや環境的に、虫食いでもサイズ規格外でも、全然美味しいからみんな食すべきだみたいな人、
家庭料理に適した利便性を求める人、
健康的に農薬はダメでたとえ綺麗でも良くないから無農薬をとるべきだの人もいれば、
自然を想い、その摂理で育てられる野菜がいい人、もいるかもしれない。
様々な概念が混じりあって、、、そういう、人それぞれの物差しがある。


イイモノ、ホンモノ、イイコト、本質が何かなんて結局わからない。その時何に心動かされるか、躍らされるか、共感するか、大切だと思うか。
そんなに知らないのに、突き放したり蔑んだり、正義感を振りかざさないようにしていきたいところだ。
言葉を発信することは、誰かを傷つけたり、否定してしまう時があるし、言葉選びに注意する必要がある。
偏った言葉で頭を囲うことは、あとで自分を孤立させたり、苦しくさせることを知った。
違和感を怒りに変えてしまうのは、しんどいこと。
世の中の全てのものや生き物は、誰かの必要で、誰かの一生懸命で回ってる。by アンミカ
そうじゃないと、子どもの頃から生きてこれてないんやし、むしろ僕は上辺で受け取ってきた怠け者だ。恩恵を受け取ってきた。不自由なく育ってきた。生温くお金に頼って生きてきた。
この世の全ては奇跡でできてる。
結局、感謝できるかどうか。



その地、環境、人、組織、仕事。それぞれの価値観や考え方の物差し、豊かさ、時間の流れ方、文化、伝統、それを取り巻く自然がある。
そして、それぞれの思想、ストーリーがある。
僕は旅が好きかもしれない。今まで意識したことなく、導かれて色んなところに足を運んだ。そこで得られたものは、刺激的でどれも自分の知と血肉になった。
昔から本や勉強が苦手で嫌いで、ノー知的な人生だった。調べんのめんどくさい。生温く甘えて生きてきたから経験も不足で、あまりにもな無知がコンプレックスで打ちひしがれてきた。今も。
もうちょい興味を掘り下げる自分になりたい。
でも無知だからこそ、好奇心が生まれる。純粋に受け取ることができ、逆も然りで信じ込みやすく、偏ってしまう。
VUCAの時代て叫ばれてるけど、いつであっても正解不正解なんてなく、そもそも世界の全てのことはどれも不確か自然現象の中で流れていくことと知った。

ということは、行ってみたり会ったり、いろんな人の話を耳で聞いて、目で見て、鼻で匂って、口で味わなきゃ、五感で出会わなきゃ本当のことは解らない。
やってみなきゃわからない。
前提を取り払いたい。
ネットや誰かの発信、テレビ、ただ書いてある情報に、繕われたモノに惑わされすぎるな。
インターネットが普及したいまは、自分の足で動かなくても世界の事実が便利に、大きく、浅く知れる。でもそれだけじゃ知ったかぶりな事にいつも気づく。
僕にはありがたいことに移動できる自由がある。だからこそリアルな生身の情報を自らの足で稼ぎきたい。
いろんな体験に飛びついていきたい。
追求したことも、やったことも、足を運んだこともなかったら分かるはずがない。見える景色もない。

社会にはそれぞれの良い悪いの正義がある。押し付けはいらない。拘り固執もしなくて良い。偏見を持ちたくない。柔軟でありたい。
誰かの正義は、誰かにとってのかもしれない。物事は二面性
SDGsやエコ、オーガニック、フェアトレードetcみたくわかりやすい指標やキャッチーフレーズじゃわからない舞台裏が必ずある。
概念だけで片付けるな。
何かで分類したくないし、されたくもない。カッコウばかりを気にしてた自分がいる。うっとしい。
概念で心の穴埋めをしたくない。
もっと外に正解を求めるんじゃなくて内発に目を向けたい。
僕が尊敬する人は、いずれも現場で自分の言葉で、行動で語る人だ。


僕はまだ浅い知や価値観の中で、これは人々に、社会に、どんな意味があるのとか、何が理想で正義なのかと考えを巡らしてしまい、雁字搦めしちゃう。薄っぺらい答えで白黒はっきりつけたがったりする。
頭でっかちになりがち。自分が不安で概念で正当化したがる。
でもそれは、物凄く可能性を狭めてしまうし、我慢している。
真実を知りもしないくせに今ある誰かの意見や何かの概念で批判で自分の差別化、正当化やブランディングをするのはしたくないと思った。
そんなところでこだわりや自己啓示するのではなく、楽観的に物事を見て、自分で経験を俯瞰したもので語りたい。
皮肉で何かで括るのをやめたい。
人の考えや趣向はグラデーション。いつでも違うことを前提に、グレーにしとくと、楽かもしれない。
もっと謙虚に、柔軟に学んでいきたい。
真実はその時自分が何を信じるか。それが全て。答えにもがきながら、好きな感覚考え方、心地よさをフィットさせていく。

 1人で籠って完璧主義で考えても出てこないこと、間違ってること、わからないことが沢山ある。所詮、自分1人の米粒が知っていることなんて極わずかな世界。
周りの環境、人の言葉、見るもの感じるもの。
ずっと同じ環境だったら、決めつけてたら、思考停止しちゃうかもしれない。


僕は、理想や現実、も含めて自分の真実正直になる人が好きだし、僕もそうありたい。

""の自分で、全てをまずは受け入れていく。多々迫りくる煩悩正義感を受け止めて、手放して、、、
無理して賢く繕う必要はない。無理して縛られなくても良い。無理して知らなければいけないこともない。
好奇心に従って、肌で感じながら、知らない世界に出会っていく。
理屈じゃない自分なりの真実を追い求めていきたいし、それを自分の中でこだわりや誇りにしていきたいな。
間違っても良く、間違い探し。その時々の正解やスタンスがあっていい。
破壊再生を繰り返し右往左往で生きていくんだと思う。
良いも悪いも、幸福も不幸も、正しさも、正義か悪かも、美しさや格好良さ、価値優劣も。
死ぬ時には全てどーでもよくなりそう。
比較や対立はいらない。
人生はいつでも旅や!

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