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「男女の友情成立議論」はあなたの視野を狭める

「異性として意識する」と友達ではいられなくなる?

例えば「成立する派」の意見を聞いてみると、「異性として意識しなければ、成立する」という意見が目立ちます。長年付き合いのある幼馴染や、「異性としてみるなんてあり得ない」友達がいる人は「成立する派」であることが多いですね。

逆に「成立しない派」の意見を聞いてみると、「雰囲気や状況によっては魔がさすことはあるので、絶対はない」という人や、「成立すると思っていたけど、ことごとく裏切られて来た」という体験談に基づく主張をする人もいます。

どうやら、成立する派は「異性として意識しない相手であれば成立する」、成立しない派は「男女である以上異性として意識しないなんて保証はない」と考えているようです。

そしてこの派閥を分ける境界線になっているのは「異性として意識するかどうか」にあるようです。異性として意識しない友達はいるから成立する。異性として意識しない異性でも、どこかで意識してしまう可能性があるから成立しない。

でも、待ってください。異性として意識したら友達だと思ってはいけないのでしょうか?

問いの前提に含まれていることに違和感

「男女の友情は成立すると思うか?」という議論の裏には、「仲のいい男女がどんな状況にあってもSEXをしないでいられるのか?」という前提が含まれているような気がしてなりません。

もっと言えば「男女の仲には、友情か性愛かの二択しかなく、その両方が同時に成立する関係などあり得ない」という前提であるかのようです。

でもそんなこと言ったら、バイセクシャルやレズ、ゲイの人たちはどうなってしまうのでしょうか?異性にも同性にも友達がいて、その両方に性的魅力を感じる人たちは、誰とも友情を築くことができない、という結論に至らないでしょうか?

まるで『「友情」は理性という秩序で保たれており、「性欲」という本能とのせめぎあいをしていて、理性が勝てば友達に、本能が勝てば恋人(候補)になる、という共通認識が前提になっている』ような気さえするのです。

僕は、この前提にものすごく違和感を覚えます。

結局は「その二人次第だ」という結論にいつもなる

この前提に違和感を覚えるのは、実際に僕の知り合いに、お互いを「性的対象としてもみている友達」だと認識している男女がいるからでしょう。

その二人は決して付き合っている関係ではありませんが、実際にとても仲の良い友達であり、そして体を重ねる仲でもあります。

世間はそれを「セフレ」だとか「都合のいい関係」と呼ぶのかもしれませんが、二人を見る限りは「セックスもできる友達」だと称した方が納得感があります。

その二人を知っているからこそ、「友情」と「性欲」は両立しない、という前提に違和感を覚えます。

こういう事例を出すと「それは特殊ケースだよ」と反論されてしまいますが、だったら最初から「男女の友情は成立するか?」なんて問いを立てなければいいと思うのです。

成立する関係もあるし、成立しない関係もある。結局はその二人の関係性次第なのではないでしょうか。それ以上何を議論する必要があるのでしょうか?

「男女の友情議論」が人間関係への理解を狭くする

「男女の友情なんてあり得ない」という否定派の人も、「異性として認識していない相手なら成立するよ」という肯定派の人も、そうやって「友情」を「異性として意識しない相手に抱く感情」と限定化することでものすごく視野が狭まっているなと感じます。

友情ってそんな簡単に割り切れるものでしょうか?お互いが尊敬し合い、お互いが大切な存在だと思える関係に、「異性として意識するかしないか」はそんなに重要なことでしょうか?

前述の僕の知り合いのように「性的な眼差しがある」友情もあれば、「ない」友情もある。それだけのことではないかと思うのです。

ですから、「男女間には友情か性愛かの二択しかなく、その両方が成立する関係などあり得ない」という前提に立った「男女の友情は成立するか?」という議論は、その議論自体が人間関係というものへの理解を狭めているのではないかと僕は思うのです。

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