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エリック・ヒルマン/ナベツネが最も畏れた男

「頼む。2億円払うから早く帰ってくれ」
あの唯我独尊なナベツネがこういって許しを乞うたという。
その男の名はエリック・ヒルマン。最強助っ人の1人である。 

ロッテの優等生ヒルマン

エリック・ヒルマンは1995年から96年の二年間ロッテにて活躍をした長身左腕だ。
当時のロッテは伊良部、小宮山そしてヒルマンの三枚看板で先発投手陣が充実。
力の伊良部、技の小宮山、変幻自在のヒルマンと三者三様で相手打線にとって厄介極まりない3人だ。
生真面目そうな風貌のヒルマンはそのキャリアをロッテで終えるかと思わていた。



ジャイアンの一人軍拡競争

だがしかし、
当時90年代後半にかけて凄まじい軍拡競争に励むチームがあった。

落合にはじまり広沢、江藤、清原、ペタジーニ、小笠原、川口、工藤、、、、アリアス・・・
あの落合博満が放出の憂き目にあうほどその補強は苛烈を極めた。
各球団の4番とエースをこれでもかとかき集めていったのだ。

そのチームの名は読売ジャイアンツ。大補強といえば巨人の時代である。



2年契約という禁断の果実

96年オフ。
巨人は次のターゲットとして変幻自在エース級左腕に狙いを定めた。
まさにロッテで大活躍していたヒルマンがど真ん中ピタリであり、巨人の食指がヒルマンに伸びる。
年俸2億5000万円の2年契約を結んでしまったのだ。
この「2年契約」というものが「デスワード」なのだが、当時あまりそれは知られていなかった。
巨人に入団したヒルマンは密かに、だが確実にうごめき出す。
1997年の登板数はなんと「2試合」。
この年はまず布石として、肩の手術をおこなって帰国するに留まったのだ。



ミスター違和感

明けて1998年ヒルマンは本格的に始動する。

「肩に違和感がある」の一言でワンストライク。
一軍登板を頑なに固辞する。

「ジャックナイフが肩に刺さっている」という鋭利なレトリックでツーストライク。
一軍登録をはねつける。

「肩」「違和感」タグを巧妙に組み合わせた方便をたくみに投げ分け、巨人の首脳陣を翻弄。

1997年 試合数 2 防御率 3.00
1998年 試合数 ー 防御率  ー


ものの見事に1998年は登板数ゼロのまま2億5000万円へと進撃する。



左肩に小錦を乗せて

さすがに見かねた首脳陣が一軍昇格ならびに登板をヒルマンに促した。

するとヒルマンは最後のジョーカーを切った。


「左肩に小錦が乗っているようだ」


この決め台詞で完全試合が成就。
ヒルマンのサボり癖により、
読売巨人軍では一軍だけでなく二軍でも士気が低下。

そこで当時球団オーナーだったあのナベツネが、

「頼む。2億円払うからさっさと帰ってくれ」
と泣いて命乞いしたと伝えられている。

ちなみにヒルマンの左肩に乗った小錦とは、当時横綱であり184cmで200kgオーバーという巨躯の力士・小錦関である。
そりゃあヒルマンの左腕も動くめいよ。

エリック・ヒルマン
巨人在籍 通算2年 
1997年 試合数 2 防御率 3.00
1998年 試合数 ー 防御率  ー

2年契約 2億5000万円 *  2年




東京ドームのアイヒマン

高級取りにも関わらず、待てど暮らせど東京ドームに姿を見せないヒルマン。
そんなヒルマンに対する風当たりは日増しに強くなっていった。
それに対しヒルマンはついに沈黙を破る。


「俺をミッチェルやグリーンウェルと一緒にしないでくれ」




いや・・・
ダイエーのミッチェルや阪神のグリーンウェルは試合に出たから、ヒルマンよりもまだましだというのが助っ人研究者が珍しく声を揃えるところだ。
ケビン・ミッチェルやマイク・グリーンウェル(神)については次回以降の講釈でくわしく解説しよう。



ヒルマンの夢

「巨人に復帰するのが夢だ」
これは巨人退団決定ののちにヒルマンが語った夢。

「肩が治ったら巨人の入団テストを受けるため日本に戻って来る」
これはそれに付随するヒルマンの決意表明だ。

メディアを前に熱い決意表明をおこない。その勢いでアメリカに飛んだヒルマンは、左肩に乗った小錦もろともユニフォームを脱ぎ元気に暮らしているという。

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