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誰だってワガママな彼女にハマる

脳がどのように「反応」するかを知っておいた方がいいと考えるようになった。
なかでも、最近"認知的不協和"について思い巡らせている。

"認知的不協和"とは、人が矛盾する認知を抱えた状態や、そこからくる不快感を表す。
イソップ童話の「酸っぱい葡萄」が有名だ。キツネが葡萄を取ろうとするが、いくら背伸びしても届かない。最後には「(ちぇっ)あれは酸っぱいのさ」と吐き捨てて去っていくストーリーだ。
「欲しい、食べたい」という気持ちと、「手に入らない」という現実。この矛盾に不快感を覚え、「欲しい葡萄を食べられないのは不快だ」→「(きっと酸っぱいから)最初から欲しくなかったやい」と自身の「欲しい」という感情を矯正してしまったのだ。
誰にでも起こる、脳の動きだ。

最近読んだ『武器になる哲学』(山口周 著)では朝鮮戦争中に捕虜となった米兵を中国共産党が洗脳するときに用いた手法が紹介されていた。
洗脳の方法は捕虜に「共産党にも良い点がある」とメモに書かせ、ごくわずかな褒美(タバコやお菓子)を渡すというもの。ただそれだけだ。
莫大な賄賂や拷問などの暴力を理由にメモを書いたとしたら「〜だから共産党主義に鞍替えした」と自身の中で言い訳がたち、認知の不協和は小さいが、わずかな褒美でポリシーと異なるメモを書くのは言い訳がたたず、不協和が大きい。
それを解消するには、「共産党主義は悪」とする自身のポリシーを変えるしかない。
「たったこれだけの褒美で信念と異なることを書けるはずがない」→「つまり私は本当に『共産党主義は良い』と思っている」と矯正したのだ。このやり方で共産党主義者を急激的に増やしたという。

もっと身近な例を出そう。
よく、「ワガママな彼女にハマる」と言われる。
これも、「ハマってないのにこんなワガママに付き合うはずがない」→「つまり彼女にハマってるのだ」と脳の矯正が影響している。

「話をよく聴いてくれる人は『また会いたい』と思われる」というのも、
「特別な人じゃないのに自分のことをこんなに話すはずがない」→「つまりあの人は私にとって特別な人なのだ」と印象付けるからという説がある。

このように、相手に好意を持ってもらうため、「また会いたい」と思ってもらうために、セルフプロデュースを目的に"認知的不協和"理論を活用するのは「アリ」だと思う。
まぁ、したたかだとか小賢しいとか言われるかもしれないが、そんな批判は甘んじて受けてでも余りある効果が期待できそうだ。

一方で私が問題だと思うのは、
"認知的不協和"理論が、体罰や虐待、DVといった暴力を正当化する材料を作り出してしまうことだ。
例えば部活動でコーチから行き過ぎた「しごき」を受けていた場合、自身の半ば地獄のような日々を無駄な時間だったと思いたくない一心で「あれは自分を想ってしてくれていたんだ。真っ当な『指導』だった」と思い込もうとする人が多いという。
虐待やDVでも同じことだ。
「(愛のない)無意味な暴力を(あんなに長期間)受けるのは不快だ」→「あれは愛のある、意味のある行為だったのだ」という悲しい矯正だ。

この歪んだ思い込みは次の暴力を生み出す危険を孕んでいる。
自身が受けた暴力を正当化したい気持ちから、自身も後輩や部下に「しごき」をはたらいたり、周りの「しごき」に寛容になったりするからだ。

私は「暴力」が許されるのは、自身や周囲の人を生命・身体の危険から守るときに限定されると思っている。
であるなら、「躾」や「指導」、ましてや「愛情表現」を目的とした「暴力」が許されるはずがないし、正当化されていいはずもない。
自身の心を守るために、脳の矯正作用は生まれたのだろうが。

脳がどのように「反応」するのかを知っておいた方がいいと考えている。

自身をプロデュースするためにも。
自身の信じることを、不本意に歪めないためにも。

#認知的不協和 #心理学 #処世術


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