見出し画像

岡本忠成特集上映に寄せて

どうも、今回の川本喜八郎、岡本忠成の4K修復、および特集上映の企画を担当しました、WOWOWプラスの山下です。渋谷のイメージフォーラムでは何度かトークショーも行っておりますが(今週もこれから2回あります)、ゲストの方の相手役として登壇している者でございます。この難しい状況の中、上映やトークにお運びくださった皆様に厚く御礼申し上げます。

今回の企画の大元の発端には、僕がその昔、お二人の作品集を出していたレーザーディスク株式会社(後のパイオニアLDC)という会社に勤めていたことがあります。1987年、新卒で入社した一年目のその年に、それらレーザーディスクに収録された作品を小分けにして、VHSに収録して再リリースする、という仕事を担当することになり、この二人の作家と直に接する機会を得たのでした(作品そのものはその前から拝見していたのですが)。

そして、その会社には、僕などよりもはるかに岡本さんと濃密にかかわられていた杉山潔さんという先輩がいました。今回の4K修復版をその杉山さんにご覧いただきましたら、SNS上にとても熱い文章を書いてくださったので、それをこちらのnoteにも掲載させてくださいとお願いして、ここに実現する次第です。なお、掲載の岡本さんの写真は(株)エコーからお借りしたものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 先日、ノンフィクションライターにして編集者の武田賴政さんを誘って、渋谷のイメージフォーラムで上映中の『アニメーションの神様、その美しき世界 Vol.2&3』を観に行ってきた。先駆けて試写で見せて貰ってはいたが、やはり映画館で観たかったのだ。僅かでも興行収入の足しになれば、という想いもあった。上映は5月8日(土)からスタートしていたが、仕事やら何やらで、なかなか都合が付けられずこのタイミングとなった。

 ここで言う「アニメーション」とは、日本で広く一般的に「アニメ」と解されている作品群とはかなり趣を異にする。作家性が非常に高い主として短~中編の作品群であり、分かり易く例示すると2年に1回広島市で開かれていた(残念ながら広島市の方針変更で過去形になってしまうが)「広島国際アニメーションフェスティバル」で上映されるような一連の作品の事だ。
 実は世界的に見てみれば、所謂テレビアニメが大人向けに製作されている国は少数だ。どちらかというと、テレビアニメは「カートゥーン」として子供向けに製作されるのが世界的には主流であり、こうした作家性や芸術性の高い「インディペンデント・アニメーション」(昨今は「アート・アニメ」と呼ばれるが、私は個人的にこの呼び方が陳腐で好きではない)こそが大人(或いは広範な世代)向けとして製作されている(細かく分類するとこれ程単純ではないのだが)。とまれ、日本に於ける「アニメ」は世界的に見るとかなり特殊で偏った進化を遂げたと言っても良いだろう。

 しかし、その一方で日本にもこうした「インディペンデント・アニメーション」を制作する作家は確かに存在していて、その活躍の範囲は商業・非商業を問わず、実は幅広い。
 その中でも、今回上映された作品の演出家である岡本忠成さんと川本喜八郎さんは、日本の人形アニメーションの双星として語られる事が多いが、実は二人の手法は人形アニメーションに限定されない(二人の先達として、日本における人形アニメーションの開祖であり二人の師匠にあたる持永只仁さんが存在したが、持永さんについてはまた機会があれば紹介したい。因みに私が社会人になりたての頃に、当時の中国国営スタジオであり芸術性の高いアニメーションを制作していた上海美術電影制片廠を見学に行く機会に恵まれたが、その時紹介状を書いて下さったのは持永さんだった)。

 特に岡本さんは「素材の魔術師」と異名をとる程、その手法や使用する素材は多彩だ。立体から半立体、平面のディメンションを使い分け、一般的な人形から木彫、皮、粘度、和紙、杉板、毛糸、セルなどの多彩な素材を作品毎に使い分けるという、非常に手間暇のかかる作品制作を行った。そして、それを全国の図書館等のフィルム・ライブラリーに販売し、或いはCMや展示映像の制作等を請け負う事で生業としていた。
 川本作品にも切り紙人形を使用した作品等もあるが、やはりその主流はチェコの人形アニメーション作家、イジィ・トルンカに師事して体得した伝統的な人形アニメーションの精緻な技法に基づく作品であり、能や狂言、文学に基づき人間の情念を描いたそのテーマ性と相まって、高い芸術性を持つ人形アニメーションの極北とも言える作品群だ。
 対する岡本作品は、表現の豊かさと自由さに於いて他の追随を許さない。そして、その主たるマーケットの性格上、幼い子供にも理解できるテーマを選びながら、夫々の作品に最適な素材と手法を追求し、質感再現のためには例えセルアニメでも、1枚1枚表面に砥の粉を塗って絵具を染み込ませてキャラクターを描くという恐ろしい程の手間暇を掛けて画作りを行う事で、商業性と芸術性を高度に調和させる事に成功している。これは、所謂テレビアニメ等の商業アニメの世界にどっぷりと身を置く私からすれば、驚くべき偉業だ。

 どちらも夫々に素晴らしいのだが、仮に「どちらかを選べ」と言われたら、私は岡本作品を選ぶだろう。特に集大成ともいえる『おこんじょうるり』は、これまで上映会やLD、DVD等で幾度となく観て来ているにも関わらず、観る度に目を潤ませてしまう。今回の上映会でもそうだった。岡本作品に通底する、世の中に対する厳しい批評と名も無き者達への優しい眼差し、或いはユーモアに心を掴まれてしまうのだ。

画像1

 岡本さんと私の出会いは、大学1年か2年の頃に参加した、アニメーションワークショップ大阪というアマチュアグループが開催した、岡本さんを講師に招いての人形アニメーションのワークショップだった。大学時代の私は、こうしたインディペンデント・アニメーションにどっぷり嵌まっていた。そのワークショップで岡本さんの人柄に触れ、様々な話を聞いた事で作品への興味が掻き立てられた。以来、東京で岡本作品の上映会がある度に足繁く通い、岡本作品を追い続ける事になった。
 そして、岡本作品に惚れ込んだことで、大学の卒業論文は岡本さんについて『教育映画に於ける人形アニメーション製作の現状~岡本忠成の場合~』というタイトルで執筆した。私の専攻は社会学であるにもかかわらず、だ。その論文執筆の為に、当時住んでいた茨城県の筑波の地から埼玉県ひばりが丘の岡本さんの自宅兼スタジオまで、毎週水曜日に通い続けた。結果、完成した私の卒論を論文担当教官は「カイ論文である」と評した。「『カイ』は奇怪の『怪』であり、痛快の『快』である」と。

 1985年4月、パイオニア株式会社の100%子会社だった映像ソフト専門メーカー、レーザーディスク株式会社(後にパイオニアLDCに社名変更)に入社した後も、仕事としてではなかったが、岡本さんとの個人的なお付き合いは続いていた。当時は制作業務には就いていなかったが、いずれ同人誌に纏めようと、大学時代から3時間に渡るロングインタビューを行い、作品資料の整理・収集を続けていた。
 そのようにして付き合いを深めていく中、もし自分が結婚するような事があったら仲人をお願いしようとまで慕っていた岡本さんは、残念ながらその前に病に逝ってしまった。1990年2月16日の事だった。私は岡本さんが亡くなったその日の夜に、演出助手として岡本さんの右腕を務めていた篠原義浩さんから、アパートの固定電話(当時は携帯電話なんか無かった)にかかって来た訃報を聞いた時の衝撃を、未だに鮮明に覚えている。

 岡本さんの葬儀で、私は嗚咽した。

 その年の4月、私は制作業務に携わる事ができなかったレーザーディスク社を辞めて東芝EMI株式会社に転職し、映像プロデューサーとして歩み始めた。本当は岡本さんと仕事がしたかったがそれは果たせなかった。それでも、これで岡本さんの背中をようやく真正面に見る事ができると思った。

 その約4年半後。1994年10月10日の結婚式では、岡本夫妻に仲人をして頂く事は叶わなかったが、披露宴で奥様のさと子さんから祝辞を頂けた事は無上の喜びだった。
 そして同年、学生時代から続けていた岡本作品の資料の整理・収集作業が結実した。12月1日に角川書店から出版された資料集(ムック)『岡本忠成作品集』では、生前実施したインタビューや作品資料を提供、全作品の解説等を書かせて貰う事になった。資料集が無事出版された時、「これでようやく少し恩返しができた」と思った。

画像3

 岡本さんが亡くなって以来30年。その間、私はさらに会社を変わり、三人の子供に恵まれ、仕事も生活環境も大きく変る中で公私共に忙しい日々を送って来たものの、毎年岡本さんの墓参りは続けている。業務や新型コロナの影響でこれまで果たせない年が数回あったが、命日を忘れたことは無い。岡本さんの墓石に近況を語り掛ける度、今でも涙が溢れて来る。そして、不思議と心が穏やかになって行くのを感じる。

 私にとって岡本忠成は、真の恩師なのだ。


 今回、この4K修復を担当したプロデューサーの一人、山下泰司君は、私が新卒で入社したレーザーディスク社での二つ下の後輩だ。当時私が担当したくて堪らなかった『アニメ―ション・アニメーション・シリーズ』についても、重要な業務の一部を担うなど、映像制作業務に携わるプロデューサーとして活躍していた。
 当時のレーザーディスク社は『アニメーション・アニメーション・シリーズ』と銘打ち、日本では地味でマイナーな部類の所謂「インディペンデント・アニメーション」作品を、当時の(その世界では)名だたる世界中の作家毎に纏めた作品集として、次々とリリースしていた。
 私がレーザーディスク社を志望したのは、まさにこうした作品群や戦争映画の名画をLD化したかったからに他ならないが、残念ながら同社に勤務した5年間の間に制作部門に異動する事は叶わなかった。それはともかく、私が羨望の眼差しを送る中、山下君は制作マンとして様々な作品のリリースに携わっていたわけだ。とまれ、今思うと、この仕事は私よりも学究的な山下君の方が、担当するには相応しかったのだなと思う。

 今回の4K化も、山下君の実直な仕事ぶりが見事に実を結んでいると言えるだろう。フィルムという実在のマテリアルにアナログに記録した映像を、その質感を損なわずにデジタルの映像「信号」に置換するのは、とても難しい。スクリーンに「影」を投影して再現するフィルムと、それ自体が発光するモニターに映像信号を放出する(今回はDCPを介したスクリーン投影だが)のは、根本的に異なる方式だからだ。また解像度が少ない方式の場合は、フィルムの持つ粒子感や微妙なグラデーションがジャギーやブロックノイズのような階調割れとなってしまったり、ディテールが潰れてしまう事が多い。
 しかし、今回の4K(多くの劇場では2K上映となってしまうが)修復では、その膨大な解像度を活かしてフィルムの粒子感もそのままに、ディテールや階調が豊かに表現されていた。これは、長年フィルムを触って来た経験が無ければ出来ない仕事だと思う。目指すべきゴールが明確に定まっていた山下君だからこそ、為せる業なのだろうと思う。
 音声についても、フィルムの音声トラックから収録するにとどまらず、後期の『虹に向って』『おこんじょうるり』『注文の多い料理店』についてはまだ使用可能なシネテープが保存されていたということで、それらを素材としてさらに細かく補正するなど、現時点で考え得る限りの高音質で再現されている。

 いや、細かい技術的な事は、正直オレには良く分からない。上記の解説も間違っている部分があるかもしれない。そんな小理屈はどうでも良い。ともかく重要なのは、これらの日本アニメーション界の「至宝」とも言うべき作品群が、こうして最新の技術によって現代でも十二分に通用する姿で蘇えり、今後、相当の長さの年月に耐え得る「寿命」を得たという事だ。

 願わくば、これらの事業がビジネスとして成功し、残る岡本作品と川本作品の数々も4K修復され、より多くの人々の目に触れる状況になって欲しい。

 難しい事はともかく、普段所謂「アニメ」と呼ばれる作品しか観た事の無い人たちに、ぜひ観て欲しいと思う。「アニメーション」とは、かくも広く深く芳醇な世界なのだという事を、是非知って頂ければと念願している。

画像2

杉山 潔(すぎやま きよし)
ASIFA-JAPAN(国際アニメーションフィルム協会・日本支部) 会員
航空ジャーナリスト協会 会員
映像プロデューサー/ライター
1962年生まれ。映像ソフトメーカーで様々な商業アニメーション作品や航空・軍事映像作品を手掛ける一方、航空専門誌や模型専門誌に連載記事を持つ。1994年に刊行されたムック『岡本忠成作品集』(絶版……今年、国立映画アーカイブで開かれていた展覧会場で最後のデッドストックが完売)では、岡本忠成の生前のインタビューや作品解説等を担当。