TALK-ACTION=ZERO トークセッションまとめ

2020.01.13(月祝)、ブラジルコーヒー(名古屋市中区金山)にて「TALK - ACTION = ZERO」というタイトルのイベントを開催しました。
主催はかわにしようじbEER

『差別って何?』というタイトルで1時間強のトークセッションを行いました。ここにまとめとして、記録を残します。

イベントに際して用意されたステイトメントの朗読

ステイトメント全文はこちら

■差別は、わたしたち自身、特にこの場では「音楽を囲むわたしたち自身の」問題である。
■わたしたちは、差別と闘わなくてはならないのだ。

GET UP AND DO IT

パンクスによる被災地へのボランティア活動への、資金援助を募るアナウンスメント。援助してくれた方にはステッカーを進呈。

はじめに(登壇者紹介)

■bEER:なぜ音楽をやっている人たちは差別の話題になると口をつぐむのか。「差別ってなんだろう」と話題にする場が圧倒的に少ないのではないか。話題を共有できる場所を作ることが有効なのではと感じてこれを企画した。
■かわにしようじ:音楽をやっている人間がもっと声をあげなくてはいけないのではないかという思いからカウンター活動(差別に対抗する活動)に参加するようになり、今日のイベントにつながった。わたしとbEERくんだけでは知識がおいつかない部分もあり、大先輩きづさんをお呼びした。
きづのぶお:大先輩と言われましたが、カウンターに参加し始めたタイミングは、かわにしさんたちと誤差みたいなものです。よろしくお願いします。

差別者とは何者か、具体的に知る

<ヘイトデモの様子>および <川崎市ふれあい館に届いた年賀状>をプロジェクタ映写。

■プロジェクタ映写に先立ちアナウンスメント。これを示すのは敵を可視化するためだが、今から示すビジュアルには衝撃的な内容が含まれる。つらい方は一時的に退席を、と。

■<ヘイトデモの様子>では、2013年頃のヘイトデモと2019年のヘイト街宣を示した。そこでの最も酷い部類のヘイトスピーチプラカードと、通称「ファッションリーダー」と呼ばれる有名なヘイターを紹介した。

■<川崎市ふれあい館に届いた年賀状>は2020年の年始、川崎市ヘイトスピーチ禁止条例成立直後の出来事。脅迫であり犯罪。カウンター活動の高まりに対してヘイターの行動がエスカレートした代表的な例。また、本件のような具体的なヘイト行為にまではおよばないまでも、個々人の中にひそむヘイトの、いわば「熱量」が昨今肥大化している、という点にも注意しておきたい。

■そして――こういう連中と、わたしたちは闘わねばならないのだ。

あなたはどこにいますか?

1.あなたはどこにいますか

自分の立っている位置はどこなのか。それを考えるのが本図。中央がカウンター。

(a)『みんなでイマジンを歌おうよ!』
いわゆる歌っちゃう人。ミュージシャンにはこのタイプが多いのかもしれない。ではイマジンを歌ったらレイシストに届きますか、という疑義。たとえば、レイシストにもブルース好き、ソウルミュージック好きは沢山いることを確認しておきたい。

(b)『汚い言葉はよくないよ!』『ヘイトはだめだけど罵倒もよくない。どっちもどっち!』
いわゆる考えちゃう人。しかし、汚い言葉はよくないよ、はどうしたわけかカウンターに向けられるばかりでレイシストに向けられる様子はない。そもそも、これを言ったとて、現に差別が起きているという実際の問題を解決することにはならない。ご意見はもっともだが、こうした言説は差別を受ける人のことをおいてけぼりにしてはいないか。
「トーンポリシング」について。社会の課題に声を上げる人に対して、その主張の「内容」については反論しにくいと判断したとき、内容に直接言及するのは避け、その周辺、すなわち「話しかた」「態度」に批判を向ける手法。トーンポリシングはしばしば、カウンターの主張を無効化しようとして行われる。

(c)『マイノリティ』
マイノリティが、この資料では実線ではなく点線で囲まれている。どこにあなたが立つか、その位置によっては、あなたにはマイノリティが見えなくなっている場合があるのだ、との自覚を促すため。上記(b)のどっちもどっち論者がまさにそう。レイシストとカウンターの両方から等分に距離をとって批評するが、批評が行われているさなかにも暴力をうけているマイノリティの存在が、彼らの目には入っていない。

(d)『面白ければいい』『表現の自由』『サブカル』
「サブカルしぐさ」のもたらした罪について。露悪・本音・タブー破りが好きなのがサブカル。彼らは何となく悪いことをしているとは知りつつも、「表現の自由」を持ち出してヘイトスピーチを庇う側に立つのがカッコいいと考えてしまいがち。このサブカルしぐさが、80年代以降ずっと、公平公正を訴える側の足をひっぱる温床となってきた。地元のライブハウスでも、悪ノリ的なサブカル思考に無自覚なまま、結局はサブカルしぐさを抜け出せずに来た音楽関係者が残念ながら多く、気がかりだ。

(e)『無関心・無関係』
自分の生活を壊してまで何か活動したってうまく行かないよ論者。もしかすると差別の問題を把握していない、または、把握しているが見なかったことにして自分の生活を守りたい人々。
でも、それでいいの?火事はほんとうに対岸の火事で済むと思っているの?

関係ないつもりでいても

2,関係ないついもりでいても

(ハフポスト 河村たかし市長が座り込み、『表現の不自由展』の再開に抗議。より)

■わたし達ひとりひとりに実害があることは、あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」が開催三日で閉鎖になったという、つい最近の県下のできごとを考えれば明白。レイシズムやヘイトスピーチに無関係な人なんて居やしないのだ。

■河村たかし名古屋市長の歴史修正主義、女性蔑視、民族差別、排外主義について指摘。「河村はたしかにヘイトスピーチや歴史修正主義の肩をもつ。しかも実は河村はポピュリストに過ぎず、実際の立ち位置は特に極右というわけでもない。河村は人気とりのために意識して発言しているのではないか。だからこそ余計にタチが悪い」。

■差別が横行するこの世の中に住む、全員が当事者なのだという気づきをもって、もう一度<あなたはどこにいますか?>と考えたい。

ヘイトスピーチとは、および、差別とは構造の問題

3.ヘイトスピーチとは

(のりこえねっと「ヘイトスピーチQ&A」より)

4.差別とは構造の問題

(191211 NO HATE TV 第76回「日本人へのヘイト? あるかボケ」より)

■「どっちもどっち!」(<あなたはどこにいますか>-(b))。よく聞かれるこの発言の背景には、「差別」が何であるのかの認識があやふや、という事情がないだろうか。となると、「差別」って何?

■人にはそれぞれ、人種、国籍、民族、宗教、性的指向など、自身では変更できない属性がある。ヘイトスピーチとは、自身では変更が不可能な属性を有するマイノリティを標的に、ヘイト(憎悪・嫌悪)に基づく侮辱的表現を行うこと、およびその煽動――であるが、ここでの認識の焦点は、こうしたことを「マジョリティがマイノリティに対して行う」ことで差別になる、という部分。差別はつねに「マジョリティからマイノリティに向かって」の一方向で起こる「構造の問題」である。

■もっている権力・権利の強-弱(有-無)と、国家なり地域なりにしめる集団の構成員の多-寡とによって、社会には非対称性が生まれる。その弱い側、少ない側に属しているのがマイノリティ。マイノリティは決して、「構成員の数だけで決まるわけではない」ことに注意しておきたい。女性差別やアパルトヘイトの問題を見れば明らか。

■ネトウヨや相対主義者の口から「日本人差別」という語を聞くことがあるが、これは詭弁に過ぎない。差別は、権力や権利の強さが上の存在から下の存在へ、上から下へと落ちてくるものであり、その逆方向はあり得ない。ないものをあると主張し議論にのせようとするのがネトウヨの手口。それにのってはいけない。

■社会的な非対称性という観点を認識しないまま、「人間だったらみな平等」という考えのもと、「本音」「タブーを破る」などの言説が享楽的に消費(=ネタ消費)されることがある。「みな平等」は果たして妥当な批評態度か。たとえばサブカル言説で行けば、「皇族も障害者も同じように」ネタ消費することになる。しかし社会の非対称性の中で皇族がおかれた圧倒的な優位性と、他方、権力にも自分自身の力にも制限のある障害者がおかれた劣位性とに着目したとき、ネタ消費によってそれぞれが受けるダメージの大きさはまったく違うものになる。このようなサブカルの「タブーを破る」批評の作法は、批評をうける側に強烈なダメージを与える場合があるという点で、差別と同様の効果を作りだすことがある。こうした事態は深刻でありながら見逃されがちだ。

■現代日本の惨状。松本人志の「あ!差別してる人を差別してしまっている!差別って怖い!」(Twitter:2016/02/02)に2.9万もの「いいね」がつく嘆かわしい状態。逆張りでウケを狙おうとする芸人に迎合する大衆社会の感性。

よくある意見(もしくは、差別をめぐる常套句)

5.よくある意見

■「スルーするべき」「汚い言葉はよくない」「『当事者』無視」 「表現の自由」「それぞれの正義」「分断はよくない、対話が必要」 ――どれもこれも既に議論し尽くされ、答えはでている。

■「分断はよくない、対話が必要」――にはカール・ポパーの<寛容のパラドクス>(1945)を。言論の自由のどこかに線引きをするのだとしたら、どこに引くのか、という議論。自由な言論を保証している社会に、その社会を破綻させかねない不寛容な者たちを受け入れてしまったら、自由な言論を保証した社会そのものが破綻する。つまり不寛容な者たちに寛容であることは矛盾となるから、そうした者に対しては逆説的に不寛容であれ――という議論はすでに1945年に済んでいる。

カールホパー

にもかかわらず昨夏のトリエンナーレでは、差別主義者も受け入れるべき、という発言が出展者であるアーティスト自身の口から聞かれた。周回遅れニッポン。また同じトリエンナーレでは、「表現の不自由展・その後」展示中止をうけて、加藤翼や毒山凡太朗らが円頓寺エリアに出した企画「サナトリウム」が無制限に対話の場を提供した結果、差別煽動団体の愛国倶楽部関係者がおしかけたという例もある。
どなたでもどうぞ、としてしまうことの問題点はどこにあるのか。それは、差別主義者から攻撃されるかもという恐怖から、その空間に居ることができなくなるマイノリティを生んでしまうという点にある。「誰でも」受け入れたばかりに、結果として排除される人を出してしまうという矛盾をはらむわけだ。トリエンナーレのあの場で、運営側にはそうした意識が果たして働いていただろうか。ヘイトスピーチで傷つけられる人のことを意識したならば、分断を招く差別主義者については、これを逆説的に排除することでしか、社会の分断は回避できないと気づかされはしないだろうか。

■「それぞれの正義」――と言うけれど、正義は、社会を成り立たせるための共通認識であるべきで、そこに「それぞれの」を許す段階で、もはや共通認識とは呼べない。「それぞれの」を検討するより、明らかな悪に怒ることを優先すべき。「それぞれの正義」を容認することはつまり、誰かを批判することで自分が批判されるのを恐れているだけではないのか。

■「スルーするべき」――には複数の場面が考えられ、悪意のある場合もあれば、優しさから出てしまう場合もある。ヘイトスピーチを向けられた人が傷つけられてとても辛そうなときに、見なくていい、カウンターに出なくていい、という意味で言う「スルーするべき」がある。「スルーする」という提案をする代わりに、その人と何か一緒に行動してみる(怒るとか、何か発信するとか)なら、それが「スルーするべき」に代わる言葉となるのではないか(会場からの声)。

「カウンター」がしてきたこと(どうやってここに至ったか)

6.カウンターがしてきたこと

<編注>
本稿には、以降「レイシストをしばき隊」と「しばき隊」の二種類の用語が出てきます。
「レイシストをしばき隊」:野間易通氏の呼びかけで2013年2月から9月まで活動した団体の名称。
「しばき隊」:「レイシストをしばき隊」解散後も、その行動理念や手法を継承しつつ各地で継続しているカウンター活動の、概念を指すものとして使用する。なお、ここでは便宜上この用語にて記述するが、こうした活動の参加者が、必ずしも自らを「しばき隊」と認識しているわけではない。その点についてはここで注意を促しておきたい。

■レイシストをしばき隊(2013)――差別主義者との直接対峙を集団的に行った、おそらく日本で初めての活動。ヘイトスピーチの現場で差別主義者に向き合い、身体を張って、しかし非暴力でヘイトスピーチを止めさせることを旨とした。
「レイシストをしばき隊」の出現以前にもカウンターは居たが、当時はあくまでもごく少数、また、差別を受ける側の人たちからの告発が行動の起点となることが多かった。一方、「レイシストをしばき隊」はヘイトスピーチを日本社会の公正の問題として捉え、「この社会に」ヘイトスピーチがあるのは許さない、という立場を固持、レイシストと直接対峙するというスタイルで、在特会による新大久保「お散歩」の阻止などを成功させた。

■こうしたカウンター活動は、2011年、3.11以降に反原発デモなどの社会運動で市民が路上に出た経験が源流となっている。そうしたデモの経験が、いわば予行演習の役割を果たして始まったもの。かつての、「スルーしたほうがよい」「ああいう連中は誰も理解しないから無視しておけば自滅する」言説で10年近く放置してきた結果、差別主義者は自滅するばかりか激増してしまった。それに対する「レイシストをしばき隊」の具体的なアクションを見て、これならやれるのではないか、やらねばならないのではないかと思う人がたくさん出てきた。また反原発運動により、社会の公正性が損なわれ非対称性が遍在するという現実(原発がある地域の人たちばかりが負担を被る、被災地では多くの土地が放射能で汚染されたのに電力供給を受ける都市部では影響を受けない等)が可視化された流れともリンクした。

■「レイシストをしばき隊」のような罵倒型のカウンター手法には、人により向き不向きがある、という気づきも出てきた。ここから、より多様な活動が生まれる。その最たるものが、①サイレントの抗議手法である「プラカ隊」、②「おしらせカンパニー」に代表されるさまざまな周知活動、③豊富な周知ツールの開発(NO HATE風呂敷、ティッシュ、うちわ等)である。あくまでも一般通行人に向けて何が起きているのかをねばり強く周知し続ける「おしらせカンパニー」の訴求力は高く、全国に手法が拡がった。また周知ツールは、「しばき隊」のネットワークとはまったく無関係な個人の手によるものもあり、発信者の多様化が進む。カウンター行動の自主性、活動の方向性やツールの創意工夫の幅は拡がりを見せており、活動のクラウド化(抗議者がまるで雲のようにどこからともなく集まり、いつのまにか消えていることへの喩え)は絶えず進行している。

「しばき隊」が示したこと

7.「しばき隊」が示したこと

■差別されている人「が可哀想/を助けてあげる」といったような、マイノリティに向かう視線で反差別の行動をするのではない。被差別者からの告発に応じて行うものでもない。差別は、当該社会を構成するマジョリティの側が責任を負うべき問題だから、マイノリティに寄り添うも寄り添わないもない。――「しばき隊」は、反差別とはマジョリティの全員が立ち上がってとりくむべきこと、という認識を広めた。

■「しばき隊」は、差別主義者に直接対峙するカウンター行動を示した。「なぜヘイトスピーチは起きてしまうんでしょう」と考えている間にも差別に傷つく人は生まれる。『イマジン』をどれだけ歌っても、歌うだけでは差別は止まない。殴られている人を見たら、まず殴っている奴を止める、そこに尽きるだろうという認識。

めざすべき社会

8,めざすべき社会

■社会全体で差別に対して怒る、社会全体で差別は止めろと言う。差別が行われていることを無視すること、差別に何も言わずにいることは、差別を受け入れ、差別に加担することにしかならない。

(会場からの声)「闘う」とはどういうことなのかを聞かせてほしい。とどのつまり事態がどうなれば「勝ち」なんですか:
公の場で差別的な言動を発する人を黙らせること。差別をおおっぴらに口にする人たちをメインストリームから排除し、差別が起きないよう目を配り続けること、それが「闘う」ということ。当然のことながら内心の自由は奪えない。差別主義的な考えをもっている人が自宅で自室に引きこもって押し入れの中で差別的なことを言うところまでは規制しないし、規制したくてもできない。差別をする連中に公の場でモノを言わせなくするところまででひとまずは良しとする。差別を根絶することより、まずは社会で差別的なことを言えなくするところを目指す。

ートークセッション終わりー

最後に

・会場の金山ブラジルコーヒー、ライブ出演いただいた板屋貴司さん、角田波健太さん、ありがとうございました。
・まとめには、いのみさをさんにご尽力いただきました。感謝いたします。
・朝日新聞2020年1月24日愛知県版にてこのイベントが紹介されました。
 愛知)「無視や沈黙は差別への加担」ヘイト問題を考えた:朝日新聞デジタル

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2020/02/11
以下2か所を修正しました。
・『「しばき隊」が示したこと』中の不要な改行を削除
・『めざすべき社会』助詞「で」の抜けを訂正
 「差別をする連中に公の場でモノを言わせなくするところまでひとまずは良しとする。」