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最高の居場所の2つの条件 #居場所の未来

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最悪の居場所

中学時代、僕はいわゆる『いじられキャラ』だった。

ことあるごとに笑いのネタにされて、ゆるやかに自尊心が死んでいく中で、僕は、怒りもせず、泣きもせず、
仲間はずれにされるよりかはマシだと、自分自身を慰めながら、
ただただ卑屈な追従笑いを浮かべていた。

学校の中の、自分の『居場所』を守るために。

学校生活では、あらゆる行動様式において『群れ』であることが求められる。
授業のグループ活動や、体育のチーム競技だけではない。
食事から排泄まで、「群れ」として行動しなければならない暗黙のプレッシャーが、学校という空間には蔓延している。
そしていうまでもなく、群れからハブられた人間の学校生活は、地獄だ。

だから僕は、笑い者にされながら、そして卑屈な笑みを浮かべながらでも、卒業まで学校生活をやり過ごすために、「いじられキャラ」としてその『群れ』にしがみついていた。

当時の僕は、それが学校の中で『自分の居場所』を確保する方法であると、信じていた。

良い居場所の2つの条件

仲間はずれや疎外感が「居場所の喪失」であると定義するなら、少なくとも、「いじられキャラ」の僕には居場所があった。

授業でグループをつくる友人はいたし、一緒に昼食をとる友人もいたし、連れションにいく友人もいた。

問題は、その居場所にいればいるほど、自尊心が磨耗して、自分が嫌いになり、白髪が増えていくことくらいだった。
当時の僕は、『自分は何においても平均以下の人間なのだ』と思い込んでいた。自分の努力を棚に上げて、親を恨んだことさえあった。
今まで生きた中で一番多く『自殺』を考えたのは、中学時代だった。

しかし、そうした問題を思春期特有の情緒不安定として片付けてしまえば、僕は表面的にはまっとうな生徒で、学校の中に『居る場所』のある人間だった。
少なくとも、学校をやり過ごすための『群れ』からは外れてはいなかった。

ただ、僕はその『居場所』や『群れ』に、居るのがツラかったのだ。

イルノハツライ、しかし、卒業証書のためにはその居場所にしがみつくしかない。

これはいうまでもなく、『悪い居場所』だろう。

では、『良い居場所』というものもあるのか?
それはどういうものなのか?

僕は幸運にも、「最悪の居場所」に苦しんでいたときと同じ時期に、「最高の居場所」にも出会っていた。

そして僕は、今こうしてnoteを書くまで、最高の居場所に出会っていたことに気づいていなかった。

中学時代の僕にとっての最高の居場所。

それは『ニコニコ動画』だった。

このサービスには、最高の居場所をつくる『2つの条件』が揃っていた。

良い居場所の条件①『リアクションが返ってくる』。

今振り返って考えれば、
鬱屈した中学時代に僕を救ってくれたのは、ニコニコ動画だった。

僕が動画を投稿したきっかけは、ささいなことだったと思う。

僕は小学生の時から漫画が好きで、いつか自分自身でも漫画を描きたいと思っていたものの、絵が絶望的に下手くそだったので、作家としてスタート地点に立つ前から創作を諦めていた。

そんなときにニコニコ動画で出会ったのが、『紙芝居クリエイター』というツールでつくられたセリフベースのストーリー動画だった。

これなら僕にも作れそうだと思ったし、荒木飛呂彦や広江礼威の作品のようなキャラクター同士の小気味良い掛け合いが大好きだった僕は、このツールを使って、僕の「好きなもの」の真似事がしたいと思った。

そこに大きなドラマはなかったし、初投稿の動画の再生回数も多くはなかった。

でも僕の人生は、明らかにこのときから持ち直すことができた。

僕は、ニコニコ動画は最高のコミュニティサービスだと思う。

確かに、ニコ動はYoutubeに比べて、再生回数やインフラの面では劣るかもしれない。

しかし、匿名かつ動画一体型のコメント機能は、Youtubeよりもユーザーが気軽にコメントをしやすい。

動画の笑いどころで「www」と投稿してもらったり、動画の初めに「upotu」と投稿してもらったり、動画の最後に「乙」とコメントをもらうのは、Youtubeでは難しい。
しかし、そんな些細なリアクションが、動画投稿者にとっては次の作品のモチベーションになる。

ニコ動のコメント機能は、再生回数の少ない零細動画投稿者にとっては、創作のモチベーションにつながりやすい。

ニコ動の視聴者がリアクションをしやすい仕組みは、クリエイターが創作を続けやすい環境だった。

この環境のおかげで、次第に僕は動画制作にのめり込んでいくようになった。
投稿を続けるうちに、「面白い」「次回も待ってます」というコメントが届くようになり、僕はさらに動画制作にのめり込んでいくようになった。

そして投稿を続ければ続けるほど、僕を応援してくれるファンが増えてくれた。

ファンの方に、はじめて僕の動画の絵を描いてもらったときは、嬉しさで打ち震えた。

その嬉しさを糧に、さらに投稿を続けていくうちに、次第にコメントの数やファンアートの数も増えていった。

「僕の作品を待ってくれている人たちがいる」

学校の教室で死にかけていた自尊心は、しだいに、画面の向こう側で息を吹き返していった。

結果として僕は、1年以上かけて、52本のストーリー動画を投稿し、物語を完結させることができた。

この体験から自信をつけた僕は、本気で漫画家を目指し、高校時代には週刊少年ジャンプで漫画賞をとることができた。
インターネットの片隅で必死に動画を投稿する中で培ったストーリーテリング技術が、商業誌にも評価されたのだ。

僕は今では、作家の命を救うために出版に革命を起こすべく、Webサービスを開発しているが、
僕の「手を動かしてものをつくり続ける」という姿勢は、突き詰めれば、あの中学時代に「つくることで救われた」という原体験が根底にある。

今振り返ればあの時のニコニコ動画は、僕の人生の転機であり、そして僕の荒んだ心のよりどころとなる最高の居場所だったのだ。

そしてそれを実現したのは、ニコニコ動画の『リアクションのしやすさ』だったのだ。

なぜ良い居場所には、ニコ動のような『リアクションのしやすさ』が重要なのか?

それは、リアクションは『居てもいい』という承認でもあるからだ。

学校のイジメの中で一番心にこたえるものは、暴力よりも『無視(シカト)』だ。

再生数が少ない初期の段階で、僕が動画を投稿し続けられたのは、僕の動画が少ない視聴者の方々に『シカト』されなかったからだ。

動画についたコメントは、僕が動画を投稿しても良いのだという承認になった。

リアクションによる承認は、行動を生む。
僕の動画投稿という行動はいつも、コメントやファンアートといったリアクションに助けられていた。
そして僕は動画の中に、コメントへの返事や、描いてもらったファンアートを取り入れて、ファンの行動にリアクションを返した。
こうした『承認と行動のフィードバックループ』を回し続ければ、そこには『熱量ある良いコミュニティ』が生まれる。

いやもっと単純化すると、肯定的なリアクションの連鎖によって、良い居場所がつくられる。

肯定的なリアクションといっても、そんなに大したものでなくてもいい。
「www」の三文字でも十分、僕らは居場所に承認されたと感じる。

SlackでもfacebookグループでもDiscordでも、その他あらゆるオンラインコミュニティサービスでも、そして現実でも、良い居場所をつくりたいなら、僕たちは肯定的なリアクションを忘れてはいけない。

忘れられがちな要素だが、実はとても大事なことだ。


良い居場所の条件②『好きをさらけだせる』

僕は学校では、「隠れオタク」だった。

好きなものを好きと言えない、臆病な人間だった。

僕の学生時代の友人で、僕がニコニコ動画にガチにオタクなストーリー動画を投稿していたことを知っている人間は、誰一人としていない。

それは学校という居場所は、僕の「好き」をさらけ出せるほど心理的に安全な場所ではなかったからだ。

今はどうかは知らないけれど、僕の学生時代は、少なくとも僕の学校のスクールカーストにおいては、『オタク』というのはバッドステータスだった。

僕は、自ら自分の不利益になることは言わない程度には、政治的に賢明な人間だったから、自分が『オタクコンテンツ』が好きなことはずっと隠してきた。

イケてる人間だと思われたいだなんて、高望みはしない。
しかし、『キモイ』人間だと思われて、学校の中での自分の居場所を危うくすることだけは、避けたかった。

だから隠れオタクとして、「偽りの自己」で学校生活をやり過ごしてきた。

臨床心理学者の東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ』には、「本当の自己」と「偽りの自己」について興味深い説明がある。

僕の言葉でまとめると....
僕らは環境を信頼しきっているとき、安心して「本当の自己」をさらけ出せるが、それができないとき、生き延びるために「偽りの自己」をつくり出す。
「本当の自己」が現れるのは、「自分が脅かされることがない」と環境を完全に信頼しているときであり、環境に依存しているときである。

この東畑さんの説明は、とても腹落ちした。

確かに、僕は学校という環境をまったく信頼していなかった。
優しさを見せれば「パシリ」に使われ、弱みを見せれば「いじり」という名のマウンティングが飛んでくるあの環境で、いったい何を信頼しろというのか。
マウントを取り合ってカーストを築いているあの危うい環境で、僕が「隠れオタク」であったことは、十分に弁護可能であったように思う。

一方で僕は、僕の動画の視聴者やファンの人たちを信頼し、依存していた。
そして僕はその依存に、今こうして振り返るまで気づいていなかった。

彼らなら、僕の好きなことや僕の作品を『キモイ』とは言わないだろうと、無意識に信頼していた。
格好つけずに、オタクな自分をさらけ出したとしても、「脅かされない」と信頼し、彼らの優しさに気づかずに依存していた。

「本当の自己」を安心してさらけ出せる環境。
これは良い居場所の条件の2つ目にあげられると思う。

オンラインカウンセリングサービスを運営するcotreeの櫻本真理さんも、自身のnoteで居場所をつくる要素の1つとして「ありのままでいられること」をあげている。

櫻本さんがいう『ありのまま』というのは、『ダメな自分のまま』という意味だ。
さらけ出した「本当の自己」なんて、ダメに決まってる。

僕でいえば、カースト上位のウェイ系な人たちは、僕の作品を「キモイ」というだろう。
でも、僕はそういうのが好きなんだ。そういう性癖なんだ。
キモイ僕を、キモイ僕のまま受け入れてくれる場所。
それが僕にとって「良い居場所」であり、僕の場合は、ニコニコ動画だった。

ドラゴン桜や宇宙兄弟の編集者の佐渡島庸平さんは、「コルクラボ」という「コミュニティを学ぶコミュニティ」を運営している。

このコルクラボの行動指針で僕が好きだったものに「さらけ出す」というものがあった(今は「好きなことにのめりこむ」に変わっている)。

情報の拡散性が上がり、思わぬところから批判が飛んでくる現代社会においては、『好きなことを好きである』とさらけ出すのは難しい。
そのさらけ出しをするためには、環境に対する信頼や心理的安全が必要であり、その安全の整備を含めて「さらけ出せる」環境をつくるのは、コミュニティにおいて重要なことなのではないかと思う。

良い居場所では、自分の好きなことに全力で取り組むことができる。
そして突き抜けた「好き」には、熱狂が生まれ、仲間ができる。

僕の例で言えば、僕の作品にも批判者がいなかったわけではなかった。

しかし、そうした批判に応え、僕の作品の弁護をしてくれた人は、僕の作品を心から楽しんでくれている人たちだった。

ニコニコ動画にせよwikipediaにせよ、そこに書き込む人たちは匿名で、誰が誰かはわからない。
しかし僕は、その匿名の誰かたちに、実名を知っている学校の友人以上に、「好き」を根元にした強いつながりと愛を感じたのだ。

良い居場所には、名前も、場所も、必要ない。

「好きなことを好きだと言えるほどに、ありのままの自分でいられること」

それが一番重要なのだ。


まとめ

ここまで『学校』と『ニコニコ動画』という、個人的に「悪い居場所」と「良い居場所」を対比して、良い居場所の2つの条件を考えてきました。

良い居場所の2つの条件をシンプルにまとめると、次のようになります。

・行動に対して、肯定的なリアクションが返ってきやすい。
・好きなことを好きだと言えるほどに、ありのままの自分でいられる。

もちろん、これは個人的な体験をもとにした僕の意見です。

他の意見だって、きっとあると思います。

もし他にもこんな居場所がある!というかたは、ぜひTwitterやnoteで「#居場所の未来」とハッシュタグをつけて投稿していただければ嬉しいです!

居場所の未来

3/28日。
このnoteでも触れた、家入一真さん、櫻本真理さん、佐渡島庸平さん、東畑開人さんという豪華ゲストをお招きして、コミュニティについて考えるイベント『居場所の未来』を開催します。

司会はわたくし、かわんじです。

上記のPeatixでチケットを購入する他にも、このnoteを3000円で購入することでイベントに参加することもできます。

また、このnote購入者には限定特典として、僕の中学時代の居場所である『ストーリー動画』も公開いたします。

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イベントが終了したので、1000円で僕の作品を閲覧できるようにしました。

中学生の作品なので拙い部分も多いですが、見返したら、今でもかなり面白かったです。
自分の「好き」を妥協せずに表現したので、自分にウケるのは当然といえば当然なのではありますが...。

ただやはり、文脈を共有していない人たちに公開するのは恥ずかしいので、動画は僕とあなたの秘密にしてください。

それでは、ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!


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あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!