「働いていなかった=何もしていない」は間違い

今日一日はどんな日でしたか?何もしなかった、という人もいるのではないでしょうか。私は最近、1日の大半が仕事、残りが睡眠と食事、洗濯家事もろもろ、という極端な生活をおくっています。ニートして半年以上引きこもってた頃と比べると全く違う生活です。ニート三昧の生活から仕事三昧の生活へ。しかしそのことで気づいたことがあります。

ニート期間は無駄ではない、ということ。そして、働いていない=何もして来なかった、ではないということ。確かに、長期間働いていなかった、というと今さら働きたいと思っても採用してくれない会社が大半です。経歴だけ見られて、はいサヨウナラ。白い目で見られたり、実家が太くていいね、と羨ましがられることは避けられません。しかし、それはあくまでもあなたや私の中のリトル世間の反応であって、自分が過ごしてきた時間を否定する材料にはならないわけです。

そもそも、仕事ってなんでしょう?

私の中の定義では、社会的に認められることでもなければ、時間を切り売りすることでもありません。それはあくまでも労働者という立場に自分を置くことでしかない。私が言いたい「仕事」とはまた別の問題です。

ちなみに、文明が発達するはるかに以前から、人類は仕事をしてます。仕事をしないと生きていけないからです。仕事のできない人はできる人に食わせてもらわないと生きていけません。それは衣食住を確保するために必要なあらゆる行動です。原始社会では衣食住はみんな個人で、自分でなんとかしていました。食べ物は狩をして手に入れ、服は機織りをして作り、木を切って家を建てる。現代社会では分業が進み、誰もがお互いに必要な物資やサービスを互いに補完し合う関係です。その潤滑油がお金です。

ところが、お金の介在しない行動も、人が生きていくには必要です。家事をする、近所の人と話をする、町内の草抜きをする、ゴミ拾いをするなども、お金はもらえないけど、その街で人が生きていくには必要な行動です。フェミニストなどは専業主婦を問題にしたり敬遠したりしますがまさに、貨幣経済から距離を置いた立場にあるために不平等が生まれやすいのです。私の学校の家庭科の先生はよく繰り返していましたが「家事は無償の労働です。」。問題は拘束時間の長さ。何時から何時まで拘束されているか、労働時間を考えれば明らかでしょう。文字通り朝から晩までです。主婦が平日の昼間にお茶会をするのはそこが唯一の自由時間だからです。

主婦は大変ですね。ですが、ニートだって何もしないというわけではありません。それは、一日の行動を記録しないから「今日も何もしなかった」という感想になるだけです。人間である以上、何もしないというわけにはいきません。ご飯を食べたり、ゴミを捨てたりた、風呂に入ったり、いろいろなことをしてます。気を紛らわせるためにする様々な行動もあります。本当に何にもするなと言われたら人間は生きていけないわけです。

何もしない人がいたとすればそれは独房の囚人です。刑務所にも作業がありますが、それは何もしないと人間は本当におかしくなってしまうからだと思います。更生させる意味合いもあると思いますが。

セルフネグレクトという状態は刑務所より悪いです。自分で自分がとる行動を制限して生きるのに必要な行動をとらなくなってしまう状態です。すぐに生きていけなくなります。社会とのつながりを感じにくくなり、自分で自分を独房に監禁する状態は自己と社会の否定、生きることへの否定です。

考えてみれば、もしも人類が100人しかいなくて、もしも自分がその1人だったらほぼ確実に、絶対仕事があるはずで、誰かから必要とされたり、感謝されたりすることがあるはずです。そのようなことが起こらないとすれば、人の目の届かないところで生きているからです。貨幣経済の中で消費という行動だけで自分の生命が維持できるという思い込みに囚われてしまって自分で自分を独房に閉じ込めていることに気付いていないのです。これは働いている人にも言えます。自分の仕事が誰かに感謝されないとか、やって当たり前と思われている状況に身を置いているとすれば不健康です。社会とのつながりを意識する時間を作るべきです。

まとめれば、お金がもらえるもらえないに関わらず、どんな行動にも必ず意味があります。そして、お金がもらえてるとしても、人から必要とされたり感謝されない限り、社会とのつながりがないのと同じになってしまいます。お金とものを交換する、消費するだけでは人は生きていけません。すごい小さなことでも、落とし物を拾って届けるとか、道のわからない人に教えるとか、些細なことがあるから人は生きていられるのです。

ニートは働いていない分、貨幣経済を介在しない行動を多くとるチャンスがあります。世の中は実は、先述したような些細な「仕事」に満ち満ちています。お金の介在する仕事だけをする生活をしていると「仕事」を見つけることができなくなります。ニートにはそのようなチャンスがあるわけですね。だからこそ、どのような行動も意味があるし、考えてみると気付きがたくさん見つかわけです。人から感謝されない自己満足の哲学や創作活動なども、自己を満足させているので、自己の生存に有利にはたらいているわけです。それを人の役に立つように加工するのはまた別に技術が必要ですが、そういうものが創作活動だったり、芸術、執筆、などと呼ばれて成功すればお金を得られるわけです。そしてお金を得られないからと言って不必要ではありません。そもそも、必要、不必要という尺度自体、必要ありません。生きていくのに仕事が必要だし、生きていくのにある程度の生産性が必要というだけの話で、世界が100人の村だったら100人が生きられるだけの必要なものが揃えば誰も文句はありませんね。100人いたらまあ、20人くらいはちゃんと働かないので、それはそういうものです。この世の中摂理です。おおめにみてくれるでしょう。そして、「自分が生きていくのに必要な、生産的でない行動」は自分が生きていくのに必要なので、「不必要」ではないわけです。あくまでも感じ方の違いであって世間から隔離されて後ろめたい気持ちが強いという「感じ方」の問題です。「私は社会に必要とされない」はあくまでも感じ方の問題。自分が社会を必要としていることを自覚して必要としなければ生きていけない、というのがリアルな現実なんです。

生きるか死ぬか、どっちを選びますかって話。中途半端でもいい。だいたいみんな生きる方を選んでますね。たまに死ぬやつもいるけど。そういう思い切りの良さを持つ人は尊敬します。


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