あなたは陰謀論についてどう思いますか?(ご意見お聞かせください)

この文ではコ□ナ陰謀論について比較し、その根本的な問題を明らかにした上で然るべき情報収集のあり方、考え方を検討するものである。

ネット上で目にする限りでは、二通りの「陰謀論」が存在した。

【1】コ□ナは中国共産党がウイルス兵器を開発中に、研究所から漏れだしたものであり、エボラ出血熱にも匹敵する殺人ウイルスだ。無症状が感染源、スーパースプレッダーとなって感染者が出て大変だ。人造ウイルスだから今までに無い未知の症状と様相を示す。自粛しない若い人がコ⬜︎ナを広めてて緊急事態宣言は終わらない。しかし、世界の研究者達の不断の努力により、通常5年や10年かかるワクチン開発が、なんと、1年足らずで完成し、治験も完璧に終えたのでやっとひと安心だ。ところが中国共産党の工作員はコロナが世界に広まって欲しいと考えているのでワク千ンの危険性を訴えたり自粛を拒んでいるらしい。医療従事者はコ□ナと戦ってくれてる。感謝!というもの。



【2】新型コ□ナは本当は存在せず、ワク千ンは製薬会社が作った毒であり、人口を削減することが目的である。機械化やAIの活用が進めば人間は要らなくなる。機械を所有する一部のユ夕ヤ人資本家が企んだイルミナティーの陰謀だ。ただし、トランプ大統領やQアノンという正義の組織はそれに対抗する手段であり、人類の希望である、というもの。

わけわからないし、つっこみどころが多すぎるが、陰謀論に対する反論をかいつまむとこうなる。

・そもそもウイルス兵器は兵器として終わっている。感染力がつよいならば制御できないし、兵器を使用した者がダメージを受けてしまう。これでは役に立たないどころか自殺行為だ。人が簡単に死ぬウイルスなら感染力を誇ることはできないのだ。ある程度動けて咳をして広めるような軽い風邪だからこそ、広がるのである。その場で死んでしまったら広がらない。物の道理としてウイルス兵器はあり得ない。👈(ウイルスではないが、細菌兵器が実際に使われた例もあるが制御出来ず結局失敗に終わっている。やったのは日本軍!)

・人口削減をするなら毒を打たせなくても方法はいくらでもある。中国の一人っ子政策など、出生率を抑えることで人口が抑制された例がある。日本の人口ピラミッドを確認する限り、少子高齢化で、放っといても人口は減るだけ、それ以上にわざわざ死亡させて減らすような真似をすれば労働力の減少と経済の停滞を招き、資本家の得られる利益が少なくなるだろう。それにイルミナティー、Qアノンなど、オカルト陰謀論だし、まともな人なら誰も相手にしない。人種差別はやめよう。👈


賛成するところは「医療従事者に感謝」と「ワク千ンは安全ではない」ことだけだ。
だが、本質的な問題はそこではない。両者に共通する問題こそ、最大のテーマである。

まずは前提からはっきりさせよう。悪の組織、あるいは大きな危険が人類を破滅させようとしていて、それに立ち向かうヒーローがみんなを守っている、そんな世界観は漫画や映画にありがちだが現実はどうだろうか?「そんなのは絵空事で、現実はもっと厳しい」と言う人もいれば、「フィクションではヒーローを際立たせるために悪役を作っているのだ。現実世界では悪いように見える人にも何か考えがあるに違いない」と主張する人もいるだろう。いずれにしても人は多かれ少なかれ、希望的観測というものを捨てられない。この世界が安全で、公正なものだと信じたい。邪悪で危険なものから何か大きな力が守ってくれているのだと積極的に信じようとする。だからこそ、悪の組織とスーパーヒーローの構図はフィクションにおいて人の心を捉えて離さない。

フィクションばかりではない。空想に留まらず日本国民の現実への認識として、それは現実世界に侵攻してきていると私は感じる。

例えば同年代(20~30代)と政治の話をする場合だ。政治家の汚職などの不条理について話題にする時「政治家にも何か都合があるのだ」とか「議員は大変な仕事で国民を守っているんだからそれくらい寛容になろう」と返事が返ってくる。大抵の場合、政治家達の存在意義はプラマイ、プラスだからマイナスには目をつぶろうという方向に話が進む。実際に数字を使ってプラマイの計算をして評価することは現実的ではないので汚職政治家でもいた方がいいのかそうじゃないのかの判断は客観的にはつかない。だからそれで話はうやむやになる。だいたい政治の話はいつもこんな感じだ。

思えば、現実世界には危険がいっぱいだ。病気や貧困、侵略戦争など、恐ろしいものから守ってくれる国家という後ろ楯が脆弱、あるいは邪悪なものであっては困る。そんな現実を信じるぐらいなら、国家が我々の安全を保証していると信じていた方が幸せというものだ。現実がどちらにせよ、客観的な数字や証拠でもってそれらを評価することができないのならば、どちらを信じていても根拠など有りはしない。だから幸せな方を選んで信じている。

このように私達は無意識に信じたい現実を選択して信じていると自覚した方が良い。悪役(危険)とそれから守ってくれるヒーローの構図は何を論じていても浮かび上がってしまう。あるいはそのように仕組まれているかも知れない。例えば第二次世界大戦ではヒトラーがそれをやった。貧困にあえぐ市民に仕事を与え、共通の「憎むべき」敵を作り、そして権力を一手に集中した。そう、悪(危険)とヒーロー(救いの手)の構図は、権力を欲する者にとっては大変都合がいいのだ。この世に権力を欲するものがいる限り、あるいはキャッチセールスや詐欺師がいる限り、「危険」と「救いの手」の構図は人々の話題の中心であり続けるだろう。

さて、世の中には悪いことをする人がいっぱいいる。そしてたいていは捕まって牢屋に入っている、そう信じるのも別に構わない。あるいは悪いことをしても捕まらない犯罪者がほとんどで、捕まっているのは氷山の一角だと考えるのも構わない。はたまた、法律というものは穴だらけ。悪いことというのは世の中のルールを知り尽くした人々によって法律の網の目をくぐり合法的、かつ日常に行われていると考えるのも構わない。

しかしながら、私達が忘れてはならないのは私達の命や生活を支えているものを見極め、優先順位の大きさを知ることである。大きな不安の前では何かにすがりたくもなってしまうが、足元が疎かになっては不安定になってしまう。まさに我を忘れるという状態だ。

大きな不安に襲われた時は圧倒され、それが非常に大きなものに感じてしまうが、人間の命や生活を支えるものは空気や水、食べ物、免疫力など、当たり前として感じているものばかりである。

人間の成り立ちにおいてもそうだ。満点の星、雲のように広がる銀河の中の一粒、その星の周りを回る青い星は水をたたえ、光を受け、熱のエネルギーは雨を降らせ、植物や動物を育む。それを食べて人は生きる。他の大多数の動物と同じように、人間は動物の一種だ。厳しい環境にも生きていく全ての動物にあるように潜在的な力が備わっている。それにプラスして考える力、知恵、協力する力が備わっている。人間という種は少なくとも2万年という歴史を誇り、農耕牧畜など文明社会の時代はほんの6000年ほどだ。狩猟採集民族だった人類の多くはそれまで、己の身体能力と知恵、どちらかと言えば動物に近い能力を頼りに生きてきた。しかし、農耕を始めるに当たって土地や財産を所有するという概念が生まれ、不平等や盗みが生まれた。働かずに財産を手に入れようとする盗賊が後を絶たなかった。そこで人々は別な盗賊に頼んでそれらから身を守ってもらう代わりに彼らに貢ぎ物をすることを覚えた。権力者の登場である。現代でもヤクザと言われる人々はみかじめ料をもらっていまだにこのような仕事をしている。
古代の人々はまた、天変地異や病気を恐れた。呪いや祈祷を行う者に助言を求め、貢ぎ物をして災いができないように祈った。宗教勢力の始まりである。

不安や恐怖というのは実態を持つこともあれば実態が無いこともある。宗教勢力は時に実態が無い不安をも利用して金をかき集めた。中世キリスト教の免罪符などが良い例だ。人類は知恵や考える力を手にいれたが同時に、未来への不安というマイナス要因をも手にしてしまったのである。

2つの国が向かいあっていて、お互いに攻撃して来ないか不安になる。不安になった国民感情、そして政府。金貸しがどちらの国にも軍事費を融資する。大量の武器が購入される。破綻する財政、「貧乏なのは隣国のせいだ!」と謳う政府。さらに緊張状態が続く。戦争はかくのごとく行われる。

よく「人の不安は飯の種」なんていうが、不安や恐怖ほど人を動かし詐欺師や宗教家を儲けさせるものはない。だがその道は不幸まっしぐらである。不安をうまく自己コントロールし、他人に振り回されないようになるだけで、人間の幸福度は確実に上昇する。それだけでなく、冷静な視点や判断力も身につくようになる。それこそが知恵や考える力を得た人類の最も大きな課題ではなかろうか?

私自身の経験で言えば、不安という精神的なものは精神的な根性や強気で解決できるものではない。忘れようとすればするほど、それは強く脳裏に刻まれる。机上の空論はさらに空回りして有りもしない妄想が支配する。

精神的な問題を解決するのは精神ではなく肉体だ。歩いたり走ったり、とにかく体を動かすこと。そして実際的な問題にできるだけ多くの脳ミソを使うことである。料理をする、工作をする、木材をカットしたり、魚を捕まえたり、人の体調を気遣ったり、とにかく現実世界の実体のあるものと思考をリンクさせることが、いつの間にか不安を大したものでなくさせてくれる。「未来」「不安」という不確かなものが人の頭を支配するのは、それだけ生活が人間に物質感や実在感を感じさせなくなるぐらい便利になっているということだ。それまで狩猟採集民族が、道具を作ったり生活の為だけに費やしていた時間は、文明人には希薄なのである。世の中が便利になればなるほど、「不安」や「未来」が人の頭を支配して、「物質」や「目の前」を疎かにしてしまう。2万年程も長い間、「物質」と「目の前」と向き合ってきた人類がいきなり便利な生活を送り手を動かさなくなり、情報の渦に埋もれて現実を失ってしまうのも無理からぬ話ではないかと考える。

あなたは脳の地図というのを見たことがあるだろうか?目や手、足、腹など、どの部位が一番脳の神経が集中しているかを表しているが、やはり大きいのは手なのである。人間の脳が発達したのは手を使うおかげだと言われている。

何でもいいから衣食住、どれかを支えるような手仕事をした上で情報をとらえ直せば、もっと冷静に、着実に受けとれるはずである。自身が過ごす1日のうち、睡眠や休息は8時間、労働は8時間、食事や風呂は1、2時間。そして通勤、通学。生命を維持するための行動にほとんどを費やしている。その衣食住に必要な資源は地球という星の恵まれた環境から間接的に供給され、それを享受する為の労力は自分自身の能力、体力、知恵によって供給されている。ところが、今の人間の社会は分業がほとんどだから日用品や食料も自分では作らない。だから、それらを自分の力で得た実感に乏しい。生活物資に限らず情報や思想も、それが「どこから」「どうやって」やって来たのか疑問を持つことさえ忘れている。頑張って働いたのに、あるいは頑張って勉強したのに自分に自信が無く、自分がどういう人間かすらわからず、これでいいのか悪いのか誰かに決めてもらわないと落ち着かない。簡単に不安に支配されてしまう。根本的なことを考えることよりも誰かに評価されることだけを念頭において考え、行動してしまうのである。なんとなく落ち着くからという理由で。そこには根拠もなければ整合性もない。

手を使う仕事は別だ。しっかりとした基礎や原理、条件、技術、準備が整っていなければ成功しない。結果は嘘をつかない。自然と、物事の成り立ちや仕組みを理解しようとする思考力が芽生えてくる。着実で根拠を持った物事へのとらえ方というのはこのようなところからしか生まれない。「未来」や「不安」という不確かなものから自由になる第一歩である。

とりあえずはビタミン剤でビタミンを補ってジャンクフードで過ごす1日と、栄養のある食材で作った料理を楽しみ、ビタミン剤を飲まない1日、どちらが健康に過ごせたのか比べると良いか。
あるいはマスクをして家から一歩も出ずニュースを見続ける1日と、どこか自然豊かな場所でノーマスクでピクニックやハイキングを楽しむ1日を比べてどちらが健康に過ごせたのか比べて見ると良いかも知れない。

人類は2万年近く、医者もいない、国家に「守られて」いない大自然の中で手仕事をしてきた。ここ数百年で生活を便利にし過ぎて手仕事を忘れた。「不安」と「未来」に囚われて思考力も情緒も退化して今後は衰退の一途を辿るのか、重要な岐路に立たされていると言えなくもない。SDGsが単なる机上の空論やヘッジファンドや詐欺師の言い訳として終わるのか、あるいは別の形で、持続可能な社会が民衆の手によって実現される、あるいはもう既に答えは歴史の中に隠れているのか…

…とかそんなおおそれた空想ではなく、今これを読んでいるあなたの幸せとより一層の発展の為に参考にしていただきたいものである。

以上です。ありがとうございました。

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