モブのみなさん、お元気ですか

この文章は「行動展示に関するいくつかの考察」 Advent Calendar 2017の参加記事です。
https://adventar.org/calendars/2667

行動展示アドベントカレンダーがいよいよ終わろうとしています。
今までの記事も楽しみに待ち、楽しく読ませてもらっていました。


そう、私はこの行動展示アドベントカレンダーを毎日楽しみにしていたのです。

それは、何を隠そう私は「こんな感じで皆が行動展示について意見を交わせれば面白いだろうな」と思っていましたし、
その思いこそが行動展示アドベントカレンダーが生まれる一つのきっかけだった(と私は思っている)のです。

私が望んだから、このカレンダーは存在している。そういっても過言ではないのです。

いきなり何言ってんだこいつ、ってなりますよね。

順を追って説明をしましょう。


以前、kikiさんと私とその他もろもろがいる場で、kikiさんから
「(例えば)ナゾガクとかで行動展示っていうのをやりたい」
という話を聞きました。

この時kikiさんが話した「行動展示」は、皆さんが読んだものとほとんど同じです。
違う点は2点。
1点は、その企画説明にお客さんがどのような感情を得るかという流れ(予想であり作者の意図)が含まれていた点。
もう1点は、それを実際に部屋を借りて実施するという点です。

私は行動展示の話を聞き、とても面白い試みだと思う一方で、
絶対にやるべきではないと思い、その理由をkikiに伝えました。

その間、周りにいた人から同意を得たり反論があったりと色々と盛り上がりました。

そして私は最後にこう締めくくりました。


「行動展示はさっきも言ったとおり、現状の形ではやるべきではない。
でも、もし今の鋭さを保ったままの代替案が思いつかないのであれば、
部屋にこの企画書そのものを掲示して、お客さんにはそれを読んでもらい、
皆がどう思ったかを語り合ったり書き残してもらうのはどうだろうか。
この企画の面白さを残しつつ、危険性は排除され、
そして新たな楽しみがそこには生まれると思う。
現に今この場がこんなに盛り上がったのだから。」


このように提案したのは、私自身が「他の人はどう思うのだろう」と興味を持ったからというのもあります。

その数日後、kikiさんは行動展示をweb掲載し、アンケートを募ったり、小説を書いてもらったり、アドベントカレンダーを作ったり、と持ち前の行動力をフルに発揮し、今に至るわけです。
そのkikiさんの行動力にはいつも驚かされます。さすがですね。

kikiさんが私の発言をきっかけにこういった一連の行動をしたのかはわかりませんが、
結果として、私は様々な人が感じた「行動展示」を知ることができ、なんかめっちゃラッキーでした。

では、そこまで「行動展示」のことを面白いものだと思っている私が、なぜ「行動展示」をやらないほうがよいとkikiさんを止めたのでしょうか。


1つはシンプルに、悪意に弱い人にとってこれは猛毒になるからです。

イベントの性質上「悪意に弱い人は参加しないでください」とは明かせません。
ですが、このイベントで行われるものは、「自身の行動を知らない人に知らないうちに見られる」「見世物にされる」というものであり、精神的にかなりキツく感じる人もいるでしょう。

私は耐えられるでしょうし、その悪意を面白がるでしょうが、そうでない人も容易に想像が出来ます。
しかもその後のフォローやケアも一切なく外に放り出されるのです。

私に思い浮かんだ最悪のシナリオは「精神的に病んでいる人が気を紛らわせるために遊びに来たところ行動展示に入ってしまい、悪意やら脅迫観念やら監視妄想などの猛毒を浴び、最後の一押しをされてしまう」というものです。

そんな数少ないリスクを気にする必要はないと思うかもしれません。
私も「リスクがあることはやるべきではない」とは思いません。
しかし、製作者はそのリスクまで考え覚悟をした上でやる必要があると思っています。

行動展示は尖ったイベントであり、そこを削り取ってしまえば価値が減ってしまう。
だからといって鋭利さを保つならばその危険性は考慮すべきだと思ったのです。


もう1つの理由。それは「これを十全に体験が出来る人は少ない」ということです。


行動展示の面白いところは、『主人公体験と観客の存在』だと思っています。

第一の部屋で主人公として行動をし、
第二の部屋に入ることで、第一の部屋での自身の存在は主人公ではなく操作されていた側だと気付き、「自分こそが主人公だ」と行動をし、
第三の部屋で、第二の部屋での自身の存在は第三の部屋の観客によって観られていたことがわかり、
第四の部屋という名の現実世界において、第二の部屋と第三の部屋だけでなくあらゆる場面で主人公行為と観客が存在することに気付く。

第一の部屋の「悪意によって翻弄される主人公」と第二の部屋の「観客」という関係性。
第二の部屋の「人を悪意で困らせる悪役的主人公」と第三の部屋の「観客」という関係性。
第三の部屋の「自身の悪意を監視されていたことに心をえぐられる主人公」と第三の部屋の人自身が生み出す架空の「観客」という関係性。
第四の部屋という名の現実世界において、第三の部屋で生み出した「架空の観客」とそれにより自身が「主人公」となる関係性。

主人公には観客が付き、観客が主人公を生み出す。
観る者と観られる者。
そんな関係性をこのイベントは刷り込んでいると感じました。


そして、これらの「主人公」と「観客」は、お客さんが生み出すものであり、「行動展示」とはそれを実現するための「場」にしか過ぎないのです。

そして、この「場」はあまりにも誘導力が弱いと感じたのです。

体験してほしい感情があり、場を提供するには、あまりにもお客さんに委ねてしまっている部分が多いのです。


例えば、第一の部屋の人がランダムに光るブラックライトをまったく追わず透明なインクを無理やり読もうとし始めたら、第二の部屋の人が得られるはずの「悪意を持って人を困らせる」体験は失われてしまいます。

例えば、第二の部屋の人が第一の人のことを思って読みやすいようにスイッチを操作したら、第一の部屋の人が得られるはずの「他人の悪意で困る」体験は失われてしまいます。

例えば、第二の部屋の人が無心でスイッチをランダムに操作したら、第三の部屋の人が得られるはずの「悪意を持って楽しんでいる人の様子を観客として観る」体験は失われてしまいます。(察することは出来るかもしれませんが)

例えば、第二の部屋で特に悪意に目覚めずクリアをしたら、その人は第三の部屋に入ったときに人の顔を見せられても何を感じ取ればよいかわからず「悪意を人に見られていたことに気付く」体験は失われています。

例えば。
例えば。
例えば。


つまり、お客さんが色々と察して気付き自発的な行動をすることがイベントを成立させるために必須となっているのです。

しかし、お客さんが製作者の意図通りの行動をとってもらうように様々なガイドを用意すると、それはお客さん自身が考え行動をしたという「主人公」体験を失うことにもなりますし、なんだか説教くさいイベントになってしまいます。


ここからは(ここからも)私の偏見になりますが、様々なイベントを経験して謎という頭を使うゲームを好む謎解きクラスタですら、行動展示の意図を理解できない人は大勢いると思っています。

今まで謎解きゲームに参加したりスタッフをしたりしてきた中で、察しの悪い人たちをたくさん目にしています。想像以上にいる。
なぜ、謎を解いたという充実感や閃いたことによる爽快感を味わえそうにない、察しの悪い人達が謎解き好きでいられるのか。

ここでとある方のセリフをうろ覚えで拝借します。

「我々は主人公体験を売っている。これを買うのは主人公になれない人たちだ。主人公になる力がないやつらを騙して、主人公になった気分を味あわせるのが我々の商売だ」

私はこの発言を聞いて、謎解きクラスタの人たちについて抱いていた疑問が腑に落ち納得しました。


チームで謎を解くゲームにおいて、同じチームにいた賢い人が活躍してクリアしたとしても、その成功体験でなんだか賢くなった気がする。
大勢の人が失敗しているので、自分が失敗しても劣っている気がしない。
賢くない人が賢い気になれる、主人公になれない人が主人公になった気分になれる。
謎が解けなくても、謎解きゲームを好きになれる。
だから察しの悪い人達も大勢いる。


そんな大勢いる察しの悪い人には、行動展示は刺さらないし、前後の人の体験を奪うことにもなる。
ただ、察しの悪い人に主人公体験をしてもらうように色々と手厚くサポートしてしまうと、前述したとおり主人公体験を奪うことになってしまう。

私には失敗する未来しか見えなかった。

だから、現状の形で出すのはやめるべきだと考え止めたのです。


kikiさんは、行動展示を実際にやらず、kikiさん自身が予想(意図)した人々の動きを削ぎ落した状態で企画書を提示し意見を募る形で公開しました。

これは、実際に実施したときに主人公体験できたかもしれない人達から、主人公体験を奪ったことになります。
代わりに、行動展示を体験する架空の主人公を想像し、その観客となったのです。

こうして行動展示は、皆が平等に体験できるフェアなイベントとなったわけです。
代償として、あなたが座れたかもしれない主人公の座は消し去られました。


私の発言で主人公になれなくなったモブのみなさん、お元気ですか。
私は元気です。

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