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帰営坂

 そういう名はないのだが、帰営坂と呼ばれる坂がある。まるで軍隊が兵営にでも戻るときにある坂のようだが、坂の上にあるのは軍営ではなく研修所。大手企業の研修施設。宿泊もできるが寮ではない。当然保養所でもなく、訓練するところ。そこで訓練を受けた社員が、研修の一環として外に出る。つまりセールスのようなものだが、セールスマンにとってはそこは戦場。何組かに別れ、散って行き、夕方に、この坂を上り、宿舎に戻る。だから、その社員達が呼んでいる坂で、地元の人は、そんな呼び方はしない。単に坂と呼んでいる。名はない。
 その施設がお寺だとすれば、そこから托鉢に出掛けるような感じで、念仏坂に似ている。
 模擬営業のようなものだが、営業が目的ではなく、その営業の仕方、セールスのやり方を教えてもらうのが目的。しかし、やっていることは本物のセールスで、成立することもあるが、そんなことは滅多にない。それよりも研修が目的。各チームには指導員がつく。研修者の目的は営業ではなく、合格点をもらうこと。
 その夕方、遠くまで出ていたひと組が帰営坂に差し掛かった。指導員と研修者合計四人ほど。研修は夕方前に終わるのだが、このチームだけ帰りが遅い。
 帰営坂の途中で、一人が止まってしまった。
「沢山歩いたからね、大丈夫、坂本さん」
「はい、足が重くて」
「他の二人も大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「もう少しだから頑張ってね、坂本さん」
「はい、頑張ります」
「今日の成績は坂本さんが一番でした。合格点がやれますよ」
「有り難うございます」
「あとの二人は、もう一度明日行きましょうね」
「はい」
「山田さんは、あのーとか、あーとか、うーとかが多すぎますから、半分ほどに減らせば合格です。明日頑張ってください」
「はい」
「篠塚さんは相手の目を見ていませんでしたね。頑張って、見ましょう。目を見るのが怖いのなら、目と目の間を見るのです。眉と眉の間でも、鼻でもいいですよ。そうすると、簡単に見られますから、明日は半分ほど、そうして下さい。それで合格点を差し上げられますからね」
「はい」
 四人は帰営坂を上り、施設に向かった。
 この大手企業の研修会、昔は厳しく、辞めていく人が多いだけではなく、指導者もしんどくなるようで、今では形式だけになっている。
 
   了

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