日常の積み重ねで良いんだ~8年前の3月11日に思いを寄せて~

 昨日、8年前の大地震のことをうまく書けず、何故だろうと考えた。いつもとほとんど変わらない日常が過ぎていき、その中でまとわりつく心の痛みを感じていた。

 今日のほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)「今日のダーリン」で、糸井重里さんがこんなことを書いていた。

8年目の、8という大きな数字が、
 なにかの決意を求めていたのでしょうか。
 「日常のなかであの日を思おう」というモードに
 切り替えを仕掛けているようにも思えました。

 昨日書いたような私の抱える気持ちは、もしかしたらとても自然な流れなのかもしれないとも思う。

***

 あの日から津波の夢をよく見る。何人かのつながりや友情を失った。でも津波の被害に遭ったわけでもない。家や夫の職場、家族を失ったわけでもない。被災者と呼べない立場。でも原発事故の、見えない被害。それは小さな心の傷。これだけでこんなに傷つくものだろうか?

 あの日。
 その時間は、自宅にいた。
 あっ。揺れている。
 と思ってからが長かった。少しずつ大きくなってくる。慌ててテレビをつけてアパートに備え付けのカウンターの下に潜り込んだ。いつも観ている地方局のアナウンサーがヘルメットをかぶって「皆さん、気を付けて下さい!」と呼びかけている。揺れはどんどん大きくなる。カウンターの上のコーヒーポット、薬箱がガシャンガシャンと音を立てて落ちてきた。手にしていた携帯で夫の番号を押そうとしたが手が震えて全然正確に押せない。何度も何度も試みて、ようやく夫の番号にたどりついたけれど、当然つながらなかった。まだ揺れている。大きくは揺れていたが、阪神大震災の時の激震がこの後やってくるのかと思うと、恐怖心をずっとあおられた。長かった。
 夫は早々に戻ってきた。
 息子は。
 集団下校するのだろうか。阪神大震災の記憶から、道路が裂けていたり、信号が動いていなかったり、大変な混雑だったりして、車で行かない方が良いと判断した。でも冷静に考えてみれば、ここは田舎で、学校までの道中、歩いて行ける距離。大変な混雑になっているはずがなかった。その時は夫と「まだかな」とそわそわしながら、外を見るばかりであった。そのうち、ピンポンと鳴って、同級生のお母さんが、息子を連れて帰ってきてくれた。「連れ帰ってきちゃったよ」という奥さんに、「ありがとう!!」とすがるようにお礼を言って、まだ小学2年生の息子に「大丈夫だった? 怖かった? 迎えに行けなくてごめんね」と言うと「お母さんに、阪神大震災の話を何度も聞いていたから大丈夫だったよ」と言って、そのままギュウとしがみついてきた。

 テレビをつけると、津波の映像が次々流れた。それは恐ろしすぎて、観なきゃ良かったのかもしれないけど、家族三人、身体が動かなくなってしまった。息子は、青白い顔をして「ごはん食べれない」と言って清涼飲料水だけ飲み、「トイレについてきてほしい」「もう寝たい」と言って、7時半には寝入った。

 それからあまりニュースを観すぎないように気を付けていたが、原発のことが言われ始めた。息子は津波の映像は辛くなるようだったけど、原発のことは夫とよく話していた。でもまったくわからない私は、かなり距離のある所に住んでいるにも関わらず、怖くなった。
 夫が説明してくれても受け入れられずに、「避難したい」と泣いて訴えた。間もなく食事が喉を通らなくなってしまった。

 夫は職場と連絡を取り、数日の休みをもらった。息子の学校にも連絡して、私たちは兵庫県宝塚市の実家に向かった。両親は温かく迎え入れてくれた。そこで夫は、何がどのようにどの程度、大丈夫かということを、落ち着いてきた私に改めて説明してくれた。
 友人たちもかわるがわる会ってくれた。「いったん心を元気にしてから、戻ったら良いやん」「ちょっと休んでいき」と言ってくれた。私の息子には「そっちではみんなそうじゃなかったかもしれんくても、お母さんは、阪神大震災のことがあったから、しばらく迎えに行かへんかったこと、わかってやってね」と言ってくれた友人もいた。息子が夜、寝ようと横になっている時に、「大丈夫だよ」と私の頭を撫でてきた。
 ああ。こりゃマズイ。息子にそんなこと言わせたらダメだ。それは私の役割だ。

 ようやく、しっかりしなくちゃと思った。当時のことを夫は「ああやって避難して、自分たちの場所を外側から見たことは、良かったと思うよ」と言ってくれる。けれど、夫にも息子にも、私の感情につき合わせたことを、忘れてはならないと今も思う。

 その後、夫は、夫の説明で納得した私の様子を見て、そして仕事があるため、土日をはさんですぐに戻った。スーパーやコンビニの状況次第で、戻ってくる日を考えたら良いと言ってくれて、商品の品ぞろえ、ガソリンが届いているかの状況を伝えてくれた。何とかかんとか、ある物を、いつもとは違うやり方で売ってくれるコンビニ、流通が違うスーパーなどに行って夫は食材を手に入れていた。私と息子は10日くらいで戻った。

 そこに住み始めて、7年くらいが経っていた。田舎であるその街を私はずっと好きになれなかったけれど、そこで忍耐強く暮らしている人たちに、初めて愛情が湧いた。「私がアナタの立場なら、実家行ってる。行っておいでよ!」と背中を押してくれた友人もいた。離れる時、「戻ってきたい」と強烈に思った。

 でも戻ってきたけれど、風評被害もひどかった。

 日ごろ、目にしている田んぼが悲しい光景に思えてきた。農家の皆さんが、黙々と売れないかもしれない物を作り続けている。田植えが始まり、青々とした田園風景が、黄金色に変わり、刈り取りが始まる。何のためにやっているのか虚しくなることはないだろうか。その頃に、我慢の限界で避難を始めた友人もいる。今も親しくしているが、彼女は母親の介護や子供のことで、そちらの方に暮らしが移ってしまい、ダンナさんが単身赴任状態で自宅に暮らしている。当時、一番親しくしていた友人家族は、避難したまま2年近く違う土地で暮らした。結局、彼女のダンナさんの意向で今は違う土地に住んでいる。

 昨日、私の気持ちの中で何が起きているのかなと考えてみて、わかったことがある。
 私の東日本大震災での気持ちは、阪神大震災のトラウマの上にあること。揺れも、水が出なかった時も、人との関係も、ちっちゃな支援の仕方も、避難するかどうかも、その後の生活も、全部、阪神大震災の恐怖がよみがえっての心の傷なのだろう。
 今は多くの人が出て行ってしまった仮設住宅を毎日、目にして暮らしている。天気予報を見れば放射線量の数値が出てくる。忘れない日は一日としてない。これが何十年も続くのだろう。きっと、日常とするしかないんですよね。

 あの日を境に深まった友達との関係もある。一時離れていても、お互いを受け入れて復活した時にはずいぶん気心知れた間柄になっていた。この地で暮らす覚悟ができてから、車も住む場所も変えた。夫は仕事におおいに影響が出て猛烈に忙しくなった。今住んでいる所ならではのやりがいと共に、運命的なものを感じていると言う。そろそろ、年齢のための身体のこともあるから心配だ。ほんの少しペースダウンしてくれるのだろうか。

 なにか前向きに考えていくことができるとすれば、日々の「経験」しかない。これまでも積み重ねてきたように、また面白いことも思い出も、日常の中に一つ一つ重ねていけたら良いと思う。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。