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絵が下手だって、楽しく描けたら良い

 noteをあげる時、フォトギャラリーからのイラストや写真選びに、とても時間がかかる時がある。夕方の日差しでnoteを書いて、さあ後はフォトギャラリー、となってから気がつけば暗がりの中、必死で探している。
 イメージを検索するようになってからは、以前より、さっさと選べるようになったけど、それでも「決まらない~!」と疲れる日がなくもない。
 たけのこさんの「写真から書いてみよう」を読んで、なにそれすごく楽しいアイディア! 面白い。と思った。毎日書き続けたからこそ浮かんだアイディアなのかもしれませんね。​


 それに対して私は「目をつぶって「これ!」とランダムに指差して、そこから考えるくらい冒険してみたい」なんてコメントしている。さらに「私の貧相な引き出しでは何も思いつかないだろう」と思っている。
 でもちょっとお遊びで、目をつぶって、右手はスクロールしながら、左手でエイヤ! とパソコンの画面を指してみた。
 「……。」
 ツクシか……。

 なんだよ、思いついちゃった。

 そんなわけで、早速パソコンに向かっている。

 私が住むこの辺りは田舎なので、田んぼの横にボーボーにつくしが生えているのを見る。もちろん息子が小さい頃にはしゃがんで「ツクシだよ」「すごいね」なんて言って見たものだった。何度も見たはずだった。

***

 「絵を描くこと」について、ずいぶんと意識過剰になっている時期があった。自分が描くものは「それほど上手ではない」認識はある。でも息子のそれはかなりのものだ。「アメトーーク」で「絵心ない芸人」の仲間入りが多分できると思う。「アメトーーク」が今後どうなるかなんて議論は、置いといて。
 
 母方の祖父が油絵を趣味としていて、休日はほぼキャンバスに向かっていた。「私もおじいちゃんみたいになりたい」と言ってはいたものの、別に絵を描く仕事をしたいとか、そっち方面の大学や専門学校を目指したわけではなく、ただ何となくキャンバスに向かう祖父に憧れていただけだ。絵は上手とは言えなかった。やはりせっかちで雑なところがあって、向いてもいなかった。でも決して嫌いではなかった。

 私、苦手なんだな。とハッキリ自覚したのは、帰国子女として帰国してすぐ。図工の時間に絵を描くと、色の塗り方を同級生に注意され、先生に指導された。縁を縫ってからはみ出さないように力を入れずに塗りつぶすと言われて、そんな決まりがあるのかと知った。無邪気に楽しむと、皆と違う仕上がりになる。後ろに貼られると「誰やこれ描いたん」「こんなのない」と笑われた。皆の絵がどれも似ているように見えて、自分の住む世界が、当たり前ではないのだと足がすくんで周りの音が聞こえなくなるくらい、座り込みたいくらい、クラクラした。この時の恐怖心は長く引きずった。これもきっかけの一つとして「同調圧力」の存在を知る。

 それでも何となくやり過ごしていった。図工で皆のが発表される度に、なるほどこういう風に描くんだと知っていって似た感じにするように気を付けた。壁に貼りだされる度に、自分のが皆のと違うのではないかとハラハラして怖かった。

***

 息子ができて、近くの保育園に連れて行った時。
 真っ白なうちわが配られ「こんな風に折り紙を使って、好きな絵を完成させて下さいね」と色のキレイな折り紙を切って、花火の絵にしているものを見せられた。
 夏らしく海と船と雲にしよう。雲は白で、真っ白なうちわには映えないから、ちょっとおかしいけど、水色の雲にしちゃおう。
 完成して満足して周りを見回す。

 すると皆が皆、花火の切り絵で仕上げていた。つまり見本と同じ。
 
 その瞬間にわいた感情。
 
「私の子育て、大丈夫だろうか」

 怖くなった。

 息子に辛い思いをさせる子育てになってやしないだろうか。今後、学校で息子は馴染めるのだろうか。

 さらにはその後、幼稚園で息子の作品を見て、言葉を失うことが度々あった。私の育て方と関係なしに息子の絵や作った物は際立って下手だった。
 「何とか良い所を見つけて褒めていく」。その作業を幼稚園も後押ししていて、作品に必ず親の感想を書かせた。さらに、悪い点を見つけてわざわざ指摘せず子供の良い部分を見つけて下さいとの注意書き。わかってるよ。わかってるけど……。ショッキングなほど下手な息子の絵や作品に泣きそうになった。それでも園長先生は息子の格別下手な絵を、学年全体の中で取り上げて褒めてくれた時もあった。

 息子が通っていたのは、そんな素敵な幼稚園だったのだ。

 ところが小学校に入ってから様子が変わった。

 一年生の時の先生が「バナナの形は三日月。りんごの形は丸。そういったことをご家庭で心掛けて見せて教えてやって下さい」と、面談で言ってきた。

 は。
 
 も、もしかして、我が家でそんな会話すらなされていないとでも? 或いは息子が見た経験がないとでも?

 また泣きそうになって帰宅し、夫と話した。
 すると夫は、「バナナが三日月でりんごが丸、だなんて、そんな決まりきったことをわざわざ教えてそのように描くような子にならなくたって良いよ! そんな風に、人に言われたことをそのまましかしないような子は、この先もきっとそのままだ」と言った。
 
 そこで私が小学生時代の、絵にまつわる辛かった話をした。「みんな、何で似たような絵になっていたの? 私は絵を描くのが好きだったのに、すごく図工が嫌いになっていった」。夫が教えてくれた。「そりゃ周りを見ながら描いていたからだよ。僕だってそんな風にしなくちゃいけない図工は嫌いだった」。

 なんだと。なんですと?! なんと言った今!!

 私はずっと気づいていなかった。「皆が周りを見ながら描いていた」だなんて。後ろに張り出されたのを見てから「そうか。こんな感じで描いていこう」と思い、次に描く授業で「では取り掛かりなさい」と言われると、皆と違うのかなと心配するより先に、思いついた物をさっさと描いていた。そして壁に貼り出されるまでハラハラする。その繰り返し。

 みんな周りを見ながら描いていたんだ!! その中には不本意に思いながら描いていた子もいたんだ!……知らなかった。アホか私。

 と思ったけど、今となってはそこら辺だけでも無邪気で良かったとも思った。周りを見ながら描くなんて気づかなくて良かった。私がもしも私の親なら、やっぱりそのままのアナタで良いと言うだろう。

 息子はどこまでも絵が下手だったけれど、それからも私は頑張ってどこかしら良い部分を見つける努力をした。当時の担任の先生には、「私、帰国子女で、自分の絵だけ皆と雰囲気が違うことに辛い思い出があるんです」と話した。1~2年生の時の先生は、3年生以降の先生より理解があり、外国人もいたクラスだったので慌ててフォローしてくれた。私のその発言に対しても、息子の絵に対しても。

 でも2年生の春。その瞬間はやってきた。

 参観日の時に見た、後ろに張り出された絵。

 皆、ツクシを描いていた。茶色っぽくて、先が小さく丸いつくし。

 でも息子のだけ、薄い緑色。先は大きな三角だった。

 自分が小学生だった頃の辛い記憶がよみがえり、足がすくみ座り込みたくなった。頭がクラクラした。

 そしてこれを受け入れなければと思った。息子も周りを見て描くような子ではないのだ。だからツクシの記憶が曖昧でも、自分なりのツクシで良いと描いたのだ。

 その後も中学生になって、木箱のフタに絵を描く授業で、皆が幾何学模様を描いていたのに対し、息子だけサイコロの絵だった時には、息子を褒めた。もう何年も経ってくるとさすがに私も慣れてきて、「○○(息子の名前)のだけ絵が違ってすごく良かったよ!」と言えるようになっていた。息子はといえば、「えっ。みんなどんなの描いていたの?」と動じていなかった。

 高校生に入り、二年生になると、もうそういった授業はないけれど、高校一年生の時、副教科の一部が選択制で、息子は美術を取った。授業にも工夫があったらしく、仲の良い子の一人もその中にいて「楽しい! ○△(友人)はすごく上手いんだよ」などと話してくれていた。
 絵が上手ではない息子。ツクシが薄緑色の三角だったけれど、小学校高学年の頃には図工が嫌いになってしまったけれど、高校生になった今では楽しむ程度の気持ちだけでも戻って良かった。

***

 ああこの「絵が下手だったけど…」って内容、いつか書こうと思っていた。たけのこさんのこの企画で、「ツクシ」の写真を選び、これを書くきっかけとなるなんて。楽しかった。またそのうちにやってみたい。ランダムに、先に写真を選んで書く。

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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。