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バカにつける薬はない 第一回

  一 幼なじみ

「アディ……」
 サリルが顔を上げ、手をそっと重ねてきた。
「アディ、あなたは決めなくてはいけない。あの村に戻るか、こちらに来るか」
 サリルの柔らかく温かい身体が、アディを優しく包む。
 慈愛にあふれた、その身体が。
 だが今、彼女から突きつけられた選択は、それとはうらはらに冷たく厳しいものだった。背筋が震えたのは、今いる薄暗い部屋がじっとりと冷え込んでいるからだけではない。
 外の嵐はごうごうと鳴り響き、みぞれ混じりの雨粒が窓を激しく叩いている。
 ほんの数ヶ月前には、こんなことになるなんて、アディはみじんも思っていなかった。

 いつもと変わらず柔らかい日差しが降り注ぐ朝の田舎道を、アディは歩いていた。麦色の髪に利発そうなくっきりとした目、優しそうな顔立ち。年は十四になったばかり。最近背が伸び始め、子供から少年へと、その身にまとう雰囲気が変わってきた。
 道のはしを歩いていると、そこかしこに、わきの果樹園に入る馬車のわだちが刻まれている。今はリンゴの収穫期に入ったところで、積荷の重さでわだちは深い。それにつまづかないように、アディは気を配りながら歩く。アディの家は村の外れにあり、中央の教会に併設されている学校へ行くには、少しばかり時間がかかる。
 なだらかな丘陵地に囲まれ、すりばち状になった村は、四方から全体を見渡せる。中央に高くそびえるのは教会の尖塔。教会は、木造の小ぢんまりした家の多い村の中では、群を抜いて大きな建物で、白い壁と黒い屋根の対比が鮮やかだ。
 教会の前には広場があり、そこから外に向かって街道がいくすじか伸びている。街道沿いには家が立ち並び、小ぢんまりしていてもきれいに手入れがされていて、庭や窓際には色とりどりの花が飾られている。
 家は広場を離れるに従いだんだんまばらになっていき、代わって畑や果樹園、牧草地が広がっていく。さらに外側、周囲の丘には、木々が生い茂っている。
 そしてその奥には人の背丈よりずっと高いレンガ造りの壁が連なり、村をぐるりと囲んでいた。
 壁は空へと続き、青い空を、大きく弧を描く巨大な梁が支えている。
 いつもの見慣れた光景だ。
 道のわきの果樹園では、朝早くから村人が仕事に精を出していた。その中の一人、彫りの深い顔をした細身の老人が、道を歩くアディに気がついて声をかけた。
「よう、アディ。学校か?」
「はい、カシスさん」
「しっかり勉強しろよー……って、そんなこと、お前さんには言わずもがなか。村一番の優等生だもんな。うちの孫にも少しは見習ってほしいよ」
「そんな……」
 アディは照れた。上級生の誰よりも勉強が進んでいるのは本当だが、面と向かって誉められると恥ずかしい。
「でも、キラサはいい子ですよ。運動は得意だし」
 カシスの孫のキラサは明るく元気な女の子。確かに机の前でじっとしていられないやんちゃな子だが、みんなの人気者だ。八つになったばかりで、アディにもよく懐いていた。
「まあ、元気がいいのは取り得だあな。誉めてくれたお礼に、ほれ」
 カシスはぽんと、もぎたてのリンゴを二つ、アディに放ってよこした。アディは両手に一つずつ、上手いことそれを受け止めた。
「ありがとう、カシスさん」
 カシスの育てたリンゴはおいしいと評判だ。アディはそのリンゴを鞄にしまった。お昼に食べよう。
 カシスと別れ、そのまましばらく道を行くと、一軒の家の前に着いた。赤い屋根のこざっぱりとした家。よく手入れされた庭には色鮮やかな花々が咲いている。アディはその家の扉を叩いた。
「おはようございまーす」
「ほらマーシャ何してるの。アディが来たわよ」
 中から母親と思しき声がしたかと思うと、どたばたと慌てた足音がして、ばたんと勢いよく扉が開いた。息せき切って顔を出したのは、寝巻き姿の女の子。
 マーシャだ。
 くりっとした大きな目が印象的なアディの幼なじみ。今まさに起きたての様子で、肩にかかる栗色の髪は寝ぐせでぼさぼさだ。
 その髪の流れにつられて、アディの視線がふと下に下りる。目に入ったのはネグリジェの胸元。ほんのり丸みを帯びた二つのふくらみ。さらに下りると裾から見える、すらりとした、でも白く柔らかそうな太もも。
 最近マーシャはぐっと女らしくなった。見つめていると、どきどきとしてきてしまい、アディはあわてて視線を上げる。
 そんなアディの心の内に、マーシャはさっぱり気づいた様子はない。そもそも寝起きのそんな無防備な姿をさらしているぐらいだ。恥じらう様子もなくアディの手を取って、家の中へと引き入れた。
「ごめんねアディ、寝坊しちゃって。ちょっと待っててー」
「もう先に行ってもらったら」
 マーシャの母親エリルが、呆れたように声をかける。
「えー、やだー、一緒に行くー」
 マーシャはアディの手を離さず、首を振る。そして、置いてかないよね、と上目づかいで訴える。アディはうなずいた。
「いいよ、大丈夫。待ってるから」
 それを聞いたマーシャは嬉しそうに笑って、階段を上がっていった。
「いつもごめんねえ」
 エリルは苦笑いでアディに椅子を勧めた。そしていつものようにアディの分のミルクティーを入れる。そう、これはよくあることだった。
 生真面目なアディは約束の時間に少し早く着く。逆にマーシャはちょくちょく寝坊。小さな頃から、二人の関係はずっとそうだ。
 超特急で着替えたマーシャは、スカートをひるがえし、ばたばたと階段を駆け下りてきた。
「ほらもう間に合わないから、食べながら行きなさい」
 エリルに用意していたスコーンを持たされる。これもよくあることだ。エリルは手馴れた様子で、はい鞄、はいハンカチと、慌てる娘に手渡していく。
「はい。アディも一つ持っておいき」
「ありがとう」
 アディも焼き立てのスコーンを一つもらった。ほかほかだ。
 スコーンをもぐもぐと食べながら歩きだすマーシャ。ほおばる姿は頬袋に木の実を貯め込むリスのようで、愛嬌がある。可愛らしくて、それをながめるアディの頬も緩んでしまう。
「そんなあわてて食べなくても。ほら、こぼれるよ」
「うん。あ、アディのブルーベリー入りのやつだ。いいなー」
「いいよ、食べる?」
「うん、一口ちょうだい」
 マーシャはこちらを向いて、あーんと口を開けた。食べさせろということらしい。その口元にスコーンを差し出す。
 ぱくり。
「おいし」
 マーシャは目を細めてほほえんだ。その笑顔はどこかあでやかな色があって、アディの胸はとくんと高鳴った。
 でも口のわきには、ちょこんとスコーンのかけらがついている。大人になったのか子供のままなのか、アディはマーシャに振り回されてばかりだった。
「はい」
 期待に満ちた目をして、今度はマーシャが自分のスコーンを差し出す。
「?」
「あーんして?」
 どうやらアディに食べさせたいらしい。
「い、いいよ、僕は。ちゃんと食べてきたし」
「なんじゃあ、俺の酒が飲めねえって言うのかあ」
「なにそれ?」
「カシスさんのまねー。この間のお祭りの時に酔っ払ってたの。はい、あーん」
 無邪気にマーシャは勧めてくるが、アディはちょっと恥ずかしい。しかし結局押し負けて、マーシャの手から食べさせてもらった。
「おいしい?」
「……うん」
 本当は、スコーンを口にした時マーシャの指が唇に触れて、その柔らかさにどきどきしてしまい味わうどころではなかったのだけれど。
 そんな二人に後ろからよく知った声がかかった。
「毎日毎日、仲いいわね」
 歩いてきたのは緩やかに編んだお下げ髪の少女。眼鏡の奥の落ち着いた色の瞳。少しきつい目元と整った顔立ちは大人びて見える。同級生のサリルだ。
「おはよ、サリル」
「おはよう」
「おはよう。その調子だと間に合わないわよ? 私のペースでちょうど一分前に着くぐらいだから」
 サリルは教会の尖塔についた大時計を指差して言った。とても几帳面な性格で、こういう計算は外さない。
「えっ、それは大変だ! 行こうアディ」
 それを聞いたマーシャは、アディの手を引いて走り出した。
「ちょっ、マーシャ」
「ほら、急いで、急いで!」
 アディの抗議に耳を貸さず、マーシャはぐいぐい走っていく。すぐに教会の裏に建てられた学校に飛び込んだ。
 学校には村の子供たちみんなが集まる。全員といっても百数十人ほどなので、上級生から下級生まで、だいたいみんな顔見知りだ。
「おはよー」
「おはよ!」
「あー、アディとマーシャ、なかよしさんだー!」
 朝のあいさつがせわしなく交わされる。手をつないだまま駆け込んできた二人は、小さな子たちにはやし立てられた。
 そんな子たちに、マーシャが大げさに顔をしかめて、いーと歯を見せ応えてみせて、二人はそのまま教室に入る。走った分、時間を稼いで、始業五分前。
 古い木造だがきちんと磨かれた教室は、それほど広くはなく、机を二十も並べればもういっぱい。だが、三つだけだとさすがに寂しい感じだ。
 この村では毎年十数人ほどの子供が生まれるのだが、アディ達の生まれた年はたまたま子供が少なくて、アディとマーシャの二人だけだった。前後の年は逆に子供は多くて、アディたちをどちらかの教室に一まとめにすると手狭になる。サリルが転校してきてからは三人だけのクラスがずっと続いていた。
 その机が三つの教室につくと、うーん、うーんとマーシャがうなりだした。
「おなか痛いよう」
 おなかを抱えて机にふせっている。原因は考えなくてもすぐ分かる。アディは心配してのぞき込んだ。
「食べてる最中に走り出すからだよ。別に走らなくても、サリルと行けばちょうどだったのに」
「だってえー」
 遅れて教室に着いたサリルが、事情を察知して声をかける。
「先生に言って、少し休ませてもらったら?」
「うーん、やだ。いたた」
「ほら、勉強にならないじゃん」
「やなのー」
 最近マーシャは少し変だ。さっきみたいな突拍子もない行動をとったり、かたくなにわがままを言ったり。アディは首をひねった。
「どうしたのマーシャ。みんな心配してるんだよ? 素直に保健室に行こうよ。ついてったげるから。ね?」
「ううー」
 それでも机から動こうとしないマーシャ。なぜかアディを見上げる顔には困り果てたような抗議の色。
 それを見ていたサリルが、くすりと笑った。
「マーシャは私に、アディと二人でいて欲しくないのよね」
「えっ、何で?」
 突然の言葉にアディは驚く。話の関連性がつかめない。そもそも今までずっと一緒に仲良くしていたのだ。急にそんな話になるはずがない。
 ところが、マーシャを見ると、まさに図星を突かれたという顔をしている。
「最近ずっとそうだもんね。私がアディに色目を使うから。でしょ?」
「え? え?」
 話の展開にアディは全くついていけない。何でサリルが僕に色目を使う? そして何でそれをマーシャが嫌がる?
しかし、女の子二人の間では、不明なところは何もないようだった。
 サリルは席を立つとマーシャのわきへ。マーシャを見下ろす格好だ。いつものようにあまり表情を見せないサリルと、おびえるように身を固くしているマーシャ。蛇ににらまれる蛙とはこのことか。
 そんなマーシャを見たサリルは、口元を少し上げてあでやかな笑みを見せた。そしてマーシャにのしかかるように屈み込むと、耳元でささやく。
「可愛いマーシャ。そんな心配をすることはないのに」
「え? サリル?」
 驚くマーシャの髪をそっとなでつける。
「だって私の好きなのはマーシャだもの。ああ、マーシャ、食べちゃいたい」
 そのまま、はむ、と耳たぶをついばむ。
「え、あ、ちょっと、いやん、やめ……」
 サリルの手は髪から肩、そしておなかに下りていった。そのまま愛しそうになで回し、そこかしこに口づける。完全にラブシーンだ。
 うわあ。奥手なアディは声も出ず、真っ赤になって呆然とながめていた。
「や、やめて……。きゃ!」
 身をよじって逃れようとしていたマーシャが、バランスをくずして椅子から転げ落ちた。それに素早く反応して、サリルはさっと片膝立ちで支える。
 膝の上でマーシャを抱えて、上からのぞき込む格好になった。
「あ、あの、さ……サリル? 本気じゃない……よね?」
 こちらも真っ赤になってとまどうマーシャ。
 何も言わず、サリルはじっと見つめていた。
 一瞬の緊張の後。
「うん、冗談」
 サリルはマーシャを引き起こした。
「マーシャはからかうと面白いから」
 しれっと言う。サリルにはこういうところがある。普段は真面目で、あまりはしゃぐタイプではないのだが、急にいたずらを仕掛けてきたり、べったりスキンシップをしてきたりする。マーシャとアディは遊ばれる側だ。
「でも、赤くなるマーシャが可愛すぎて、本気になってしまったかもしれない」
「もーだまされないよっ!」
 今度は明らかにからかっていると分かる顔で告げるサリルに、マーシャはかみついた。けれどすぐ弱気な口調になって、言葉を継ぐ。
「でも……あの……最近よくアディの事をじっと見つめているのは、どうして……?」
 本当に心配しているようだ。
「それは気のせい」
「ほんと? ほんとにほんと?」
「でも私とマーシャのどちらを選ぶか、決めるのはアディだから」
「ええっ、どっちなのよう」
 すがりつくマーシャに、サリルは無表情に見えて、やっぱりうっすらからかうような顔。そしてアディは取り残されるばかり。
 マーシャがサリルに嫉妬して、それで僕から遠ざけようとしていたってことは、マーシャは僕を好きだってことで、昔から仲良かったけどそんなことになってるなんて、そんな素振りは全然気がつかなかったけれど、僕もマーシャ見るとドキドキするようになっちゃってるし、そしたら僕もマーシャが好きだということなのか、でもサリルはいったいどっちなのか、それも気になるってことは僕は……。
 考えもまとまらず、顔を赤くしながら立ち尽くしていた。そんなアディの様子を横目でちらりと見たサリルは、やはりくすりと一つほほえんで、マーシャに向き直った。
「ところでおなかの調子は?」
「え、あ、あれ? 痛くない?」
「食べて運動するとおなかが痛くなるのは胃腸の痙攣だから。マッサージして治めたの。ただなで回してたんじゃないんだよ。お父さんから習ったコツがあるの」
「ええっ、サリルすごい! ありがとう! さすがお医者様のとこの子だね!」
 サリルは村の医院の娘だ。正確には養女で、数年前、他の村から教会の人が連れてきた。物珍しさもあったし、サリルが来て三人だけの教室になったことも幸いして、三人はすぐ打ち解けた。それ以来の仲のよい関係だった。
 けど。
 もしかしたら、その仲も少しずつ変わっていくのかもしれないと、まだ火照る頬を感じながら、アディは思った。
 その時がらりと扉が開いて、先生が入ってきた。ウルナ先生。すらりと細身の、さっぱりした性格をした女の先生だ。
「はーい、おはようー。あれ、みんな集まってどうしたの?」
「なんでもないです」
 みんなあわててそれぞれの席に着く。あいさつの後、連絡事項の伝達。その中に明後日に迫った結婚式の話があった。学校の子供たちは、聖歌隊やエスコート役で出番がある。大役なので、子供たちの間ではその話で持ち切り。みんな式を待ちかねていた。
 先生の話が終わると、授業が始まった。
「じゃあ聖典を開いて。みんなそれぞれの勉強を始めましょう」
 この学校で教えているのは、読み書き、音楽、体育、美術、そして聖典の勉強だ。
 聖典の授業は、みんな進みがばらばらだ。各自のペースで、一つの章を分かるようになると次に進む。
 聖典を開く。文字と共に数字と記号が並んでいる。これは神の声を表した物。この世界の理(ことわり)を表しているのだ。これを全て理解できれば、創世の時代に世界に埋め込まれた神様の言葉が理解できるようになるとされている。
 ただ、この村でそこまで聖典を進められた者はほとんどいなかった。先に進むほど難しくなり、学校で習ううちには終わらないからだ。何しろ全部で何十巻もあるのだそうで、先生や教会の司祭様が分かっているぐらいじゃないかと言われていた。
「どう、アディ。問題は解けた?」
「はい」
 昨日から取り掛かっていた問題。難しかったけれど、何とか分かった。
「じゃ、読み上げてみて?」
「はい」
 アディは聖典を自分で紐解いたノートに目を落とした。
「えるぜっといこーる、えむかっこえっくすぶいわいまいなすわいぶいえっくすかっことじるいこーる、えむあーるこさいんしーたかっこでぃーあーるでぃーてぃさいんしーたぷらすあーるこさいんしーたでぃーしーたでぃーてぃ……」
 アディは呪文のような不思議な言葉の羅列を、言いよどむことなく読み上げていく。
「なので、にぶんのいちあーるじじょうでぃーしーたでぃーてぃいこーる、にえむぶんのえるぜっといこーる、にえむぶんのでぃー、です」
「すると結論は?」
「一定になります」
 ウルナ先生はその言葉を聞いて、ほうとため息をついた。
「お見事。完璧ね。さすがねえ。その歳で聖典をそこまで理解できた子は、先生初めてだわ。じゃ、お隣のマーシャはどうかな?」
「ふあっ?」
 アディの発表を、全く理解できないと、ぼーっと聞いていたマーシャは、先生に当てられ驚きの声を上げた。
「何変な声出してるの。さ、解いた物を読み上げて?」
「は、はい。ええーと……」
 おたおたとノートをめくる。この時点でもう手つきが怪しい。
「よんかっこえっくすまいなすさんかっことじるいこーるごえっくすまいなすはち、よんえっくすまいなすさんいこーるごえっくすまいなすはち、よんえっくすまいなすごえっくすいこーるまいなすはちまいなすさん、まいなすえっくすいこーるまいなすじゅういち、えっくすいこーるじゅういち、です」
 読み終わったマーシャは、そーっと先生の顔を見上げた。全く自信がないのが見て取れる。そんなマーシャに先生は優しく指摘した。
「じゅういちじゃなくて、まいなすよん、ね」
「……あー」
 やっぱりかと肩を落とす。先生も苦笑い。
「うーん、まだまだねえ。もうちょっとがんばってね?」
「はーい……」
 聖典の授業は休憩を挟みながらたっぷりと何時間も続き、アディとサリルはともかく、マーシャは青息吐息、虫の息となった。
「さあ、今日はこれでおしまい。気をつけて帰ってね」
 授業が終わった時にはもうぐったり。机に突っ伏してマーシャはぼやく。
「あーあ、いいなあアディは。もう、十三グレードの聖典使ってるんでしょ? サリルも九グレードだし。私はまだ七グレードだから、恥ずかしいよ。二人と一緒に勉強してると、自分が頭悪いの、つくづく分かっちゃう」
「あら、でもマーシャは読み書きではいい成績じゃない。人には向き不向きがあるのよ。子供たちにはマーシャの朗読が一番人気あるし。それも素敵なことだと思うわよ?」
 サリルがすかさずなぐさめる。それはアディも思った。マーシャの声は聞いていて心地よい。子供たちがお話をせがむのも分かる。
「そうかな……。えへへ」
 嬉しそうにはにかんで、マーシャは身体を起こした。ちょっと自信を取りもどしたらしい。
「うん、自分なりにがんばればいいんだよね。これでも前より分かるようになってるし。……あれ、サリル、帰るんじゃないの?」
 サリルは荷物を置いたまま、教室を出て行こうとしていた。
「ええ、ちょっと校長先生にお話があるの。父からことづかった用事なのよ。長くなるから、先に帰ってて」
「そう、じゃあね、また明日」
「さよなら」
 ということで、今日は二人の帰り道となった。鞄をかついだ時の手応えで、アディは中に入っている物を思い出す。
「そう言えば今朝カシスさんからもらったリンゴあるけど、食べる?」
「うん」
 二つもらったうち、一つをマーシャに渡す。
「おいしい! カシスさんのところのリンゴは格別だねえ!」
 マーシャはおいしそうにリンゴをほおばった。
「ねえ、アディ、真っ直ぐ帰る?」
 そう聞くマーシャの顔には、帰りたくないと書いてある。ちょうどアディもそんな気分だった。
「壁まで行こうかなと思ってるんだけど……一緒に来る?」
「うん!」
 街道を行き、丘を登りきったところで、壁にぶつかる。それは左右にずっと伸び、ぐるりと村を取り囲んでいる。ここが村の果て。世界の果てだ。
 この壁の向こうには何もない、虚無の世界だと教えられている。虚無の世界ってなんだろうと教わった子供たちは考えるのだが、何もない状態というのを想像するのは難しい。実は死後の世界なんじゃないかとか、幽霊がたくさん漂っているんじゃないかというのが、昔からの定番の噂だ。
 だから壁自体にも薄気味悪いイメージがあって、みんなあまり近づこうとしない。けれどアディはここから一望する村の景色が好きで、よく来ていた。樹木や草花や虫を観察するのも好きなのだ。マーシャもアディにつきあって、ついてくることが多かった。
 けれど今日は、ちょっといつもと違う。マーシャの方が来たがっている雰囲気だ。いつも休憩する丘の上の大きな木の下に着くと、ちょんとアディの袖を引いた。
「ねえ、アディ。今日、私のこと、いやな子だと思った……?」
「え? いや、そんなことないよ」
「サリルだって友達なのに、あんなこと考えるなんて、だめだよね。でも、私ね、最近アディのこと考えると、ちょっとおかしいの……」
 顔を赤らめ、うつむいている。
「アディのこと、ずっと好きだったけれど、それだけじゃなくて……」
 上目づかいにアディを見つめる。
「ね、キスして……?」
「え?」
 とまどうアディ。顎を上げ目を閉じるマーシャ。
 真っ赤に染まる頬。ふっくらとした唇。吸いつけられるように、目が離せない。
 小さい頃から好きだったマーシャ。そう、でも、もうそれだけじゃない。その仲も少しずつ変わっていくんだ。
 アディは意を決して肩に手を置き、少し引き寄せると、そっと唇を重ねた。
 マーシャの唇は柔らかく、そしてほんのりリンゴの味がした。
 千人ほどの村に子供はそう多くないので、誰が誰とパートナーになるのかは、子供のうちになんとなく決まる。アディの両親も、これぐらいの年頃にはもうこの人と結婚するんだろうなと思っていたらしい。
 アディもこの時には、このまま普通に歳を重ね、何事もなくマーシャと家庭を築く、そんなふうに思っていた。

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